シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜

第五話（最終話） 相称の翼

第十章：二 闇呪の恐れ

（もうどのくらい顔を見ていないのだろう……）

　闇呪あんじゅは通路を歩みながら、ふとそんなことを考えた。使者との謁見が、いつもより早く終了したせいだろうか。

　禍わざわいとなる宿命は失われ、朱桜すおうを相称の翼にしたのが、誰でもない自身であったという事実。
　闇呪あんじゅにとっては、これ以上はない幸運だった。
　もう何の後ろめたさもなく朱桜すおうと向き合えるはずだったが、事はそう簡単には運ばないようだ。
　彼女に刻まれた恐れ。

　鬼きに侵された時に視た光景は真実だろう。自分と同じ顔貌で非道の限りを尽くした人影。
　朱桜すおうは自分を見るたびに思い出すに違いない。
　今でもなぜ救うことができなかったのかと、すぐに後悔が滲み出す。
　とにかく時間をかけて見守るしかないというのが、闇呪あんじゅの結論だった。

　金域こんいきに移り住み、日々が慌ただしく過ぎていく。その忙しさは、朱桜すおうが不在の日々を紛らわせてくれる。それでも少し物思いに耽る余裕が生まれると、すぐに会いたいという想いが忍び寄ってくる。
　闇呪あんじゅはこみ上げた衝動を払うように、違うことに意識を向ける。

　緋国ひのくにでの一件以来、大きく変わった世界。
　自分が次期黄帝となる。
　正直なところ闇呪あんじゅにはまだ実感がない。自分を取り巻く環境は大きく様変わりしているが、玉座につく資格があるとは、どうしても思えない。

　翼扶つばさに救われたが、絶望の果てに鬼きを受け入れた事実は消えない。禍わざわいとなり世界を滅ぼすかどうか、紙一重だったのだ。
　闇呪あんじゅという蔑称に等しい愛称については、四国で議論になっているらしいが、彼はそのままで良いような気がしていた。

　絶望に染まる弱い心。鬼きに心を空け渡し身を捧げた。その罰としてなのか、自身は今も闇を纏まとっているのだ。黒髪と黒い瞳。本来輝く肢体を持つはずの守護も、黒麒麟のままである。
　それでも彼らの血には、一時的に金を纏わせる力があるようだ。

　人々が闇やみを纏まとう姿を恐れてしまうことを気遣い、闇呪あんじゅは人前に出る時は守護の力を借りて金を纏うようにしている。だが、正式に玉座につく時には、ありのままの姿を披露すべきではないかと考えていた。

　これまでずっと世を滅ぼす禍わざわいであると言われ続けてきた。そんな自分が黄帝になることに意味があるのなら。
　人々に必要以上に鬼きを恐れてほしくない。否定してほしくないのだ。
　たしかに悪意に触れ厄災を招くが、それが人々の弱さを映した結果なら、時には向き合うべき事なのかもしれない。絶望の先に見える希望もあるだろう。

　天地界を形作る多くの理ことわり。けれど、語り継がれた理ことわりも掟おきても不完全なものだ。
　変化のない世界に身を委ねるのは易しいが、時には恐れを乗り越えて新たな変化を受け入れることが必要な時もある。
　自分の姿を戒めとして、その標しるべになれば良いと願う。

「我が君」

　麒角きかくの再生を遂げ、以前の姿を取り戻した守護の声が、静寂を守る通路に響く。付き従うように背後を歩んでいた足音が近付き、麒一きいちがさらりと提案を持ちかける。

「朱桜すおうの姫君にお会いにはならないのですか」

「まだ無理だろう」

「たしかに。ーーこのままでは、いつまでも無理です」

　麒一きいちの少し挑発的な物言いに気づいて、闇呪あんじゅは立ち止まった。背後を振り返る。

「何が言いたい」

「私には、姫君の恐れを言い訳にして、我が君も逃げているように見えますが」

　麟華りんかのように激することもなく、麒一きいちは穏やかに言い募る。
　闇呪あんじゅはふっと吐息をついた。
　朱桜すおうとの関係を守護が気にかけていることは分かっていた。麒一がしびれを切らすともう誤魔化すことはできない。

「そうだな。私は朱桜に嫌われたくない」
「それは、信じていない。そう言っていることと同じです」

　的確だとは思うが、闇呪は素直に快諾できない。

「麒一。私はただ時間が必要だという話をしている」

「我が君が距離を置くほど、姫君は恐れるのかもしれません」

「どうして？」

「我が君が恐れるように、姫君も恐れているかもしれない。ーー我が君に嫌われることを」

　莫迦げた言い様だと思ったが、なぜか聞き流せなかった。
　自分に思い当たる節があるからだ。何よりも、心が離れることを恐れている。

　労わりと厳しさが両立する麒一きいちの声は、闇呪あんじゅの胸底にある衝動を揺さぶる。
　鏡面のように動きのない水面に、そっと投げ入れられる一雫のように。

「恐ろしくない、何も恐れる必要がない。それを姫君に伝えることができるのは、我が君だけです」

　黒水晶のような瞳に自分を映し、真理を口にする。

「そして、我が君の恐れを払拭できるのも、また姫君だけです」

　守護の導き。これまでも、麒一きいちと麟華りんかには数え切れないほど救われてきた。
　闇呪あんじゅは降参の意味をこめて頷いた。

「今日はもう謁見も終わった。他に用向きもない。時間も許すだろう。ーー麒一きいち、私は久しぶりに朱桜すおうに会いたい」

　素直に打ち明けると、麒一きいちからは微笑みが返ってくる。

「はい。我が君の仰せの通りに」