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第五話(最終話) 相称の翼

第七章:二 朱雀殿

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 闇呪あんじゅから流れ出す血が、朱桜すおうに心の平安を与えない。加えてあかつきから聞かされた事実が、ぐるぐると胸の内を巡っている。

 出自に秘められた真実。

 知らずに背負っていたおもりが外された気がするのに、喜んで良い事なのか良くわからない。
 混乱している。
 生まれた時から、大切に思われていた。罪の子ではなかった。

(ーー宮様に、いろいろ聞いてみたい)

 あかみやには、朱桜すおうの出自を打ち明けることができない屈託があるのだと、あかつきは言った。どのような屈託であるか、朱桜にはよくわからない。本当に赤の宮は、自分を愛しいと思っているのだろうか。

(聞いてみたい)

 けれど、戸惑いがある。赤の宮が打ち明けることを望んでいないのであれば、やはり自分は知らないふりをするべきなのかもしれない。

朱桜すおうの姫君?」

 透国とうこく皇女みこに呼ばれ、朱桜すおうをハッとして、すぐにさっきまで座っていた場所に戻る。
 あかつきの話を聞くため、朱桜はひととき座を離れていた。闇呪あんじゅの横たわる居室まで、どうやって戻ってきたのかもわからないほど、思考が引き込まれていたらしい。
 いつのまに歩んできたのか、居室の傍らに立ち尽くしていた。

「大丈夫ですか?」

 皇女みこ兄皇子あにみこである白虹はっこうに劣らず、変化に目ざとい。朱桜は頷いて笑顔を向けた。箸が進まず、ほとんどそのままになっている膳と改めて向き合う。

 横たわる闇呪あんじゅがの状態が、朱桜をさっきまでの物思いから引き戻す。
 血の気のない人形のように白い顔。その蒼白さが止まらない血の赤を、余計に鮮烈に見せる。麒角きかくを抜く手立てもない。
 皇女みこに促されて、ゆっくりと箸を動かすが、何を口に入れても砂を噛むようだった。

「陛下、よろしいでしょうか」

 ふいに凛とした声が響く。赤の宮が現れ、朱桜の前で平伏する。朱桜はにわかに心が揺れる。さざ波のように震える心奥を感じて、いっきに気持ちが慌ただしくなった。

「宮様、私にそのような気遣いは……」

「陛下こそ、私に気遣いは無用です」

 女王ーー緋桜ひおうがゆっくりと面をあげた。

「陛下には数多あまたの心労がございましょう。本来であれば御休み頂きたいところですが、そういうわけにも参りません」

「はい」

 朱桜すおうはすっと姿勢を正す。緋桜の仕草に母親としての綻びがないかと考えていた気持ちを引き締めた。今は自分の出自に対して、感傷に浸っている場合ではない。

「本来であれば金域こんいきにお戻りになり、各国の王を招集すべきですが、今は危険が伴う可能性がございます。そのため、この緋国ひのくにから陛下の礼神らいじんを発揮していただきます」

 朱桜すおうは頷いた。不思議と自分にできるかどうかを疑う気持ちはない。黄緋剣《おうひのつるぎ》をこの手にした時から、膨大な力を感じている。自身の真名まなを知るように、解き放つ術も心得ていた。

 解き放った礼神らいじんをどのように活かすのかは、各国に委ねるべきことだ。
 朱桜は緋桜に促されるがままに、気を引き締めて闇呪あんじゅの傍を離れた。どうしても後ろ髪を引かれるが、麒角きかくを抜く手立てがない以上、傍にあるだけでは何の助けにもなれない。今はこれ以上成す術がない。そう言い聞かせた。

 朱桜は緋桜と二人きりになると、前を歩む背中に問いかけたい衝動がこみ上げる。

(ーー宮様が、私の母様かあさま

 たしかに顔貌かおかたちがよく似ている気がする。もちろん姉妹でも同様のことは起こりえるが、今となっては親子の証を映しているようにしか思えない。

(では、この髪は)

 他の宮とは違い、朱桜一人だけがうねるような美しい癖を持たない。まるで水に濡れたように、おさまりの良い直毛。

(父様はどんな人だったのだろう)

 先守さきもりであったことは、暁から聞いている。朱桜の先途みらいを占い、緋桜に託してこの世を去った。すでに亡き父親。

(この髪は、父様譲りなのかな)

 さらりと自身の長い髪を指で梳く。幼いころは罪の子である証だと感じていた髪。忌まわしいだけの頭髪だったが、暁に真実を打ち明けられてからは、忌々しさが失われていた。意識が変化していることに、改めて気づく。

「こちらからは朱雀殿すざくでん、王のみに許される場ですが、陛下にお越し頂けることは我が国の神獣も歓迎いたしましょう。どうぞこちらへ」

 内裏だいりの最奥だろうか。真っすぐに伸びる軒廊こんろうの突き当りに、見事な門があった。朱雀すざくを彫った豪奢な模様が扉を飾っている。空気がしんと張りつめ、静謐な力がこもっているような錯覚に囚われる。力のある何かが在る気配。緋国ひのくにの力の源。この疲弊した世を、各国の四神が何とか支えて来たのだろう。

 女王が門を開き、朱雀殿へと足を踏み入れると、途端にずんとした空気に襲われる。
 さっきまでの静謐さが嘘のような、足元が渦巻くような心もとなさに包まれた。
 何の調度もない伽藍堂がらんどうのような部屋。中央の台座に赤く輝く刀剣が刺さっている。

(女王の剣?)

 朱桜が目を凝らそうとすると、女王の玲瓏とした声が、聞き慣れない甲高さで響いた。

朱雀すざく? いったい、どうしたのです?」

 朱桜にはそれが普段と異なる気配であることがわからなかったが、緋桜の叫ぶような問いかけで、只事ではない事が伝わってくる。

(ーー女王。残念ながら結界に綻びが生じた。悪しきの気配がある。もはや、我の力ではどうにもならぬ。やはり女王に与えられた占いは結実するようだ)

 残念だ、と声が続く。
 朱桜すおうは堂内を見渡すが、自分と赤の宮以外には何者の姿も見えない。四神とは目に見えぬ神獣なのだろうか。

「良いのです、朱雀。私は約束を果たします。ーーここまで、とても永かった」

 ようやく肩の荷が下りると言いたげに、緋桜ひおうは浅くほほ笑む。

「陛下」

 緋桜はくるりと踵を返すと朱桜と向き合う。女王に相応しい厳然とした雰囲気が増していた。

「こちらへ。陛下の剣を朱雀に預けてほしいのです」

 ひたひたと速足に台座まで歩み寄り、女王は台座に刺していた自身の剣をつかみ取った。すっと一振りして虚空のさやに納めると、朱桜を見つめる。

「ご安心ください。陛下が必要としたとき、いつでも剣を手にすることができます。今は朱雀に力をお貸し下さい」

「はい」

 赤の宮の言葉を疑うような気持ちは片鱗もない。朱桜は虚空を掻いて指先に触れたものをつかみ取り、ひといきに引き抜いた。薄暗い堂内が輝きに満たされる。剣を手にして女王の顔を窺うと、ふわりとほほ笑みが返ってきた。

「陛下、見事なけんです」

黄緋剣おうひのつるぎです」

 緋桜は頷いて、さっきまで女王の刀剣――紅旭剣こうきょくのつるぎが刺さっていた台座へと促した。

「あまり褒められた方法ではございませんが、今は仕方がありません。陛下。こちらへ、黄緋剣おうひのつるぎを」

 朱桜はためらいなく手にした刀剣を台座に突き立てる。直後、さらなる光が弾けた。ごうっと堂内に淀んでいた重い気配を吹き飛ばすように風が起こる。ばさりと頭上で羽ばたく音がする。天井を仰いでも、辺りを見ても影も形もないが、大きな翼がばさりばさりと風を起こしているのがわかる。

 台座を中心に増していく輝きが、炎のような色目を帯び、さらに威力を増していく。
 目を焼かれそうな圧倒的な光だったが、不思議と朱桜は瞬きもせず、一部始終を眺めていられた。赤の宮は正視するのが厳しいのか、袖をかざしている。

 いまにも爆発しそうな光の中にあったが、朱桜すおうは一瞬ふわりと身体が浮くような錯覚に囚われる。次の瞬間、高い天井へはじけ飛ぶように、堂内を満たす光が上空へ抜け、無限に伸びた。

 朱桜には見ることが叶わなかったが、光の柱は坩堝るつぼの黒柱に等しい規模で天を貫いた。世界に光を与える様は圧倒的で、まるで異界で突然夜が明け、日中の陽射しに照らされるような威力をもたらした。

「ありがとうございます、陛下」

 あまりの光に姿が輪郭を失い、赤の宮は光の中に溶け込んだかのように、淡い陽炎かげろうのようにしか見えない。声だけが明瞭に聞き取れた。

「ここは朱雀に預けましょう」

 光の中でゆらりと何かがうごめく。気配が近づいても、女王の姿は光に呑まれてはっきりと見ることが叶わない。

「陛下にはもっと成していただきたいことがありますが、朱雀の結界に綻びがあります。今は黄帝陛下が心配です。急ぎ、戻りましょう」

「先生ーー、黄帝陛下が?」

 朱桜はすぐに身を翻したが、くいと袖を引く力に勢いを止められる。

「陛下に恐れ多いことを申し上げますが、どうか黄帝陛下をお救い下さい。両陛下は私が魂魄いのちに変えてもお守り申し上げます。これからも、陛下は黄帝陛下を信じて歩んでください」

 お互いに光に溶けた輪郭で姿が良く見えないが、朱桜は緋桜に手を握られたのがわかった。

「再興した世で、両陛下が健やかにお過ごしになれることを願っております」

「宮様」

 圧倒的な光の加減で、やはり赤の宮の表情はわからない。ただ、握られた手から熱が伝わる。
 緋桜の手が、あたたかかった。

「陛下、朱緋殿しゅひでんへ戻りましょう」

「はい」

 ゆっくりと光のうずを抜ける。朱桜はつんと胸に熱がこみ上げていることに気づく。

(やはり、全てが落ち着いたら、私は宮様に聞きたい)

 きっと緋桜は笑ってくれるのではないか。軒廊こんろうを戻る女王の背中を見ながら、朱桜はそんな期待が膨らむのを感じていた。

(宮様と――母様と、話がしたい)

 まだ温かい手の熱が残っている。緋桜は朱桜の期待を裏切らないのではないか。きっと母娘として語り合える。朱桜の内で、そんな気持ちが大きくなっていた。
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