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第五話(最終話) 相称の翼

第六章:四 紅於(かえで)の悲嘆

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 心を鎮めるために居室で筆をとっても、ぱたりと落ちた涙が、文字をじわりと滲ませる。紅於かえでには心の整理がつけられなかった。闇呪あんじゅ捜索のために異界へと旅立った紅蓮ぐれんが、輪廻りんねしたこと。

 輪廻りんねの儀式は緋国ひのくにをあげて執り行われた。あまりに盛大であったからだろうか。紅於かえでにはこの目で霧散してゆく美しい紅蓮を見送った記憶がある。はっきりと脳裏に刻み込まれた情景があるのに、紅蓮の不在を認める気にはなれなかった。

 この緋国のどこにも、天地界のどこにも、もう紅蓮はいない。信じたくはなかった。
 筆を持つ指先が視界に入ると、紅於かえでは耐え難い想いに苛まれる。

 紅蓮の炎を映しとったような、美しい癖をもった豊かな緋色の髪。風に煽られた長い御髪の一房が、自身の持つ緋扇ひおうぎに、指先に絡み、思わず取り落とした記憶。

 紅於かえでの想いは、そこから始まった。気高く美しい二の宮。顔を拝する機会もない宮家の姫との政略的な縁。当時、紅於かえでは無垢な少年のように、純愛に憧れていた。翼扶と比翼に強い憧憬があり、形式的に与えられた二の宮との縁には肩を落とした。

 せめて二の宮がどんな姫君であるか、情愛を育てることはできないかと、折に触れて文をだし、宮家へと通ったが、紅蓮ぐれんがその姿を見せることはなかった。
 苛立ちだけが募り、紅於かえではついに紅蓮の女房に取り入って、彼女の住まう殿舎に忍び込んだ。風の強い日だった。

 風に踊る美しい癖をもった髪。初めて見た美しい横顔が、はっとこちらを向いた時、紅於かえでの指先に何かが揺れた。紅蓮の美しい髪の一房が風に流されて、扇を持つ手をくすぐる。紅於かえでは驚いて、手にしていた扇を取り落とした。

 悲鳴をあげそうになった紅蓮ぐれんに、慌てて手を伸ばす。触れた身体の細さを感じると、胸を締め付けられるような痛みを感じた。

(「ご無礼をお許しください、紅蓮の宮。私は橙家とうけ紅於かえでと申します」)

 なり振りかまわず名乗り、ただ会いたかったのだと告げた。
 紅蓮の頬が赤く色づくのを見ながら、紅於は一瞬にして心を奪われたのを自覚した。

(なぜ、このようなことになってしまったのか)

 蘇った想い出に、胸が張り裂けそうになる。会いたくてたまらない。
 ぱたりぱたりと涙が文字を滲ませる。

 奔放で不作法な紅於かえでは、会うたびに紅蓮ぐれんに小言を賜ったものだ。素直な性分ではなく、難しい姫宮だっだが、紅於かえでにはその不器用さが愛しくうつった。

(――なぜ、紅蓮の宮が)

 胸の内にできた虚無に、ゆっくりと喪失感がかさを増してゆく。
 まるで花びらが堆積してゆくかのように。

(なぜ……)

 涙で袖を濡らしていると、ふわりと居室に不似合いな甘い芳香が漂う。誰かが香でも焚いたのだろうか。紅於かえでがゆっくりと顔を廊へ向けると、天女のような女が足音もなく歩み寄ってくる。

 天意に愛された先守さきもり。一瞬、うたた寝でもして夢を見ているのかと錯覚する。
 現れたのが華艶かえんの美女であることは、疑いようもない。
 感傷に浸っていた心を引き戻して、紅於かえではその場に立ち上がる。

「華艶様! なぜ、このようなところへ」

「あなたの強い悲嘆がわたくしをお呼びになったのです」

 紅於かえでは咄嗟に従者を呼ぼうかと思ったが、すっと差し出された白い指先が、唇に触れる。

紅於かえで様のお気持ちはお察しいたします。わたくしには視えたのです。紅蓮様がどのように魂魄いのちを落としたのか」

「あなたに?」

「紅蓮様を討った者は、いま近くにおります」

「討たれた? そんな、まさか」

「赤の宮もひどいお方です。真実を秘匿するだけでは事足りず、朱緋殿しゅひでんの最奥に、そのような者をかくまうとは」

内裏だいりに? まさか赤の宮がそのようなことをなさるはずがない。それに、紅蓮の宮は麒麟きりんの目のもたらすに呑まれたと、そう聞いています」

 紅於かえでが言い募ると、華艶は袖で口元を抑えて小さく笑った。哀れむような含みがあった。

「すぐに真実がお分かりになりましょう。紅於かえで様、あなたの愛しい姫宮は、わざわいとなる闇呪あんじゅによって討たれ、魂魄いのちを落とした。それだけが、わたくしがお伝えすることができる真実です」

 最高位の先守さきもりが語る真実。これはすでに起きた出来事であり、占いではない。そう反駁はんばくするもう一人の自分を感じながらも、紅於かえでは心が不穏な闇に向かって傾くのを感じた。

 喪失感で満たされつつあった虚無に、一滴の憎悪がしたたり落ちる。途端に悲しみだけを映していた波紋が不自然に歪んだ。止めようのない濁流が生まれ、怒涛どとうの勢いで新たに注がれていく感情が心を埋め尽くしていく。

 憎悪。

 悲しみが上書きされて、失われていく。
 紅於かえでが囚われれるのに、時はかからなかった。
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