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第四話 闇の在処(ありか)

十章:三 鬼の坩堝(きのるつぼ):守護鳳凰

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 視界に途の果てが見える。暗い森の終わりを自覚すると、ふっと気がゆるんだ。思わず立ち止まりそうになったが、朱桜すおうは気持ちを奮い起こして前に進んだ。背後を振り返ってみるが、恐ろしい追手の気配はない。 

 逃げる道中では、鬼に取り囲まれ最期さいごを覚悟した瞬間もあった。 
 あの時彼らが現れなければ、自分はに侵され、喰らい尽くされていただろう。 
 間違いなく彼らが、朱桜を救ってくれたのだ。幼い容貌の少年と少女。 

 はじめは自分達の名を呼べと云った。 
 けれど、すぐに逼迫した危機に気付いたのか、朱桜を逃がすことを優先したようだった。誰もが恐れる黒樹の森に現れた二人。思えばどうしてこんな処に現れたのか、どうして朱桜を助けてくれたのか、謎に包まれた出会いだった。 

 彼らの示すとおり逃げてきたが、果たしてあの二人は無事なのだろうか。 
 そして、自分を導いてくれた先守さきもり。呪いに侵されていたが、彼は無事なのだろうか。 
 ようやく森を出ることに成功すると、朱桜の内に様々な思いが去来した。 

 の襲撃後は無我夢中で駆けた。見慣れた道筋を外れて闇雲に進んでしまい、黒樹の森をどう抜けてきたのか分からない。当てもなく逃げて、森を出られたことが奇蹟のように思える。森を出てからも不安に突き動かされるように、しばらく歩き続けた。 
 辺りを見回したが、ここがどこであるのか判らない。 

(……どこへ行けば良いのだろう) 

 森を抜け出ることだけを考えていた。いざ目的を果たすと、不安だけがどんどん大きくなっていく。森を抜けてからどうするべきなのか。あの先守は何と云っていただろうか。何かを示唆された気もするし、何も教えてもらわなかった気もする。 

 朱桜はふと視界の端に、見慣れた美しい闇を捉えた。 
 艶やかな闇色がそら高く伸びている光景。 
 坩堝るつぼ。 

(――闇呪《あんじゅ》の君) 

 朱桜はふいに眩暈めまいに襲われたかのように重心を失い、ふらりとその場に崩れた。 
 体ががくがくと小刻みに震えている。恐れのためか衝撃のためか、疲労のせいなのかわからない。 
 気が緩んだのか、涙が溢れ出た。 

 纏っていたものはの襲撃によって、引き裂かれている。履物も失い、裸足で歩み続けていたことにようやく気付く。 

(なんとか、森は抜けられた) 

 生きている。朱桜は改めてそれを実感し、のろのろと身を起こす。 

(私は、伝えなければ……) 

 それだけを考えて走り続けた。それが許されるのか、正しいことなのかは分からない。 
 けれど。 
 例えこの先にどのような先途みらいが待っていようとも、この心は偽ることができない。 

 闇呪あんじゅを愛している。朱桜にとってかけがえのない真実だった。 

 ゆっくりと立ち上がろうと身を動かすと、ふと辺りに気配を感じた。恐ろしい追手かと思い、朱桜は弾かれたように顔を上げて身構える。 
 数人の人影。 
 一瞬、助けを乞おうと考えたが、すぐに考え直した。 

 坩堝るつぼを間近に望める場所。人通りの少ない道。正確に所在を把握できないが、それでも辺境であることは分かる。 
 こんな処で人と出会うことなどあるのだろうか。 

 芽生えた猜疑心が一気に心を染める。 
 彼らがではないと言い切れるだろうか。 
 朱桜の身に強烈な恐れが蘇ってきた。囚われるわけにはいかない。 

「どうなさったのですか」 

 そっと差し伸べられた手。朱桜は悲鳴を呑みこんで咄嗟に首を振った。 

「とにかく、傷の手当てをしなければ」 

「触らないでっ」 

 思わず目の前の手を払いのけてしまう。現れた女は労わるような眼差しをしていた。朱桜ははっとして繰り返す。 

「……触らないで、下さい」 

 目の前の女からは悪意も敵意も感じられない。朱桜は彼らの素性を考え直した。好意を疑うなんてどうかしている。判っているのに、胸の内にある恐れを払拭することができない。立ち上がることも動くこともできず俯くと、さらりと肩から長い髪が滑り落ちてきた。 
 見慣れない輝きが視界の端に映る。 

「そんな……」 

 朱桜は全身にぞっと鳥肌がたった。信じられない思いで、目の前に広がる自身の髪に触れる。 

「どうして、どうして、……こんな、こんなことが――」 

 見慣れた緋色が跡形もなく失われていた。 
 思わず指先で拭ってみるが、変化はない。金色こんじきの頭髪が輝きを放っている。 
 消えない証。 

「――ああっ、どうして」 

 何かの間違いではないのか。陛下に真実の名を与えられたわけでもなく、自分が捧げたわけでもない。何かを誓った記憶がないのに、金色を纏っている。 
 相称そうしょうつばさは、ただ陛下の想いだけで成ってしまうのだろうか。あの体の不調がその証だったとでも云うのだろうか。 

 朱桜は自分を抱きしめるようにして、ぎゅうっと力を込めた。熱に浮かされたような苦しみが、いつの間にか失われている。 

「違う――、こんな」 

 相称の翼など望みはしなかった。陛下を愛することはできない。 
 ただ闇呪あんじゅの傍に居ることができれば良かった。それだけで良かったのだ。それだけで幸せだった。 

 けれど。 

「こんな姿では……」 

 会えない。二度と闇呪あんじゅに会えない。伝えられない。 

「もう、会えない」 

 涙が止め処なく溢れ出て、朱桜すおうにはもう何も見えない。 
 何も。 
 希望も、未来も。 
 ただ架せられた多大な役割が、全てを引き裂いてしまうことだけが分かってしまう。 

「――闇呪あんじゅの君に、……」 

 会いたいという言葉を、朱桜すおうは呑み込んだ。さっきまで自分を支えていた希望。 
 今はどこにもない。もう許されない。 
 まるで奈落の底に呑まれたように身動きできずにいると、ふわりと風が舞った。ばさりと大きな羽音がする。朱桜は導かれるように、濡れた顔を上げた。 

 まるで黒い炎を纏ったかのような美しい鳥が、朱桜を慰めるように辺りを旋回している。呪われた色彩に囚われているのに、なぜか恐れは感じない。 
 朱桜すおうはそっと腕を伸ばした。 

「慰めてくれるの?」 

 それが合図であったかのように、旋回を続けながら大きな翼がゆっくりと空から近づいてくる。 
 朱桜は震える声で請う。 

「私はもう、消えてしまいたい」 

 闇呪あんじゅに会うことが許されないのなら、塵となって消えてしまいたかった。 
 けれど、架せられた立場がそれすらも許さない。 
 だから。 

「――連れて行って、……どこか知らない処へ」 

 何も考えなくても良い処へ、行きたい。 
 伸ばした朱桜の手が、黒鳥に触れた。自分を乗せて大きく羽ばたく。朱桜は目を閉じて全てを託した。 
 今はただ、全てを置き去りにして逃げることしか出来ない。
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