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第四話 闇の在処(ありか)
十章:二 金域:護り2
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体が思うように動かない。熱と痛みに包まれている。
けれど、熱がもたらす全ての不調とは比較にならないほどの、おぞましさが渦巻く。まるで体中に刻まれているかのようだった。
朱桜はそれ以上考えないようにして、自分を抱えて走る先守を仰ぎみた。不可思議な紫紺の瞳は、辺りを警戒しているように前を見据えている。先守は迷うことなく宮殿を出ると、朱桜が行き来したことのないような場所を駆け続けた。
どのくらい宮殿から遠ざかったのだろう。もしかすると既に金域の敷地を出ていたのかもしれない。目の前には深い森が続いている。金域を包む黒樹の森だとわかった。
先守は唐突に立ち止まると、そっと朱桜を降ろした。
「私がご案内できるのは、ここまでです」
改めて先守と向かい合うと、朱桜は彼の変貌した肌色にぞっと震えた。先守の白い肌には、何かが這い回るように黒い模様が滲み出している。それは朱桜が見ている間にも密度を増していく。
「ここから少し進めば、いつも金域に参られる時の道筋にたどり着きます。まだ体が思うように動かないでしょうが、とにかく振り返らずに走り続けてください。そうすれば、やがてあなたの守護がやってきます。そして導いてくれる」
朱桜は彼の言葉よりも、禍々しい何かに犯され変貌していく姿に気をとられていた。あまりの痛々しさに目が逸らせない。
「体中に黒い模様が、……」
思わず訴えると、先守は何でもないことのようにただ微笑んだ。
「あなたが気にすることではありません。これは私に施された呪いです」
「呪いなんて、そんな」
どうすれば良いのかとうろたえる朱桜の肩を叩いて、先守は促す。
「私のことより、朱桜様、早く行ってください」
「だけど、あなたが……」
とても放っておいて良いとは思えない。立ち去ることが出来ずにいると、先守が強く告げる。
「これは私が望んだ役割です。あなたは相称の翼となる。だからここで囚われてはならないのです。その真実の名を守らなければ、取り返しのつかないことになってしまう」
朱桜には彼の語ることが把握できない。
「行ってください。朱桜様、さぁ、早く」
まるで懇願するように、切実に響く声だった。朱桜はためらいを捨て切れなかったが、このままここに居ても何もできない。彼を困らせるだけだと言い聞かせた。
「――ありがとう」
なんと云えばよいのか分からず、それだけを伝える。先守はただ頷いた。微笑んで送り出してくれる。
「お辛いでしょうが、力の限り走ってください。この森を抜けることだけを考えて」
朱桜は頷いて駆け出した。体が思うように動かないが、精一杯前へと進む。黒樹の森は見通しが効かない。行く手を阻むように密生する木々を掻き分けるようにして、ひたすら走る。
やがて先守が示したとおり見慣れた場所に出た。深い森の中であることは変わらないが、外へと通じる途が伸びている。まだかなり森の奥深いところに居るらしく、果てを臨むことは叶わない。それでもやみくもに進むよりは遙かに良い。足元も随分ましになった。
朱桜は思い通りにならない体を引き摺るような思いで、ひたすら一歩一歩を踏み締めるように走った。
ふと身に起きた出来事が脳裏をかすめるが、朱桜は考えないようにした。考えてしまうと、立ち止まってしまう。このまま闇呪のもとへ戻ることをためらってしまう。弱い心があっという間に自分を侵食して、動けなくなってしまうに違いない。
今はこの森を抜けることだけを考える。それが正しいことだと信じるしかないのだ。
朱桜が気持ち奮い立たせて進んでいると、ふいに背後で気配が蠢いた。
ぞっと肌の粟立つような感覚。
何かよくないものが、自分を追いかけてくる。
(――つかまっては、いけない)
朱桜は振り返ることはせず、歯を食いしばって踏み出す足に力を込めた。
久遠は佇んでいた。既に朱桜の姿は見えない。
(――どうか、ご無事で)
黒樹の森を抜け、相称の翼となって守護に導かれることだけを願う。
久遠は袖からのぞく自身の掌をみた。既に肌色は失われ黒く変化している。何か不快なものが体中を這い回っている。気を抜くとその場に崩れ落ちそうなるが、久遠は毅然と佇んでいた。
視界が少しづつ色を失い始めていている。
だが、役割は果たした。ここで果てて浅ましい魂鬼となっても、もう悔いはない。ふっと最期を覚悟した瞬間、久遠は体中を侵す禍々しいものよりも、いっそう苛烈な悪意を感じた。
咄嗟に振り向こうとしたが、もう身動きすることもままならない。魂鬼となることを覚悟した久遠ですら震えるほど恐ろしい気配。
圧倒的な怨嗟と悪意。
「つまらぬ同情で、わが身を滅ぼすか」
苛烈な悪意とは程遠い声音だった。場違いとも思えるほどの、甘い声。
背後に気配を感じるだけで、姿は見えない。声だけが聞こえる。
「その行いに、どれほどの意味があると云うのか」
「――希望が、あります」
もう声も出ないかと思っていたが、呼気を振りしぼると伝わる言葉になった。
「先守は無力ではありません。彼らの遺した真実から、いずれこの世の偽りに気付く者が現れるでしょう」
過去の真実は、既に透国の皇子に託して在る。作られたものには必ず綻びがあるのだ。朔夜の占いはきっと形になる。あの聡明な皇子ならば、真実の記された紙片から、絶対にたどり着くだろう。
ざわりと背後の悪意が蠢いた。久遠は力をこめて告げた。
「そして、陛下はこの世に相称の翼をもたらしました。豊かな想いをお持ちになるからこそ、成しえたこと。決して輝きが失われていない証です」
先守――朔夜が魂魄を賭けて成し遂げたこと。幼い陛下を心から慈しみ、教えた。
心を寄せること、慈しむこと、愛すること。哀しむこと。労わること。思いやること。
不遇な宿運に囚われても、与えられ、育まれた数多の想い。
情愛という名の――こころ。
朔夜に与えられて、陛下は知ることができたはずなのだ。
「陛下のお心には慈悲があります。その輝きに触れて、惹かれない者はいないでしょう」
希望はある。この世の先途は費えてなどいない。
陛下は翼扶を得た。
先守である静が視たとおり、朱桜が相称の翼となったのだ。
この世の希望。
決して失われることがないように、護りは幾重にも施されていた。
亡き先守たちの占いは果たされる。
自分がその一助になれるのなら、魂魄を失うことなど厭わない。魂禍となって果てることも恐れない。
「陛下の慈悲? ――それほどに無意味なものを、妾は他に知らぬ。そんなものを信じるそなたが哀れでならぬ」
甘い声は、やがて辺りをびりびりと震わせるほどの哄笑となった。
禍々しい振動。
久遠はそっと目を閉じた。
声は嗤い続ける。まるで果てがない呪文のようにも思えた。
途轍もない負の連鎖。
それは先帝を狂わせるほどの強大な闇となり、輝ける霊獣――麒麟を生きた屍と成しえるほどの怨嗟となり。
黄帝を呪う悪意ともなった。
どこまでも深く暗い闇だけの世界がある。
何が始まりであったのか、どこから生まれ出たのか、久遠にはわからない。
姉の朔夜は知っていたのだろうか。あるいは、静には視えていたのだろうか。
久遠は段々と思考が奪われていくのを自覚する。
哄笑も遠ざかり、聞こえなくなった。
朔夜の顔が脳裏に浮かぶ。美しい微笑みを歪ませて、弟に過酷な役割を負わせることを嘆いていた。
そして姉と並び立つほどの先守であった静も、労わるように久遠を見た。全てを託して去らねばならないことを詫びていた。そして姉と同じように久遠の役割を嘆いた。
久遠はそんな顔をしないでほしいと云いたかった。
たしかに自分はここで滅びる。呪いに囚われて魂禍となるだろう。けれど無意味な犠牲ではないのだ。いずれ必ず報われる。
この世は天帝の御世を迎えるのだ。
久遠はそう信じている。
いつか齎される豊かな輝きは、囚われた久遠の魂魄を救い、輪廻へ導いてくれるだろう。
朔夜が悔やむことも、静が詫びることもない。
(――朔夜、静様、わたしが見届けられるのは、ここまでです)
自分はきちんと役割を果たせたのだろうか。
真っ黒な闇。体中を侵していた耐え難い不快さも費えていく。
何も見えず、何も感じない。
やがて久遠の想いは、跡形もなく消滅した。
けれど、熱がもたらす全ての不調とは比較にならないほどの、おぞましさが渦巻く。まるで体中に刻まれているかのようだった。
朱桜はそれ以上考えないようにして、自分を抱えて走る先守を仰ぎみた。不可思議な紫紺の瞳は、辺りを警戒しているように前を見据えている。先守は迷うことなく宮殿を出ると、朱桜が行き来したことのないような場所を駆け続けた。
どのくらい宮殿から遠ざかったのだろう。もしかすると既に金域の敷地を出ていたのかもしれない。目の前には深い森が続いている。金域を包む黒樹の森だとわかった。
先守は唐突に立ち止まると、そっと朱桜を降ろした。
「私がご案内できるのは、ここまでです」
改めて先守と向かい合うと、朱桜は彼の変貌した肌色にぞっと震えた。先守の白い肌には、何かが這い回るように黒い模様が滲み出している。それは朱桜が見ている間にも密度を増していく。
「ここから少し進めば、いつも金域に参られる時の道筋にたどり着きます。まだ体が思うように動かないでしょうが、とにかく振り返らずに走り続けてください。そうすれば、やがてあなたの守護がやってきます。そして導いてくれる」
朱桜は彼の言葉よりも、禍々しい何かに犯され変貌していく姿に気をとられていた。あまりの痛々しさに目が逸らせない。
「体中に黒い模様が、……」
思わず訴えると、先守は何でもないことのようにただ微笑んだ。
「あなたが気にすることではありません。これは私に施された呪いです」
「呪いなんて、そんな」
どうすれば良いのかとうろたえる朱桜の肩を叩いて、先守は促す。
「私のことより、朱桜様、早く行ってください」
「だけど、あなたが……」
とても放っておいて良いとは思えない。立ち去ることが出来ずにいると、先守が強く告げる。
「これは私が望んだ役割です。あなたは相称の翼となる。だからここで囚われてはならないのです。その真実の名を守らなければ、取り返しのつかないことになってしまう」
朱桜には彼の語ることが把握できない。
「行ってください。朱桜様、さぁ、早く」
まるで懇願するように、切実に響く声だった。朱桜はためらいを捨て切れなかったが、このままここに居ても何もできない。彼を困らせるだけだと言い聞かせた。
「――ありがとう」
なんと云えばよいのか分からず、それだけを伝える。先守はただ頷いた。微笑んで送り出してくれる。
「お辛いでしょうが、力の限り走ってください。この森を抜けることだけを考えて」
朱桜は頷いて駆け出した。体が思うように動かないが、精一杯前へと進む。黒樹の森は見通しが効かない。行く手を阻むように密生する木々を掻き分けるようにして、ひたすら走る。
やがて先守が示したとおり見慣れた場所に出た。深い森の中であることは変わらないが、外へと通じる途が伸びている。まだかなり森の奥深いところに居るらしく、果てを臨むことは叶わない。それでもやみくもに進むよりは遙かに良い。足元も随分ましになった。
朱桜は思い通りにならない体を引き摺るような思いで、ひたすら一歩一歩を踏み締めるように走った。
ふと身に起きた出来事が脳裏をかすめるが、朱桜は考えないようにした。考えてしまうと、立ち止まってしまう。このまま闇呪のもとへ戻ることをためらってしまう。弱い心があっという間に自分を侵食して、動けなくなってしまうに違いない。
今はこの森を抜けることだけを考える。それが正しいことだと信じるしかないのだ。
朱桜が気持ち奮い立たせて進んでいると、ふいに背後で気配が蠢いた。
ぞっと肌の粟立つような感覚。
何かよくないものが、自分を追いかけてくる。
(――つかまっては、いけない)
朱桜は振り返ることはせず、歯を食いしばって踏み出す足に力を込めた。
久遠は佇んでいた。既に朱桜の姿は見えない。
(――どうか、ご無事で)
黒樹の森を抜け、相称の翼となって守護に導かれることだけを願う。
久遠は袖からのぞく自身の掌をみた。既に肌色は失われ黒く変化している。何か不快なものが体中を這い回っている。気を抜くとその場に崩れ落ちそうなるが、久遠は毅然と佇んでいた。
視界が少しづつ色を失い始めていている。
だが、役割は果たした。ここで果てて浅ましい魂鬼となっても、もう悔いはない。ふっと最期を覚悟した瞬間、久遠は体中を侵す禍々しいものよりも、いっそう苛烈な悪意を感じた。
咄嗟に振り向こうとしたが、もう身動きすることもままならない。魂鬼となることを覚悟した久遠ですら震えるほど恐ろしい気配。
圧倒的な怨嗟と悪意。
「つまらぬ同情で、わが身を滅ぼすか」
苛烈な悪意とは程遠い声音だった。場違いとも思えるほどの、甘い声。
背後に気配を感じるだけで、姿は見えない。声だけが聞こえる。
「その行いに、どれほどの意味があると云うのか」
「――希望が、あります」
もう声も出ないかと思っていたが、呼気を振りしぼると伝わる言葉になった。
「先守は無力ではありません。彼らの遺した真実から、いずれこの世の偽りに気付く者が現れるでしょう」
過去の真実は、既に透国の皇子に託して在る。作られたものには必ず綻びがあるのだ。朔夜の占いはきっと形になる。あの聡明な皇子ならば、真実の記された紙片から、絶対にたどり着くだろう。
ざわりと背後の悪意が蠢いた。久遠は力をこめて告げた。
「そして、陛下はこの世に相称の翼をもたらしました。豊かな想いをお持ちになるからこそ、成しえたこと。決して輝きが失われていない証です」
先守――朔夜が魂魄を賭けて成し遂げたこと。幼い陛下を心から慈しみ、教えた。
心を寄せること、慈しむこと、愛すること。哀しむこと。労わること。思いやること。
不遇な宿運に囚われても、与えられ、育まれた数多の想い。
情愛という名の――こころ。
朔夜に与えられて、陛下は知ることができたはずなのだ。
「陛下のお心には慈悲があります。その輝きに触れて、惹かれない者はいないでしょう」
希望はある。この世の先途は費えてなどいない。
陛下は翼扶を得た。
先守である静が視たとおり、朱桜が相称の翼となったのだ。
この世の希望。
決して失われることがないように、護りは幾重にも施されていた。
亡き先守たちの占いは果たされる。
自分がその一助になれるのなら、魂魄を失うことなど厭わない。魂禍となって果てることも恐れない。
「陛下の慈悲? ――それほどに無意味なものを、妾は他に知らぬ。そんなものを信じるそなたが哀れでならぬ」
甘い声は、やがて辺りをびりびりと震わせるほどの哄笑となった。
禍々しい振動。
久遠はそっと目を閉じた。
声は嗤い続ける。まるで果てがない呪文のようにも思えた。
途轍もない負の連鎖。
それは先帝を狂わせるほどの強大な闇となり、輝ける霊獣――麒麟を生きた屍と成しえるほどの怨嗟となり。
黄帝を呪う悪意ともなった。
どこまでも深く暗い闇だけの世界がある。
何が始まりであったのか、どこから生まれ出たのか、久遠にはわからない。
姉の朔夜は知っていたのだろうか。あるいは、静には視えていたのだろうか。
久遠は段々と思考が奪われていくのを自覚する。
哄笑も遠ざかり、聞こえなくなった。
朔夜の顔が脳裏に浮かぶ。美しい微笑みを歪ませて、弟に過酷な役割を負わせることを嘆いていた。
そして姉と並び立つほどの先守であった静も、労わるように久遠を見た。全てを託して去らねばならないことを詫びていた。そして姉と同じように久遠の役割を嘆いた。
久遠はそんな顔をしないでほしいと云いたかった。
たしかに自分はここで滅びる。呪いに囚われて魂禍となるだろう。けれど無意味な犠牲ではないのだ。いずれ必ず報われる。
この世は天帝の御世を迎えるのだ。
久遠はそう信じている。
いつか齎される豊かな輝きは、囚われた久遠の魂魄を救い、輪廻へ導いてくれるだろう。
朔夜が悔やむことも、静が詫びることもない。
(――朔夜、静様、わたしが見届けられるのは、ここまでです)
自分はきちんと役割を果たせたのだろうか。
真っ黒な闇。体中を侵していた耐え難い不快さも費えていく。
何も見えず、何も感じない。
やがて久遠の想いは、跡形もなく消滅した。
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