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第四話 闇の在処(ありか)
八章:四 闇の地:翼扶1
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日々は闇呪の傍らで過ぎていく。彼と言葉を交わすたびに、朱桜は胸をつかまれたように苦しくなる。花見の宴で失態を犯して以来、恋という毒に心を侵されているのがわかっていた。
妃として彼の傍に在る。
けれど、闇呪が妃として自分を望むことはなかった。華艶と闇呪の関係も、その後がよくわからない。華艶の美女の訪れも久しくないように思う。あるいは単に自分が知らないだけで、逢瀬は繰り返されているのだろうか。どちらにしても華艶のような美しい女性が相手であれば、自分が目に入らないのは仕方がないだろう。
壊れ物を扱うような優しさ。彼の所作の全てから、自分が幼い姫君でしかないのだということが伝わってくる。
少しずつ闇呪に対して芽生えていた想い。今まではうまく目を逸らして折り合いをつけていた。これ以上は望まないのだと。
それがあの花見の宴以来、ごまかすことも目を逸らすこともできなくなってしまったのだ。どうしようもなく意識してしまったから。
自覚したことを認めてしまったから。
あの瞬間から朱桜の物思いがはじまったのだ。
彼の傍にあり、日々は満たされているのに物思いは止まない。闇呪に焦がれている。思い知るたびに、朱桜は自分がもう幼い姫君ではなくなってしまったのだと感じていた。
彼に愛されることを夢見ている。ひとりの女として。
けれど今までのように闇呪の傍に在るためには、いつまでも幼い姫君でいなければならないような気がしていた。男女の絆を求めてしまうと、繊細に築かれたこれまでの絆が壊れてしまいそうで恐ろしいのだ。
恐れつつも、この思いを伝えたいという衝動をごまかすことができない。
どうすれば良いのか判らないまま、朱桜は再び定例の参堂を迎えていた。
朝早くから麟華に衣装の召し変えをされ、ぼんやりと自身の居室で金域からの迎えを待つひととき。
「朱桜の君」
ふいに聞きなれた声がした。朱桜は思わず姿勢を正す。闇呪がこの奥対屋を訪れることは滅多にない。何か特別な用件なのかと緊張していると、闇呪が居室の前に面する広廂に現れた。
朱桜を見つけると一瞬歩みを止めて、ふわりと笑う。朱桜は切ない痛みを感じながら、その場で平伏した。
「改まる必要はない。突然すまない」
朱桜はゆっくりと面をあげた。近くにはいつもの黒麒麟の気配もない。二人きりなのだと思うと、途端に鼓動が高くなった。ぎこちなく身動きすると、盛装のために結い上げた髪から飾りの触れ合う音がする。朱桜は途端に自分が着飾っていることを思い出し恥ずかしくなる。彼の目に触れたいと云う、どうしようもない気持ち。かき消すことができないまま、闇呪に問いかけた。
「どうなさったのですか?」
闇呪は答えることはせず、視線を伏せる。まるで何かに追い詰められたように瞳を閉じてから、迷いを振り切るように深い眼差しで朱桜を捉えた。
「朱桜。君にどうしても伝えておきたい事がある。このまま参堂へ発つ君を見送れば、私はまた思い悩むことになる」
「え?」
「私は君を守りたい」
今までにも闇呪には数え切れないほど守られてきた。今更どうしたというのだろう。朱桜は意図を測りかねたまま、じっと彼の話に耳を傾けた。
「これまで妃として迎えた姫君のように、朱桜を失うことはできない。私は君をとても大切に思っている」
どきりとしたが、朱桜は深い意味ではないのだと言いきかせた。闇呪が自分を大切に扱ってくれているのは、これまでの経験からあきらかなのだ。
「君にとっては唐突な話かもしれないが、私はずっと考えてきた。これ以上自分の想いをごまかすこともできない」
「自分の想い?」
彼が何を伝えようとしているのか、よくわからなかった。ふと華艶の姿が脳裏をよぎる。密やかに不安が競りあがってきて胸が塞いだ。
「以前、姫君が金域に赴いたとき、無事に帰ってくるのかと不安でたまらなかった。君が傍にいないことが、これほど苦しいことなのかと」
「――……」
思いもよらない方向に舵をとられた気分だった。朱桜はにわかに信じられず、思わず胸を手で押さえた。
「姫君を困らせるつもりはないが、このまま見送ることはできそうにない。だから、……ひとつだけ、私のわがままを聞いてほしい」
思いつめた翳りを感じるが、闇呪の声は揺るがない。決意を秘めたような芯の強さがあった。朱桜は彼が何をそこまで案じているのかわからない。
わからないまま、ただ頷いた。彼の抱える憂慮を和らげる方法があるのなら、ためらう理由はない。
承知すると、闇呪は少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう。朱桜、手を――」
「は、はい」
差し伸べられた大きな手に掌を重ねて、朱桜は促されるまま立ち上がる。闇呪と向かい合うと、彼は一歩後退した。すっと舞うような仕草で右腕をあげる。
すらりと虚空から細い影が引き抜ぬかれた。
――悠闇剣。
鬼の坩堝の標である剣が、彼の手に握られている。朱桜ははっとした。黒麒麟の姿がない理由にたどりつく。
闇呪が自身の剣を手に、これから何を行おうとしているのか。朱桜は言葉を失ったまま立ち尽くす。闇呪は虚空から引き抜いた剣を両手で持ち直した。
右手で柄を握り、左手を刃先に添える。
剣舞がはじまってもおかしくないほど、優美な仕草だった。
何がはじまるのかと見守る朱桜の前で、闇呪がゆっくりと片膝をついた。朱桜はある予感を覚えて、まさかと戸惑ってしまう。
深い双眸が、しっかりと朱桜を見つめた。
妃として彼の傍に在る。
けれど、闇呪が妃として自分を望むことはなかった。華艶と闇呪の関係も、その後がよくわからない。華艶の美女の訪れも久しくないように思う。あるいは単に自分が知らないだけで、逢瀬は繰り返されているのだろうか。どちらにしても華艶のような美しい女性が相手であれば、自分が目に入らないのは仕方がないだろう。
壊れ物を扱うような優しさ。彼の所作の全てから、自分が幼い姫君でしかないのだということが伝わってくる。
少しずつ闇呪に対して芽生えていた想い。今まではうまく目を逸らして折り合いをつけていた。これ以上は望まないのだと。
それがあの花見の宴以来、ごまかすことも目を逸らすこともできなくなってしまったのだ。どうしようもなく意識してしまったから。
自覚したことを認めてしまったから。
あの瞬間から朱桜の物思いがはじまったのだ。
彼の傍にあり、日々は満たされているのに物思いは止まない。闇呪に焦がれている。思い知るたびに、朱桜は自分がもう幼い姫君ではなくなってしまったのだと感じていた。
彼に愛されることを夢見ている。ひとりの女として。
けれど今までのように闇呪の傍に在るためには、いつまでも幼い姫君でいなければならないような気がしていた。男女の絆を求めてしまうと、繊細に築かれたこれまでの絆が壊れてしまいそうで恐ろしいのだ。
恐れつつも、この思いを伝えたいという衝動をごまかすことができない。
どうすれば良いのか判らないまま、朱桜は再び定例の参堂を迎えていた。
朝早くから麟華に衣装の召し変えをされ、ぼんやりと自身の居室で金域からの迎えを待つひととき。
「朱桜の君」
ふいに聞きなれた声がした。朱桜は思わず姿勢を正す。闇呪がこの奥対屋を訪れることは滅多にない。何か特別な用件なのかと緊張していると、闇呪が居室の前に面する広廂に現れた。
朱桜を見つけると一瞬歩みを止めて、ふわりと笑う。朱桜は切ない痛みを感じながら、その場で平伏した。
「改まる必要はない。突然すまない」
朱桜はゆっくりと面をあげた。近くにはいつもの黒麒麟の気配もない。二人きりなのだと思うと、途端に鼓動が高くなった。ぎこちなく身動きすると、盛装のために結い上げた髪から飾りの触れ合う音がする。朱桜は途端に自分が着飾っていることを思い出し恥ずかしくなる。彼の目に触れたいと云う、どうしようもない気持ち。かき消すことができないまま、闇呪に問いかけた。
「どうなさったのですか?」
闇呪は答えることはせず、視線を伏せる。まるで何かに追い詰められたように瞳を閉じてから、迷いを振り切るように深い眼差しで朱桜を捉えた。
「朱桜。君にどうしても伝えておきたい事がある。このまま参堂へ発つ君を見送れば、私はまた思い悩むことになる」
「え?」
「私は君を守りたい」
今までにも闇呪には数え切れないほど守られてきた。今更どうしたというのだろう。朱桜は意図を測りかねたまま、じっと彼の話に耳を傾けた。
「これまで妃として迎えた姫君のように、朱桜を失うことはできない。私は君をとても大切に思っている」
どきりとしたが、朱桜は深い意味ではないのだと言いきかせた。闇呪が自分を大切に扱ってくれているのは、これまでの経験からあきらかなのだ。
「君にとっては唐突な話かもしれないが、私はずっと考えてきた。これ以上自分の想いをごまかすこともできない」
「自分の想い?」
彼が何を伝えようとしているのか、よくわからなかった。ふと華艶の姿が脳裏をよぎる。密やかに不安が競りあがってきて胸が塞いだ。
「以前、姫君が金域に赴いたとき、無事に帰ってくるのかと不安でたまらなかった。君が傍にいないことが、これほど苦しいことなのかと」
「――……」
思いもよらない方向に舵をとられた気分だった。朱桜はにわかに信じられず、思わず胸を手で押さえた。
「姫君を困らせるつもりはないが、このまま見送ることはできそうにない。だから、……ひとつだけ、私のわがままを聞いてほしい」
思いつめた翳りを感じるが、闇呪の声は揺るがない。決意を秘めたような芯の強さがあった。朱桜は彼が何をそこまで案じているのかわからない。
わからないまま、ただ頷いた。彼の抱える憂慮を和らげる方法があるのなら、ためらう理由はない。
承知すると、闇呪は少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう。朱桜、手を――」
「は、はい」
差し伸べられた大きな手に掌を重ねて、朱桜は促されるまま立ち上がる。闇呪と向かい合うと、彼は一歩後退した。すっと舞うような仕草で右腕をあげる。
すらりと虚空から細い影が引き抜ぬかれた。
――悠闇剣。
鬼の坩堝の標である剣が、彼の手に握られている。朱桜ははっとした。黒麒麟の姿がない理由にたどりつく。
闇呪が自身の剣を手に、これから何を行おうとしているのか。朱桜は言葉を失ったまま立ち尽くす。闇呪は虚空から引き抜いた剣を両手で持ち直した。
右手で柄を握り、左手を刃先に添える。
剣舞がはじまってもおかしくないほど、優美な仕草だった。
何がはじまるのかと見守る朱桜の前で、闇呪がゆっくりと片膝をついた。朱桜はある予感を覚えて、まさかと戸惑ってしまう。
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