上 下
170 / 233
第四話 闇の在処(ありか)

七章:五 闇の地:祝福

しおりを挟む
朱桜すおう姫君ひめぎみ、我が君には悪気はないのです」 
「そうよ、姫君。落ち込むことなどないのよ」 

 うつむいたまま動けずにいると、黒麒麟くろきりんが声をかけてくれた。朱桜は彼らの云い様に驚いて顔を上げる。 

「わたし、落ち込んでなんていません」 

 意外な反応だったのか、守護である二人は顔を見合わせた。 

「ただ――」 

 朱桜は胸の内をかき回す気持ちを抑えることに必死だった。もうごまかすことなどできない。彼の思いに触れて、心が傾かない方がどうかしている。 
 闇呪あんじゅは心を痛めてくれるのだ。 
 誰でもない、朱桜の未来を思って。 

 呪われたあん。この世を滅ぼすわざわい。 
 救いのない宿業を背負った闇呪あんじゅに嫁ぐ姫君を、彼は哀れむ。まるで不幸と関わる運命を与えてしまったのだと言いたげに。背徳うしろめたさに苛まれている。 

闇呪あんじゅきみは……」 

 優しい。けれど優しいから、自分を許すことができないのだ。そして自分に関わる者を可哀想だと思ってしまう。 

「闇呪の君はまちがえています」 

 言葉にすると、朱桜すおうは居ても立ってもいられなくなる。傍らの黒麒麟がぎょっとするほどの勢いで立ち上がり、そのまま闇呪を追うように駆け出す。 
 中門にさしかかる頃には衣装の重さがわずらわしくなり、ばさりとうちぎひとえを脱ぎ捨てた。小袖こそで緋長袴ひのながばかまだけになるとさらに気持ちが高ぶる。 

 何をどんなふうに伝えればいいのかはわからない。気持ちは湧き上がった熱にかき回されたままで混乱している。ひたすらこのままではいけないのだと、朱桜はその思いに突き動かされていた。 
 ろうの果てにある釣殿つりどのから朱桜は身を乗り出すようにして庭を見渡す。もしかすると寝殿を出たのかもしれないと考えていると、庭の正面に築かれた中島に見慣れた人影があった。 

「闇呪の君っ」 

 何かを考えるよりも先に叫んでいた。 
 このまま釣殿から飛び降りたいくらいだったが、作られた池に阻まれる。朱桜は池を避けるように廊を戻ると、一目散に庭に下りた。 
 すぐに駆け出そうとすると、同じように中島から駆けつけたのだろう闇呪あんじゅが庭先まで来ていた。 

「朱桜、一体どうしたんだ」 
「わたし、どうしても伝えておきたいことが」 

 駆けてきた勢いで呼吸が乱れる。闇呪が気遣うようにこちらに歩み寄ってきた。 

「先程の話なら、君が気にすることはない。私がつまらぬことを云っただけだ」 
「私にはつまらないことではありません。それに、闇呪の君はまちがえています」 

 朱桜は勢いのまま彼の正面に走り出て、闇呪の両袖を掴んだ。 

「私は今とても幸せです。毎日が楽しいのも嘘じゃありません。この地に嫁いで闇呪の君と出会えて、とても良かったと思っています。本当です」 

 彼は頷いたが、困ったように笑った。 

「君がそう云ってくれる度に私は救われる。けれど、私はこの世が生み出した過ちのようなもの。君は私と共に在る意味を、まだよく判っていない」 

「そんなこと……」 

「私はいずれわざわいとなる。それは変えようのない真実だ」 

 まるで諭すように彼は繰り返す。瞳に宿る濁りのない闇は、全てを拒絶しているのだ。この世に関わること。誰かに関わること。 
 自分がこの世に生まれ出たことも、全て。 
 彼は受け入れられない。ずっと、――これからも。 

「そんなことを今更打ち明けても仕方がないのに、私が悪かった。君に理解してもらおうとは思っていない。言葉にして語るべきことではなかった。朱桜、すまない」 

 彼は心から詫びる。何も悪くなどないのに。ただ生きていることが過ちだと呵責かしゃくを背負う。朱桜は熱いものが込み上げてくるのを止められなかった。 
 熱はそのまま溢れ出て、涙となって頬を伝う。 

「――朱桜すおう」 

闇呪あんじゅきみ。……そんなふうに考えるのは、間違えています」 

 闇呪が戸惑っているのを察して、朱桜はごしごしと小袖で涙を拭う。泣かないと決めて毅然と顔を上げた。しっかりと闇呪の腕を捉まえて真正面から立ち向かう。 
 絶対に目を反らしたりはしない。見過ごすことはできない。 

「だって、私はあなたに魂魄いのちを救われました」 

「それは――」 

「闇呪の君にとっては、それだけじゃ足りないかもしれないけれど。……でも、私にとっては大きな意味があります。少なくとも、私はあなたのおかげで、こうしてここに在るんです。それなのに意味がないなんて。自分が在ることが過ちだなんて、おかしいです」 

「君がこの地に嫁がなければ、そんな危険な目にあうこともなかった」 
「いいえ。あのまま緋国ひのくにで過ごしていれば、私はすでに魂魄いのちを失っていたと思います」 

「そんなことはない」 

「私は自分の立場も状況もわかっていました。闇呪の君がこの世に生まれたことを過ちだと思っているように、私は緋国に生まれたことを過ちだと思っていました。誰にも認めてもらうことができないのだと。だから、毎日自分が生きている意味を必死に探さなければならなかった」 

「生きている意味――?」 

 闇呪が繰り返す。朱桜は頷いた。きっと彼になら判ってもらえる。そんな気がした。 

「はじめは誰かに与えられるものだと思っていました。だけど、それは誰かに与えられるものではなくて、自分の心に在るかどうかなんです」 

「では、君は生きている意味を見つけたのか。その心の中に在ると?」 

 朱桜は微笑んでみせた。 

「あります」 
「この地に嫁いだ今も?」 

「――はい」 

 闇呪は「そうか」と呟き、「良かった」と微笑んだ。常に相手を労わる視点は変わらない。彼の心に触れる度に、朱桜すおうは胸が締め付けられる。心が傾く。 
 もっと彼にも笑っていて欲しいと願う。 

「闇呪の君は、私を迎えて得るものがあると仰ってくださった。それは私も同じです。闇呪の君のおかけで、私は満たされたことがたくさんあります」 

「君が?」 

「そうです。あなたと関わって幸せになれる者だっているんです。闇呪あんじゅきみはこの世の過ちなんかじゃありません。たとえこの世を滅ぼす禍だったとしても、あなたと関わった人がみんな不幸になるわけではありません」 

 どうすれば思いが届くのだろう。闇呪の抱くうしろめたさ。それが無意味なものだと判って欲しいのに。 

「闇呪の君が信じられなくても、私はこの地に来てあなたに魂魄いのちを救われました。そして、あなたは私がここに在ること認めてくれた。緋国で必死になって探していた居場所を、闇呪の君が私に与えてくださった。だから私はとても幸せです、これ以上はないくらい」 

 とりとめもなく思いを語りながら、朱桜は自分が一番何を伝えたかったのか、ようやくわかった。 

「私は闇呪の君と出会えて良かった」 

 心からそう思う。 
 何よりもそれを彼に伝えたかった。 

「それだけで今は生まれてきて良かったと思える。本当です」 

 闇呪はじっと朱桜を見つめている。失った何かを探しているような眼差しだった。 

「――本当に?」 

「本当です、信じてください」 

「では、私は――、ここに在っても良いのだろうか」 

 すがるような問いかけだった。朱桜は深く頷いた。 
 ゆるやかな風が闇呪あんじゅの声をのせて舞う。 

「生まれてきたことを悦んでもいいと?」 

「はい、私が祝福します」 

 答えた直後、ふわりと風が動いた。すぐに温もりに包まれる。 

「朱桜……」 

 振り絞るような声が自分を呼んでいる。 

「ありがとう」 

 彼に抱きすくめられた戸惑いが、込み上げてきた気持ちにかき消された。 
 伝わったのだと、朱桜はそれだけで胸が一杯になった。 
 しがみつくように強く彼に触れる。 

 温もりが優しい。 
 朱桜自身、こんなにも生きていることを悦びに感じたことはなかった。 
 涙が出るほどの幸せ。満たされた日々。 
 全て闇呪が自分に与えてくれたのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

永遠の誓いを立てましょう、あなたへの想いを思い出すことは決してないと……

矢野りと
恋愛
ある日突然、私はすべてを失った。 『もう君はいりません、アリスミ・カロック』 恋人は表情を変えることなく、別れの言葉を告げてきた。彼の隣にいた私の親友は、申し訳なさそうな顔を作ることすらせず笑っていた。 恋人も親友も一度に失った私に待っていたのは、さらなる残酷な仕打ちだった。 『八等級魔術師アリスミ・カロック。異動を命じる』 『えっ……』 任期途中での異動辞令は前例がない。最上位の魔術師である元恋人が裏で動いた結果なのは容易に察せられた。 私にそれを拒絶する力は勿論なく、一生懸命に築いてきた居場所さえも呆気なく奪われた。 それから二年が経った頃、立ち直った私の前に再び彼が現れる。 ――二度と交わらないはずだった運命の歯車が、また動き出した……。 ※このお話の設定は架空のものです。 ※お話があわない時はブラウザバックでお願いします(_ _)

処理中です...