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第四話 闇の在処(ありか)
七章:四 闇の地:禍(わざわい)の妃
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「残念ながら私は剣を手放しても守護が在る。驚くような尊い行いではないな」
「いいえ、すごいことです。私はとても素敵だと、思い、……ます」
語尾が不自然な小声になった。朱桜はこっちが驚くほどの勢いで顔を真っ赤にしている。
「朱桜?」
闇呪は異界の桜の実が体に合わなかったのかと、思わず手を伸ばした。
「具合でも悪いのか」
「ち、違います」
額に手を当てると、ますます朱桜の頬が鮮やかに染まった。
「まるで鬼の風(風邪)に当てられたような顔色をしているが……」
「こ、これは、だから――」
何かを言いよどんでいる朱桜の声を助けるように、背後から麒一の穏やかな声が響いた。
「我が君は女心というものがわからないのです」
全く気配を感じなかったが、麒一はいつの間にかすぐ傍らまで歩み寄ってきていた。
「朱桜様もいつまでも幼い姫君のままではありません。殿方を前にして恥らうのは当然です」
闇呪は改めて朱桜を眺めた。頬を染めたまま俯いている。他愛ない仕草。以前と何かが大きく変わったわけでもないのに、たしかに美しくなったと感じられる。これからは一つ一つの所作に毎日のように新たな発見があるのかもしれない。それは闇呪にとっては心地の良い変化だった。
「麒一、私だって朱桜がいつまでも幼い姫君だとは思っていない」
素直に感じた変化を語ってみたが、麒一は疑わしそうに黒眼勝ちの眼差しを細めた。
「では、我が君は恥らう姫君のお気持ちがわかりますか?」
闇呪は沈黙したまま恥じ入っているらしい朱桜を見つめる。朱桜が少しづつ変化していることはわかるが、なぜ恥じる必要があるのかはわからない。やはり熱があるのではないかと思い、もう一度額に触れてみる。
瞬間、ぼっと点火でもしたかのように朱桜は耳まで真っ赤になった。
「我が君、姫君をからかっておられるのですか?」
「いや、やはり熱でもあるのではないかと思ったのだが……」
麒一の深い溜息が聞こえてきた。やはり人との関わりを避けてきた自分には、人の気持ちを汲み取ることが難しいのだろう。朱桜が恥らう気持ちが、闇呪にはどうしても理解できない。俯いて頬を染めている朱桜が不憫に思えてくる。
「朱桜、君が私に恥じるような理由は何もない。むしろこんな異質な姿を晒して、恥じるべきは私の方だろう。君はこれからも日毎に綺麗になっていくだけで、それを恥じる必要はない。君が美しく変化していく様を見ていられるのは、私にとっては幸運だと思う」
出来る限り言葉を選んだつもりだったが、朱桜は真っ赤な顔のまま困ったような、あるいは泣き出しそうな複雑な表情をしている。
「わ、わたし……」
空耳かと思うような小さな声がした。真っ直ぐにこちらに向けられた朱の瞳が潤んでいるのがわかる。明らかに尋常ではない様子に、闇呪が再び声をかけようとすると一呼吸はやく朱桜の声が響いた。
「わたしをからかうのはやめて下さい」
はっきりとした主張だったが、闇呪には意味がわからない。かける言葉を失っていると、どこから様子を伺っていたのか麟華の大笑いが沈黙を破る。
「麟華、我が君の御前です」
「だ、だって麒一。あんまりにもおかしくて――」
ひとしきり笑ってから、麟華はがっくりとうな垂れている朱桜に歩み寄って肩を叩いた。
「姫君、主上は大真面目なのよ。人をからかったりできない方ですもの」
「だけど、わたしなんて、大して美しくもないのに……」
「あらま、随分な過少評価ね。こんなに愛くるしいのに」
「それは単に幼いから、そう映るだけです」
闇呪が成り行きを見守っていると、傍らで麒一も小さく笑っている。いつのまにか警戒心の強い麒一も朱桜には心を許しているようだ。朱桜を見つめている眼差しが穏やかだった。麒一と目が合うと、闇呪は自然に問いかけていた。
「おまえ達は朱桜を歓迎しているのか」
「今更なにを仰っているのですか?」
「私はおまえのそんな顔をはじめて見た」
麒一はおやっと云う様に表情を変えた。
「我らは我が君の守護です。姫君と対話されるようになってからの我が君の変化は、我々にとっても喜ばしい。それに我が君の変化をさしおいても、朱桜様は愛らしい方です。そんなことは以前から判っていたことですが、どうやら我が君はようやくお気付きになったようですね」
的確に言い当てられたような気がして、闇呪はふいと視線を逸らした。麒一は遠慮がちに笑いながら続けた。
「我らは姫君を歓迎しています。我が君はいかがですか」
麒一の何気ない問い。既に答えは出ているのに、闇呪は答えることにためらいを覚える。
思わず朱桜を見ると彼女もこちらを見ていた。麒一の問いには歓迎していると答えるべきなのだ。判っているのに心に刻まれたわだかまりが、くっきりと浮かび上がってくる。どうしても、それを無視することができない。
どれほど覚悟を決めて朱桜を迎えても、消えない。
この地に在るという意味。禍に嫁いだという暗い未来。
「私は、喜ぶことはできない」
伝えた瞬間、朱桜の表情がはっきりと落胆の色を表した。闇呪は取り繕うことはせずに、朱桜を見つめたまま素直に打ち明けた。
与えられた立場につきまとう影。彼女には伝えておかなければならない気がした。
「朱桜を迎えて私には得るものがたくさんあった。きっとこれからもそうだと思う。だが、朱桜は違う。――君は既に覚悟を決めているのかもしれない。だから、いまさら突きつける必要のないことだが……。この呪われた地で禍の伴侶となる。そこから導かれる未来に喜びはない。君はこの地にきて良かったと言うが、本当にそうだろうか」
朱桜はこちらを見たまま身動きしない。表情から心を読むこともできなかった。
「私は君を迎えたことを喜んで良いのかどうか、わからない。むしろ喜んではいけないと思っている」
朱桜は何も云わない。何も語らぬまま、ただこちらを見つめていた。闇呪は息苦しさを感じて視線を逸らした。胸の底に鈍い痛みを感じる。言葉にすべきことではなかったと悔いるがどうしようもない。どうして朱桜に打ち明けなければならないと感じてしまったのか。
闇呪は静かに踵を返した。朱桜を避けるように渡殿を過ぎて中門へと向かう。傷つけたのだと判っていても、どうしても取り残された朱桜を振り返ることができなかった。
「いいえ、すごいことです。私はとても素敵だと、思い、……ます」
語尾が不自然な小声になった。朱桜はこっちが驚くほどの勢いで顔を真っ赤にしている。
「朱桜?」
闇呪は異界の桜の実が体に合わなかったのかと、思わず手を伸ばした。
「具合でも悪いのか」
「ち、違います」
額に手を当てると、ますます朱桜の頬が鮮やかに染まった。
「まるで鬼の風(風邪)に当てられたような顔色をしているが……」
「こ、これは、だから――」
何かを言いよどんでいる朱桜の声を助けるように、背後から麒一の穏やかな声が響いた。
「我が君は女心というものがわからないのです」
全く気配を感じなかったが、麒一はいつの間にかすぐ傍らまで歩み寄ってきていた。
「朱桜様もいつまでも幼い姫君のままではありません。殿方を前にして恥らうのは当然です」
闇呪は改めて朱桜を眺めた。頬を染めたまま俯いている。他愛ない仕草。以前と何かが大きく変わったわけでもないのに、たしかに美しくなったと感じられる。これからは一つ一つの所作に毎日のように新たな発見があるのかもしれない。それは闇呪にとっては心地の良い変化だった。
「麒一、私だって朱桜がいつまでも幼い姫君だとは思っていない」
素直に感じた変化を語ってみたが、麒一は疑わしそうに黒眼勝ちの眼差しを細めた。
「では、我が君は恥らう姫君のお気持ちがわかりますか?」
闇呪は沈黙したまま恥じ入っているらしい朱桜を見つめる。朱桜が少しづつ変化していることはわかるが、なぜ恥じる必要があるのかはわからない。やはり熱があるのではないかと思い、もう一度額に触れてみる。
瞬間、ぼっと点火でもしたかのように朱桜は耳まで真っ赤になった。
「我が君、姫君をからかっておられるのですか?」
「いや、やはり熱でもあるのではないかと思ったのだが……」
麒一の深い溜息が聞こえてきた。やはり人との関わりを避けてきた自分には、人の気持ちを汲み取ることが難しいのだろう。朱桜が恥らう気持ちが、闇呪にはどうしても理解できない。俯いて頬を染めている朱桜が不憫に思えてくる。
「朱桜、君が私に恥じるような理由は何もない。むしろこんな異質な姿を晒して、恥じるべきは私の方だろう。君はこれからも日毎に綺麗になっていくだけで、それを恥じる必要はない。君が美しく変化していく様を見ていられるのは、私にとっては幸運だと思う」
出来る限り言葉を選んだつもりだったが、朱桜は真っ赤な顔のまま困ったような、あるいは泣き出しそうな複雑な表情をしている。
「わ、わたし……」
空耳かと思うような小さな声がした。真っ直ぐにこちらに向けられた朱の瞳が潤んでいるのがわかる。明らかに尋常ではない様子に、闇呪が再び声をかけようとすると一呼吸はやく朱桜の声が響いた。
「わたしをからかうのはやめて下さい」
はっきりとした主張だったが、闇呪には意味がわからない。かける言葉を失っていると、どこから様子を伺っていたのか麟華の大笑いが沈黙を破る。
「麟華、我が君の御前です」
「だ、だって麒一。あんまりにもおかしくて――」
ひとしきり笑ってから、麟華はがっくりとうな垂れている朱桜に歩み寄って肩を叩いた。
「姫君、主上は大真面目なのよ。人をからかったりできない方ですもの」
「だけど、わたしなんて、大して美しくもないのに……」
「あらま、随分な過少評価ね。こんなに愛くるしいのに」
「それは単に幼いから、そう映るだけです」
闇呪が成り行きを見守っていると、傍らで麒一も小さく笑っている。いつのまにか警戒心の強い麒一も朱桜には心を許しているようだ。朱桜を見つめている眼差しが穏やかだった。麒一と目が合うと、闇呪は自然に問いかけていた。
「おまえ達は朱桜を歓迎しているのか」
「今更なにを仰っているのですか?」
「私はおまえのそんな顔をはじめて見た」
麒一はおやっと云う様に表情を変えた。
「我らは我が君の守護です。姫君と対話されるようになってからの我が君の変化は、我々にとっても喜ばしい。それに我が君の変化をさしおいても、朱桜様は愛らしい方です。そんなことは以前から判っていたことですが、どうやら我が君はようやくお気付きになったようですね」
的確に言い当てられたような気がして、闇呪はふいと視線を逸らした。麒一は遠慮がちに笑いながら続けた。
「我らは姫君を歓迎しています。我が君はいかがですか」
麒一の何気ない問い。既に答えは出ているのに、闇呪は答えることにためらいを覚える。
思わず朱桜を見ると彼女もこちらを見ていた。麒一の問いには歓迎していると答えるべきなのだ。判っているのに心に刻まれたわだかまりが、くっきりと浮かび上がってくる。どうしても、それを無視することができない。
どれほど覚悟を決めて朱桜を迎えても、消えない。
この地に在るという意味。禍に嫁いだという暗い未来。
「私は、喜ぶことはできない」
伝えた瞬間、朱桜の表情がはっきりと落胆の色を表した。闇呪は取り繕うことはせずに、朱桜を見つめたまま素直に打ち明けた。
与えられた立場につきまとう影。彼女には伝えておかなければならない気がした。
「朱桜を迎えて私には得るものがたくさんあった。きっとこれからもそうだと思う。だが、朱桜は違う。――君は既に覚悟を決めているのかもしれない。だから、いまさら突きつける必要のないことだが……。この呪われた地で禍の伴侶となる。そこから導かれる未来に喜びはない。君はこの地にきて良かったと言うが、本当にそうだろうか」
朱桜はこちらを見たまま身動きしない。表情から心を読むこともできなかった。
「私は君を迎えたことを喜んで良いのかどうか、わからない。むしろ喜んではいけないと思っている」
朱桜は何も云わない。何も語らぬまま、ただこちらを見つめていた。闇呪は息苦しさを感じて視線を逸らした。胸の底に鈍い痛みを感じる。言葉にすべきことではなかったと悔いるがどうしようもない。どうして朱桜に打ち明けなければならないと感じてしまったのか。
闇呪は静かに踵を返した。朱桜を避けるように渡殿を過ぎて中門へと向かう。傷つけたのだと判っていても、どうしても取り残された朱桜を振り返ることができなかった。
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