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第四話 闇の在処(ありか)
六章:ニ 闇の地:朱桜の巨木
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はらりと頬に何かが触れる。六の君はその気配でぼんやりと目を覚ました。
既に辺りは明るい。ゆっくりと内庭へ顔を向けると、見事に花をつけた朱桜の巨木が視界に飛び込んでくる。
いつのまにか朱桜の花が咲く時期が巡っていたのかと思ったが、六の君はすぐにまだ夢の続きを彷徨っているのだと考え直した。
闇の地に朱桜は咲かない。敷地内に朱桜の木がないのだから、見ることは叶わない筈だった。
まだ目覚めきれずにいる六の君の頬に、ふたたびはらりと気配が触れる。
内庭からの緩やかな風が、赤い花びらを運んでくる。それは広廂を埋め尽くし、居室にまで舞い散っていた。
瞬きをしても失われない眩い光景。六の君はようやく横たえていた体を起こし、ふらつく足元を気にも留めず広廂まで歩み出た。
内庭を飾っている視界いっぱいの朱桜の巨木。故郷の花にも負けない美しさで、咲き誇っている。
(やっぱり、夢のつづき?)
六の君が匂欄にしがみつくようにして魅入っていると、「朱桜の姫君」と聞きなれた声がした。
麟華が誰かを呼んでいるのだ。華艶の美女以外に来客でもあったのだろうか。闇呪ほどの殿方であれば慕って訪れる女がいても不思議ではない。今まで自分が知らなかっただけだろう。あるいは妃であるという立場から、知られないように配慮されていたのかもしれない。
朱桜という愛称をいただく姫君。きっと美しい方なのだろう。知らずに吐息をつきながら六の君は何気なく声のした方を向いた。
「姫君!」
こちらに続く軒廊から麟華が身を乗り出すようにして大きく手を振っている。
「朱桜の君、具合はどう?」
六の君の答えを待たず、麟華はすぐに目の前まで駆けつけて来た。
「起き出したりして平気? 長く臥せたまま目覚めないので心配したわ。だけど、顔色は悪くないわね。朱桜の君、何か召し上がる?なんでも用意するわよ」
麟華は嬉しそうに畳み掛けてくるが、六の君には何が起きているのかわからない。
なぜここに朱桜の巨木があるのか、なぜ自分が朱桜と呼ばれているのか。
けれど、それ以上に気になることがあった。
これが夢のつづきでなければ、一番に確かめなければならないのは――。
「あ、あの、麟華」
ようやく声を発すると、麟華がぴたりと口を閉ざして耳を傾けてくれる。
「闇呪の君のお加減はいかがなのですか?」
麟華は驚いたように目を丸くして「まぁっ」と声を上げる。
「目覚めて一番に主上のことを気にするなんて、朱桜の君ったらなんて愛らしい」
「そ、そんなこと、当たり前です。だって、闇呪の君は私のせいで大変な目にあったのですから。私が鬼の坩堝になど出向いたせいで――」
決して鬼の坩堝に近づいてはならない。六の君はその言いつけに背いた。鬼に囚われ、全てが終わるのだと覚悟した瞬間、闇呪に救われたのだ。けれど、悠闇剣を抜くことができない闇呪は、その身に鬼を封じた。
六の君には想像のつかない苦痛が彼を襲ったに違いない。昏倒した闇呪の傍らで、六の君はひたすら快復することを信じて尽くした。
ようやく闇呪の容態が落ち着いてきたとき、張り詰めていた何かがふっと緩んだのだろう。気を失い、闇呪の快復を確かめることもできないまま、今まで臥せっていたのだ。
「それで、闇呪の君は? あの方はご無事なのでしょうか?」
「大丈夫よ。姫君の健気な看病のおかげで主上は完全に快復されたわ」
「本当に?」
「ええ」
六の君がほっと息をつくと、ふいに麟華の手が頭に置かれた。
「姫君、本当にありがとう。そして、ごめんさない」
「え?」
六の君には感謝される理由も謝罪される理由も思い当たらない。不思議そうに麟華を見上げていると、彼女に強く抱きしめられる。
「私達は姫君に寂しい思いをさせていたのね。――ごめんなさい」
一瞬にして麟華の気持ちが伝わってくる。自分が鬼に囚われた時、閉じ込めていた心の闇が明らかになった。きっと麟華にも知られてしまったに違いない。
「そ、そんな。違う、違います。麟華は悪くないし、誰も悪くありません。言いつけに背いた私が悪いんです」
焦って声を上げるが、自分を抱きしめる麟華の腕は緩まない。柔らかな心地の良い温もりだった。六の君はふと視界の端に朱桜の花を映して、はっと気付く。
「もしかして、それでここに朱桜の巨木を?」
尋ねると麟華の腕が緩む。嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「姫君には朱桜の花がよく似合うわ。だからここにも咲かせるべきでしょ? それに、六の君なんてつまらないもの。姫君の愛称は朱桜の姫君で決まりよ」
「わたしが、朱桜?」
六の君――朱桜は思わず内庭の美しい巨木を見た。鮮やかな光景と自身の姿がうまく重ならない。自分にはもったいないと思えたが、麟華があまりにも堂々と豪語するので、不思議とためらいはなかった。
「ありがとう、麟華」
素直に微笑むと、再び麟華の腕が伸びてくる。
「朱桜の君ったら、愛らしい」
ぐりぐりと頭に頬ずりをする麟華の仕草に、朱桜は声をたてて笑った。
今は麟華の気遣いや思いを嬉しいと感じられる。どうしてあんなに孤独だと思ってしまったのだろう。闇呪と不釣合いであることを嘆く前に、自分にはもっと出来ることがあったはずなのだ。
妃であることにこだわる必要はない。ただ彼のために何かができれば良いのだ。
そして。
鬼の坩堝で、彼は自分を見捨てはしなかった。
それだけで充分だった。それだけで、朱桜はここに在ることができる。
前を向いて生きていられる。
既に辺りは明るい。ゆっくりと内庭へ顔を向けると、見事に花をつけた朱桜の巨木が視界に飛び込んでくる。
いつのまにか朱桜の花が咲く時期が巡っていたのかと思ったが、六の君はすぐにまだ夢の続きを彷徨っているのだと考え直した。
闇の地に朱桜は咲かない。敷地内に朱桜の木がないのだから、見ることは叶わない筈だった。
まだ目覚めきれずにいる六の君の頬に、ふたたびはらりと気配が触れる。
内庭からの緩やかな風が、赤い花びらを運んでくる。それは広廂を埋め尽くし、居室にまで舞い散っていた。
瞬きをしても失われない眩い光景。六の君はようやく横たえていた体を起こし、ふらつく足元を気にも留めず広廂まで歩み出た。
内庭を飾っている視界いっぱいの朱桜の巨木。故郷の花にも負けない美しさで、咲き誇っている。
(やっぱり、夢のつづき?)
六の君が匂欄にしがみつくようにして魅入っていると、「朱桜の姫君」と聞きなれた声がした。
麟華が誰かを呼んでいるのだ。華艶の美女以外に来客でもあったのだろうか。闇呪ほどの殿方であれば慕って訪れる女がいても不思議ではない。今まで自分が知らなかっただけだろう。あるいは妃であるという立場から、知られないように配慮されていたのかもしれない。
朱桜という愛称をいただく姫君。きっと美しい方なのだろう。知らずに吐息をつきながら六の君は何気なく声のした方を向いた。
「姫君!」
こちらに続く軒廊から麟華が身を乗り出すようにして大きく手を振っている。
「朱桜の君、具合はどう?」
六の君の答えを待たず、麟華はすぐに目の前まで駆けつけて来た。
「起き出したりして平気? 長く臥せたまま目覚めないので心配したわ。だけど、顔色は悪くないわね。朱桜の君、何か召し上がる?なんでも用意するわよ」
麟華は嬉しそうに畳み掛けてくるが、六の君には何が起きているのかわからない。
なぜここに朱桜の巨木があるのか、なぜ自分が朱桜と呼ばれているのか。
けれど、それ以上に気になることがあった。
これが夢のつづきでなければ、一番に確かめなければならないのは――。
「あ、あの、麟華」
ようやく声を発すると、麟華がぴたりと口を閉ざして耳を傾けてくれる。
「闇呪の君のお加減はいかがなのですか?」
麟華は驚いたように目を丸くして「まぁっ」と声を上げる。
「目覚めて一番に主上のことを気にするなんて、朱桜の君ったらなんて愛らしい」
「そ、そんなこと、当たり前です。だって、闇呪の君は私のせいで大変な目にあったのですから。私が鬼の坩堝になど出向いたせいで――」
決して鬼の坩堝に近づいてはならない。六の君はその言いつけに背いた。鬼に囚われ、全てが終わるのだと覚悟した瞬間、闇呪に救われたのだ。けれど、悠闇剣を抜くことができない闇呪は、その身に鬼を封じた。
六の君には想像のつかない苦痛が彼を襲ったに違いない。昏倒した闇呪の傍らで、六の君はひたすら快復することを信じて尽くした。
ようやく闇呪の容態が落ち着いてきたとき、張り詰めていた何かがふっと緩んだのだろう。気を失い、闇呪の快復を確かめることもできないまま、今まで臥せっていたのだ。
「それで、闇呪の君は? あの方はご無事なのでしょうか?」
「大丈夫よ。姫君の健気な看病のおかげで主上は完全に快復されたわ」
「本当に?」
「ええ」
六の君がほっと息をつくと、ふいに麟華の手が頭に置かれた。
「姫君、本当にありがとう。そして、ごめんさない」
「え?」
六の君には感謝される理由も謝罪される理由も思い当たらない。不思議そうに麟華を見上げていると、彼女に強く抱きしめられる。
「私達は姫君に寂しい思いをさせていたのね。――ごめんなさい」
一瞬にして麟華の気持ちが伝わってくる。自分が鬼に囚われた時、閉じ込めていた心の闇が明らかになった。きっと麟華にも知られてしまったに違いない。
「そ、そんな。違う、違います。麟華は悪くないし、誰も悪くありません。言いつけに背いた私が悪いんです」
焦って声を上げるが、自分を抱きしめる麟華の腕は緩まない。柔らかな心地の良い温もりだった。六の君はふと視界の端に朱桜の花を映して、はっと気付く。
「もしかして、それでここに朱桜の巨木を?」
尋ねると麟華の腕が緩む。嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「姫君には朱桜の花がよく似合うわ。だからここにも咲かせるべきでしょ? それに、六の君なんてつまらないもの。姫君の愛称は朱桜の姫君で決まりよ」
「わたしが、朱桜?」
六の君――朱桜は思わず内庭の美しい巨木を見た。鮮やかな光景と自身の姿がうまく重ならない。自分にはもったいないと思えたが、麟華があまりにも堂々と豪語するので、不思議とためらいはなかった。
「ありがとう、麟華」
素直に微笑むと、再び麟華の腕が伸びてくる。
「朱桜の君ったら、愛らしい」
ぐりぐりと頭に頬ずりをする麟華の仕草に、朱桜は声をたてて笑った。
今は麟華の気遣いや思いを嬉しいと感じられる。どうしてあんなに孤独だと思ってしまったのだろう。闇呪と不釣合いであることを嘆く前に、自分にはもっと出来ることがあったはずなのだ。
妃であることにこだわる必要はない。ただ彼のために何かができれば良いのだ。
そして。
鬼の坩堝で、彼は自分を見捨てはしなかった。
それだけで充分だった。それだけで、朱桜はここに在ることができる。
前を向いて生きていられる。
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