162 / 233
第四話 闇の在処(ありか)
六章:一 金域(こんいき):偽りの玉座
しおりを挟む
耳の痛くなるような静寂の向こう側から、ことりと沓を踏み鳴らす音が聞こえる。久遠はそっとその場に平伏した。黄帝がやってくるまで、それほど時はかからなかった。
「――華艶はまだなのか」
問いかけに答えるように、久遠はゆっくりと面を上げた。
「もうすぐ参られると思います。陛下、ご自身の宮でお待ちになった方がよろしいのではないでしょうか。お体に触ります」
こちらを見下ろす黄帝の肩から、はらりと金髪が流れ落ちる。疲弊しつつある世にあって、ここだけが皮肉なほど変わらない。金域だけは、わざとらしく感じるほど眩い。
「ここは息苦しい。おまえの言うとおりにしよう」
力のない足取りで黄帝が立ち去る。
久遠は長い金髪に飾られた後ろ姿を見送る。やがて痛々しいものから目を背けるように顔を伏せた。きりきりと胸が痛む。
偽りの玉座。
心に刻まれた真実が、久遠の胸をじわじわと締め付ける。
この世から輝きが失われていくのを、ただ眺めることしか出来ない歯がゆさ。
(――朔夜)
まるで祈りを捧げるように、久遠は彼女を思う。
美しく聡明な姉、朔夜。稀有な力を秘めた先守。物心がついたときから、久遠の傍らには姉が在った。彼女の語る美しい言葉と共に過ごした。
同じ父と母を持ちながら、久遠は朔夜のように先守として生まれなかった。滄と緋の混血で在りながら、天に占う力を与えられなかったのだ。
ただ髪色と瞳だけが先守と等しく紫紺を彩っている。無力な自身を嘆く日々もあったが、ある日、姉の朔夜が静かに宿命を語った。この世の真実と共に。
先守であるが故に与えられた、朔夜の使命。
そして。
無力であるが故に与えられた、久遠の使命。
朔夜は未来を視る。だからこそ物心がついた時から覚悟を決めていたのだろう。未来を守るために、姉はその身を捧げた。はじめから、そう決めていたのだ。決まっていた。
久遠はそっと目を閉じた。
あの日――既に色褪せそうな遠い日を思い出す。
輝きに満ちた金域へと向かう道中で、姉の美しい横顔は色を失っていた。はじめて金域を訪れる久遠の内にも喜びや高ぶりは生まれてこなかった。ただ覚悟だけがあった。朔夜は蒼白い顔でこちらを見た。吸い込まれそうな紫紺の瞳には、哀しみが映っていた。姉の苦悩が、久遠にも痛いほどわかった。金域へと続く道程。あれは姉である朔夜にとっては久遠を使命へと送り出す旅路だったのだ。
姉――朔夜の美しい声。
(「――あなたは恐ろしいものを見る」)
痛々しいものを眺めるように朔夜は目を細めた。
ただ頷いて見せた久遠に、姉はぎこちなく微笑み、詫びた。
(「あなたを巻き込んだことを、どうか許してほしい」)
頷くと朔夜はありがとうと笑った。それが自分に向けられた最後の姉の声だった。
姉の辿った末路は、彼女が久遠に告げた先途と何ひとつ狂うことはなく形になった。
稀有な先守であるがゆえに、朔夜は呪いを受ける。人々はそれを天罰であると語り継ぐ。
(「――わたしは陛下を導かなければならない。たとえどのような目にあおうとも」)
揺るがない決意で、姉は自身に架した使命を全うした。
久遠は胸に拳を当てて痛みに耐える。
どれほど目を背けたくなるような光景であろうとも、今は耐えるしかないのだ。
朔夜が耐えたように。
全ての真実を封印して、久遠は立ち上がった。
(「――陛下は妾を見捨てた」)
空耳のように、懐かしい恨み言が聞こえる。色彩のない闇色の宵衣を羽織っても、沈むことのない美貌。女は思わず顔を綻ばせた。
憎悪で混沌とした闇の中心に燻る想い。今となっては耳を澄ませても、はっきりと聞き取ることができなくなっている。
可哀想な女の小さな嘆き。女の名は――華艶と云っただろうか。
当時、天地界に並ぶことのない美貌を謳われた女。その美しさゆえに、最悪の仕打ちを受けた昔日。
懐かしい。
「愛しい恨み――」
くすくすと甘い笑い声が通路の静寂を満たしている。
するすると宵衣を引き摺りながら、たおやかな足取りで進む人影。先守の最高位にある絶世の美女。そう謳われる女は、通路の行き止まりでもある重々しい扉の前でぴたりと立ち止まった。
金域にありながら、先帝が失落後誰も立ち入ることのできない最奥の間。
そっと白い手を上げると、巨大な扉がゆっくりと内側へと開かれた。
光を集めたかのような眩い居室。しかし視線を下げると足元には夥しい鬼が陽炎のように渦巻いている。
女は臆することもなく踏み込み、中心に吊るされた霊獣の影を仰いだ。輝く四肢。生かされた亡骸を目にするたびに、女は知らず目を細めてしまう。
傍らの台座に目を向けると、眼球を繰り抜かれた頭部が鎮座していた。額から伸びる角は、元の輝きが嘘のように失われ、その身に下された呪いを現している。
漆黒の角。
先帝はじわじわと正気を犯され、目を覆いたくなる凶行に及んだ。
自身の守護である麒麟に呪いをかけ、自らは天罰を受けて消滅した。失落するよりもっとたちの悪い終焉。
全ては女の目論見どおりに果たされた。
呪いに囚われたまま生かされている、麒麟の亡骸。今も失われることがなく、ぽたりぽたりと不可思議な輝きを秘めた赤い血を垂らす。
麒麟の生血。それが何を成し遂げたのか。
女は満たされつつある杯を手に取り、磔のように吊るされた影を仰ぐ。
「哀れな姿。愚かな主を恨むが良い。――いつの世も変わらぬ」
甘く柔らかな発音はそのままに、女の声は暗い呪詛を吐き出すように厳しい。
「――華艶はまだなのか」
問いかけに答えるように、久遠はゆっくりと面を上げた。
「もうすぐ参られると思います。陛下、ご自身の宮でお待ちになった方がよろしいのではないでしょうか。お体に触ります」
こちらを見下ろす黄帝の肩から、はらりと金髪が流れ落ちる。疲弊しつつある世にあって、ここだけが皮肉なほど変わらない。金域だけは、わざとらしく感じるほど眩い。
「ここは息苦しい。おまえの言うとおりにしよう」
力のない足取りで黄帝が立ち去る。
久遠は長い金髪に飾られた後ろ姿を見送る。やがて痛々しいものから目を背けるように顔を伏せた。きりきりと胸が痛む。
偽りの玉座。
心に刻まれた真実が、久遠の胸をじわじわと締め付ける。
この世から輝きが失われていくのを、ただ眺めることしか出来ない歯がゆさ。
(――朔夜)
まるで祈りを捧げるように、久遠は彼女を思う。
美しく聡明な姉、朔夜。稀有な力を秘めた先守。物心がついたときから、久遠の傍らには姉が在った。彼女の語る美しい言葉と共に過ごした。
同じ父と母を持ちながら、久遠は朔夜のように先守として生まれなかった。滄と緋の混血で在りながら、天に占う力を与えられなかったのだ。
ただ髪色と瞳だけが先守と等しく紫紺を彩っている。無力な自身を嘆く日々もあったが、ある日、姉の朔夜が静かに宿命を語った。この世の真実と共に。
先守であるが故に与えられた、朔夜の使命。
そして。
無力であるが故に与えられた、久遠の使命。
朔夜は未来を視る。だからこそ物心がついた時から覚悟を決めていたのだろう。未来を守るために、姉はその身を捧げた。はじめから、そう決めていたのだ。決まっていた。
久遠はそっと目を閉じた。
あの日――既に色褪せそうな遠い日を思い出す。
輝きに満ちた金域へと向かう道中で、姉の美しい横顔は色を失っていた。はじめて金域を訪れる久遠の内にも喜びや高ぶりは生まれてこなかった。ただ覚悟だけがあった。朔夜は蒼白い顔でこちらを見た。吸い込まれそうな紫紺の瞳には、哀しみが映っていた。姉の苦悩が、久遠にも痛いほどわかった。金域へと続く道程。あれは姉である朔夜にとっては久遠を使命へと送り出す旅路だったのだ。
姉――朔夜の美しい声。
(「――あなたは恐ろしいものを見る」)
痛々しいものを眺めるように朔夜は目を細めた。
ただ頷いて見せた久遠に、姉はぎこちなく微笑み、詫びた。
(「あなたを巻き込んだことを、どうか許してほしい」)
頷くと朔夜はありがとうと笑った。それが自分に向けられた最後の姉の声だった。
姉の辿った末路は、彼女が久遠に告げた先途と何ひとつ狂うことはなく形になった。
稀有な先守であるがゆえに、朔夜は呪いを受ける。人々はそれを天罰であると語り継ぐ。
(「――わたしは陛下を導かなければならない。たとえどのような目にあおうとも」)
揺るがない決意で、姉は自身に架した使命を全うした。
久遠は胸に拳を当てて痛みに耐える。
どれほど目を背けたくなるような光景であろうとも、今は耐えるしかないのだ。
朔夜が耐えたように。
全ての真実を封印して、久遠は立ち上がった。
(「――陛下は妾を見捨てた」)
空耳のように、懐かしい恨み言が聞こえる。色彩のない闇色の宵衣を羽織っても、沈むことのない美貌。女は思わず顔を綻ばせた。
憎悪で混沌とした闇の中心に燻る想い。今となっては耳を澄ませても、はっきりと聞き取ることができなくなっている。
可哀想な女の小さな嘆き。女の名は――華艶と云っただろうか。
当時、天地界に並ぶことのない美貌を謳われた女。その美しさゆえに、最悪の仕打ちを受けた昔日。
懐かしい。
「愛しい恨み――」
くすくすと甘い笑い声が通路の静寂を満たしている。
するすると宵衣を引き摺りながら、たおやかな足取りで進む人影。先守の最高位にある絶世の美女。そう謳われる女は、通路の行き止まりでもある重々しい扉の前でぴたりと立ち止まった。
金域にありながら、先帝が失落後誰も立ち入ることのできない最奥の間。
そっと白い手を上げると、巨大な扉がゆっくりと内側へと開かれた。
光を集めたかのような眩い居室。しかし視線を下げると足元には夥しい鬼が陽炎のように渦巻いている。
女は臆することもなく踏み込み、中心に吊るされた霊獣の影を仰いだ。輝く四肢。生かされた亡骸を目にするたびに、女は知らず目を細めてしまう。
傍らの台座に目を向けると、眼球を繰り抜かれた頭部が鎮座していた。額から伸びる角は、元の輝きが嘘のように失われ、その身に下された呪いを現している。
漆黒の角。
先帝はじわじわと正気を犯され、目を覆いたくなる凶行に及んだ。
自身の守護である麒麟に呪いをかけ、自らは天罰を受けて消滅した。失落するよりもっとたちの悪い終焉。
全ては女の目論見どおりに果たされた。
呪いに囚われたまま生かされている、麒麟の亡骸。今も失われることがなく、ぽたりぽたりと不可思議な輝きを秘めた赤い血を垂らす。
麒麟の生血。それが何を成し遂げたのか。
女は満たされつつある杯を手に取り、磔のように吊るされた影を仰ぐ。
「哀れな姿。愚かな主を恨むが良い。――いつの世も変わらぬ」
甘く柔らかな発音はそのままに、女の声は暗い呪詛を吐き出すように厳しい。
0
お気に入りに追加
134
あなたにおすすめの小説
運命の番?棄てたのは貴方です
ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。
番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。
※自己設定満載ですので気を付けてください。
※性描写はないですが、一線を越える個所もあります
※多少の残酷表現あります。
以上2点からセルフレイティング
2番目の1番【完】
綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。
騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。
それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。
王女様には私は勝てない。
結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。
※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです
自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。
批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
永遠の誓いを立てましょう、あなたへの想いを思い出すことは決してないと……
矢野りと
恋愛
ある日突然、私はすべてを失った。
『もう君はいりません、アリスミ・カロック』
恋人は表情を変えることなく、別れの言葉を告げてきた。彼の隣にいた私の親友は、申し訳なさそうな顔を作ることすらせず笑っていた。
恋人も親友も一度に失った私に待っていたのは、さらなる残酷な仕打ちだった。
『八等級魔術師アリスミ・カロック。異動を命じる』
『えっ……』
任期途中での異動辞令は前例がない。最上位の魔術師である元恋人が裏で動いた結果なのは容易に察せられた。
私にそれを拒絶する力は勿論なく、一生懸命に築いてきた居場所さえも呆気なく奪われた。
それから二年が経った頃、立ち直った私の前に再び彼が現れる。
――二度と交わらないはずだった運命の歯車が、また動き出した……。
※このお話の設定は架空のものです。
※お話があわない時はブラウザバックでお願いします(_ _)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる