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第四話 闇の在処(ありか)

二章:五 緋国:世と心

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 悪意のない口調で、紅於かえではからかうように云う。赤霞せっかも頭を下げてこちらを見ていた。もしかすると自分の素性には気付いていないのだろうか。ふとそんな思いがよぎる。紅於はすぐに、六の君のそんな思いを一蹴してくれた。 

縁下えんのしたにあっても、その鮮やかな緋色。六の君殿とお見受けするが。まさかこんな処で小さな姫宮を見つけようとは思いも寄らなかった。私は橙家とうけ紅於かえでと申します。ご存知かと思うが、いずれはあなたの義兄となりますので。以後お見知りおきを、小さな姫宮様」 

 宮家の外の人に出会うのは、これが初めてだった。六の君はその馴れ馴れしさに、ひどく違和感を覚えた。これまでに築かれた世界が音をたてて崩れていくような衝撃があった。 
 紅於かえでに対する警戒を緩められず、縁下えんのしたで身動き出来ずにいると、ふいに腕が伸びてきた。六の君は思わず悲鳴を上げた。紅於に縁下から引きずり出され、そのまま抱き上げられる。 

「これはこれは、噂とは違い恐ろしく可愛らしい姫宮だ。将来有望だな」 

 六の君には何が起きているのか分からない。新手の嫌がらせだろうかと、恐ろしさに身を震わせていると、赤毛の天馬がふわりと顔を寄せてきた。優しげな深紅の瞳を見て、辛うじて泣き出さずにすんだ。 
 天馬――赤霞せっかはじっと六の君を見つめてから、何かに気づいたかのように翼を広げた。突然駆け出したかと思うと、ばさりと飛び立つ。あっという間に寝殿を越え、南対屋みなみのたいのやのほうへと姿を消した。紅於にとっても意外な行動だったのか、唖然としている。 

「おいおい赤霞。いくらなんでも、それはまずいだろう」 

 紅於かえでの呟きと共に寝殿の方から悲鳴が聞こえた。現れた天馬に驚いているのだろう。けれど赤霞はすぐに舞い戻ってきた。なにか色鮮やかなものを咥えている。 
 再び目の前に着地した赤霞は、口に咥えていたものを抱え上げられている六の君に重ねた。それは南対みなみのたいを抜け出すときに脱ぎ捨ててきた着物だった。 

「なんだ、赤霞せっか、おまえは気がきくな。姫君のために人攫ひとさらいの真似事か」 

 たしかに着物を咥えていた赤霞を見れば、天馬が六の君を咥えて飛び去ったように見える。赤霞は全てを察しているのだろうか。六の君が見つめていると、赤霞は物静かにこちらを見つめ返してくる。 

「あ、あの、降ろしてください」 

 赤霞のおかげで正気を取り戻して気丈に訴えると、紅於はあっさりと六の君を解放した。 

「あっと、これは失礼。あまりにも可愛らしいので、私に娘ができたらこんな感じかだろうかと、思わず」 

 どうやら幼い者を可愛がるという屈託のなさから、今までの態度が導き出されているようだった。立場も肩書きも関係なく、紅於にとって六の君は幼いだけの子どもなのだ。 

「ところで、こんなところに潜んで一体何を? やはり隠れん坊だろうか」 

「――それは」 

 変わった人だと思ったが、紅於かえでは嫌な人でも恐ろしくもない。傍らでこちらを見ている赤霞せっか眼差まなざしも優しい。理由はどうであれ、自分の無謀さが招くはずだった最悪の状況は回避できた。美しい天馬に人攫いの汚名をきせるのは心苦しいが、赤霞は老猫を探す自分を応援しているのではないかと思えてしまう。 
 六の君は素直に老猫のことを語った。 




 涙が止まらなかった。 
 六の君は居室に戻ってからも、信じられずに泣きじゃくるしか出来なかった。 

(それは、きっと看取られるのを嫌がって姿を消したんだ) 

 老猫を探していたのだと話すと、紅於かえではあっさりと死期が来たのだと告げた。 
 赤霞せっかもまるで労わるように、深紅の瞳でこちらを見ていた。紅於の云うとおりだと頷いていたような気がする。 

 六の君の一番考えたくなかった結末。 
 紅於は突然泣き出した六の君を見て、慌てた声を出した。 

(猫なんて、また飼えば良いじゃないか。何なら私から新しい子猫でも贈ろうか) 

 六の君はただ横に首を振るしか出来ない。そういうことではないのだと叫びたかった。けれど、どうして自分がそれほどあの老猫に心を移していたのかは分からないのだ。心を通わせるのは、これからではなかったのか。自分は可愛がることもなく、何もしていない。できなかったのだ。 

 ただ泣くだけの自分の前には、すぐにあかつきが現れた。天馬に連れ去されたと思い、慌てて後を追ってきたようだ。激しく泣き伏せる六の君の様子も、天馬の突然の所業を恐れてのものだと判断したらしい。遠まわしに紅於を非難して、暁はすぐに六の君をその場から連れ去った。 

 南対屋みなみのたいのやの居室に戻っても、込み上げる痛みは緩まなかった。 
 暁は涙の理由を誤解したまま、無言で六の君の傍に座していた。天馬に連れ去られた衝撃をおもんばかってくれているのか、労わるように傍にいてくれた。 
 うまく呼吸が出来ないくらいの嗚咽が静まると、ようやく暁が口を開いた。 

「六の君殿。紅於かえで様には悪気があったわけではありません。あの方は少々奔放な面をお持ちですが、気さくな方なのです」 

 あかつきの変わらない口調。はじめは冷たい声だと感じていたが、今は同じ口調で語られても、単に落ち着いているだけなのだと感じられる。不思議だった。 
 六の君は濡れた顔で暁を見た。暁はいつもの落ち着いた声で続けた。 

「とはいえ、今回のなさりようは明らかに度が過ぎておりました。私も驚きました」 

 紅於が悪い人ではないと言うのは、六の君にもよくわかった。少し変わっているのだろうかというだけで印象は悪くない。恐ろしくないのだから。 

 六の君は袖で涙を拭うと、暁に本当のことを打ち明けた。叱られることは覚悟している。そんなことよりも、どうしてこんなに哀しいのか教えてほしかった。 
 暁は嗚咽交じりの言葉を、無表情に聞いていた。話し終えると、やはり始めに叱咤された。一通りの厳しい説教を終えた後、暁は感情の読めない顔のまま吐息をついた。深い呼吸だった。 

「おそらく、その猫は六の君殿のお心に住んでいたのでしょう。いつのまにか、かけがえのない者になっていたのです。だから、失ったことを悔やんでしまう。もっと出来ることがあったはずだと、後悔も募るのでしょう。違いますか」 

 六の君は頷いた。暁の云うとおりだ、何も違わない。抱きしめたこともなく、撫でたこともないけれど、ただ時折見かけるだけで六の君は嬉しかった。触れ合うことがなくても、心の中ではそうではなかった。寂しいときに、いつもあの老猫に触れていたような気がする。慰められていたのだ。 

紅於かえで様が云われるように、その猫が姿を隠したのは最期が近かったからでしょう」 

 暁は老猫がまた現れると慰めは言わなかった。信じたくはなかったけれど、六の君は認めざるを得ない。誰に言われるより、天馬である赤霞が頷いた時に真実として心に沁みた。哀しそうな深紅の眼差しが語っていた。 
 もう、いない。二度とあの褐色の縞模様を見ることは出来ない。 
 ふてぶてしいほどの緩慢な動作も、何もかも。 

「しかし、六の君殿。その猫がこちらに住み着いてから最期に至るまでのひとときは恵まれていたと思います」 

 意外なことを云われて、六の君は咄嗟に問い返していた。 

「どうしてですか?私は可愛がることができませんでした。……何も出来なかったのに」 

「触れ合うことだけが心を通わせる方法ではありません。その老いた猫にとっては、ここは良い住処だったでしょう。そうでなければ、身を寄せたりはしません」 

 そう云われるとそうだろうという気はする。せめて、そうであったら良いとも思う。けれど、腑に落ちない。心にストンと落ちてくる何かが欠けていた。 
 自分の中に後ろめたさがあるせいだ。
 
 六の君が周りの者の目を気にしなければ、縁下ではなく老猫を同じ居室に迎えることが出来たのかもしれない。抱きしめて、触れて、一緒に過ごせたかもしれない。最期も独りで逝かせることはなかった。看取ってあげられた。 
 なのに、六の君はそれを試さなかった。自分には、あるいは人には慣れてはくれないだろうと諦めていた。 

 老猫に拒絶されることが恐かったからだ。 
 触れようとして嫌がられるのが恐かったし、そのままいなくなってしまうことが恐かった。時折姿を眺めて、与えた餌がなくなっていることに満足していた。 

 ああ、と六の君は思う。 
 そこに居場所があるのだと、自分は知らずにそう感じていた。どこかで老猫に必要とされていると思っていたからだ。 
 以前、暁が教えてくれたように。 

 ここに在る意味を、老猫に見出していた。だから失うことが恐かったのだ。 
 老猫のためにここにいるのだと、それが自分の慰めとなっていた。 
 再び溢れ出した涙が熱い。暁の声も心なしか悲しげに響いているような気がした。 

「ここが良い住処であったからこそ、その猫は姿を隠したのでしょう。六の君殿がお与えになった思いは、きっと届いていたのです。だから、最期を見せたくはなかった。私はそう思います」 

「――はい」 

 そう思うほうが良い。そんなふうに眺めたほうが、きっと世界は鮮やかなのだ。 
 名もない老猫が教えてくれた。 
 自分の居場所、悦び。それは心の向きようで見つけられる。 
 ささやかなことで良い。取るに足らぬ理由であってもいいのだ。独りよがりでもかまわない。 

 ここに在る意味。それが自分の心の中にあれば良い。慰めになる。 
 それで耐えられる。 
 ただ無意味に在るのではなく。 
 積み重ねれば、いつの日か、きっと生きていることを誇りに思えるのだろう。 

(いままで、ありがとう。――そして、さようなら) 

 六の君は唇を噛み締めて溢れる涙を拭い続けた。濡れた袖は夜になっても、しっとりと重さを含んたままだった。
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