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第四話 闇の在処(ありか)

一章:三 闇の地:絶望 2

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――カナシイ。 

 悲痛な怨嗟えんさが止まない。彼は朔夜が望むとおり、悲嘆に震える手を蠢く影に伸ばした。 
 恐ろしくはない。うな垂れたように打ちひしがれたに自分が重なる。嘆くなと呟いていた。まるで泣くなと言いきかせるのに等しい仕草で。 
 迫り来る絶望に耐える己を慰めるかのように。 

 差し伸べた手が、そっと闇に届いた。 

「――あ」 

 するりと糸が解けるように、目の前の闇――が天へと舞い上がって消えた。ふわりと掌に熱が残っている。痛みとは無縁の柔らかな温もり。次にどうするべきなのかは、なぜか教えられずとも判っていた。 

 彼が朔夜を見ると、それで良いのだと云うふうに微笑んでくれる。 
 朔夜が喜ぶのならためらうことなどない。この先に何が続いていても。もし禍となる儀式であったとしても迷わない。 

 するりと虚空の鞘から引き抜くように、長い刀身が輪郭かたちになる。夜の暗さの中に在っても、輝いているのではないかと錯覚するほど鮮やかな闇色の剣。 

 まるで天籍に在る者が生まれながら真名を授かるように、具現した剣は名を携えていた。握り締める掌に、現れた漆黒の剣が名乗る。 

悠闇剣ゆうあんのつるぎ」 

 彼がはじめて自身の剣を形にした瞬間だった。脳裏で稲妻が走るように、この剣で何をすべきなのかが閃く。突き動かされるように、彼は剣を空に向かって掲げた。 

「――還れ」 

 果てしなく高いそらへ。 
 もう嘆くことも恐れることもない。とめどない悪意に繋がれていた鎖は外れた。囚われていた禍根から解き放たれ、穢れのない氣となって再び巡る。 
 安らかな境地で、輪廻りんねする。 

「――――……」 

 彼は言葉もなく、天を貫くかのように舞い上がった漆黒の光景に魅入っていた。 
 不毛な戦いの終焉。こんなにも簡単なことだったのだ。 
 が悪意を形作るのではない。悪意がを形作る。 

 弱い心を映す。 

 あん――鬼門。この世の悪意がわだかまる坩堝るつぼ。人々の断末魔の無念、哀しみ、苦痛、負の連鎖が淀んでいる地。黄帝が代替わりしてから、天帝の加護がうまく発揮されていない昨今、坩堝るつぼを満たす負の連鎖は限りなく肥大していたのだろう。 
 自分も囚われていたのだ。 
 それを朔夜が教えてくれた。その身を以って、どんな憎悪も呑まれるほどの、この哀しみを形にするために。 

 天高く突き上げる真っ黒な鬼柱きばしら。切ないほど美しい光景が、すぐに溢れてきた涙で歪んだ。彼が掲げていた剣を力なく下げても、この地に淀んでいた果てしないは、与えられた解放に従いそらへと舞い上がり続けている。 

 ずっと戦いの終止符に焦がれていたのに、手に入れた終わりはあまりにも残酷だった。彼には朔夜を抱きしめて泣くことしか出来ない。斬り付けた筈の傷を手当てすることも出来ず、ただか細くなっていく呼吸だけを感じていた。 

「どうして。朔夜、どうすれば……」 

「泣かないで下さい」 

 小さな声が彼を包みこんだ。指先が語る言葉と同じように温かな声だった。彼は咄嗟に朔夜を抱きしめていた腕を緩めて、改めて彼女を見た。 
 一体何が起きたのか、何が起きているのか分からない。 

 朔夜の美しい顔がこちらを向いている。焼け爛れていたかのような痛々しさはどこにも見つけられない。まるで呪いを解かれた美姫のような微笑みがあった。濃紫のうしの深い眼差しがじっと彼を見つめている。これまでに幾度となく頬をなでるようにあてがわれたてのひら。同じ仕草で彼女は彼に触れる。 

「この別れは私が守ろうとした先途みらいです。私が望んだ途。……あなたのせいではありません。もう苦しむことはないのです。だから、泣かないで」 

 彼は激しくかぶりを振った。彼女の示すことが把握できない。 
 抱えている体が少しずつ霧散していくのがわかる。器を形作る魂魄いのちが流れ出て、輪廻しようとしているのだ。 

 朔夜が姿を消そうとしている。永遠に、自分の前から。 
 彼女がどうしてそんなことを望むのか分からない。 

「あなたにはこの世を助けることができます。恐れずに彼らに名を与えて――、陛下は、―――」 

 唐突に声が聞き取れなくなる。いつまでも訊いていたい、彼女の言葉が。 

「分からない、朔夜さくや。聞こえない」 

 声はどんどん小さくなり、腕の中で姿がゆらりと輪郭を失っていく。朔夜は最後まで何かを伝えようと唇を動かしているが、全てが残像のように心許ない。 

「どうか、――忘れないで――……」 

 彼女の声は全てを伝えきれないまま掻き消えた。腕の中には抜け殻のように残された着物だけを抱いている。美しい微笑みはほんの束の間しか見ることが叶わなかった。 
 跡形もなく失われた輪郭かたち。 
 柔らかな言葉はもう聞こえない。 

「っ、朔夜――」 

 逝かないで、傍にいてという叫びは、声にならなかった。喉を競りあがってくる嗚咽が全ての言葉を呑み込んでしまう。 
 何もない荒野に独り。 
 彼はのこされた着物だけを抱えて慟哭どうこくした。
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