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第四話 闇の在処(ありか)

一章:二 闇の地:絶望 1

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 希望はいつでも唐突に打ち砕かれる。 
 壮絶な戦いの最中、目の前に現れた人影は錯覚ではなかった。信じられない。 

「そんな――」 

 彼は力なくその手から剣を落とした。がらんと地面を打つ音がやけに大きく響いた。 
 時間ときが止まる。 
 の襲撃を受けていることも忘れて、憎しみと恐れと嫌悪で一杯になっていた胸に、別の感情が込み上げて心を占めていく。 

「……どうして」 

 目の前の光景が信じられない。どうして彼女がこんな処に現れて、そして倒れているのだろう。何が起きたのだろう。一部始終を見ていたはずなのに、うまく思い描けない。 
 周りを取り囲む黒い影は、放心した彼に同調するかのように動きを止めた。 
 襲い掛かってくるが、彼女を傷つけたわけではない。 

 突然現れた人影、――朔夜さくやだった。 
 彼女は何かを訴えていたのだ。 
 失った声の代わりに、大きくかぶりを振って勢い良く目の前に躍り出た。 

――違うのです、そうではありません。 

 聞こえるはずがないのに、そんな叫びが聞こえた気がした。 
 突然の成り行き。 
 彼は振り下ろす刀剣の勢いを殺しきれず、朔夜の身を斬った。あまりの出来事に身動きできない彼の前で、倒れていた朔夜の体がゆるりと動く。その瞬間、彼は雷に打たれたように叫んだ。 

「朔夜っ」 

 その場に膝をついて抱き起こすと、彼女は大丈夫だと訴えるように口元を引きつらせた。それが微笑みであることを、彼は誰よりも知っている。初めて腕に抱えた体は驚くほど細く、そして重みが感じられない。戦いの最中であることも忘れ去り、彼は朔夜を介抱しようと、幾重にも纏った着物を肩から滑らせ、小袖の上から切りつけた処を探る。止血をしなければと焦っている為なのか、血の溢れ出る箇所を見つけられない。 

 浅い呼吸を繰り返す朔夜に対して成す術が見つけられず、指先が、腕が、全身が震えだす。考えたくないのに最悪の絶望を思い描いてしまう。 

「朔夜、――しっかり、誰か……」 

 視界が滲み始めて彼女の顔がはっきりと見えない。抱き上げて屋敷に連れ戻るしかないと考えて立ち上がろうとすると、彼女が強く拒んだ。力なく身を起こして彼のてのひらに指先を当てる。 

――恐れてはいけません。 

 はらはらと涙を零して身動きのできない彼と向かいあい、朔夜は再び微笑んだようだった。細い腕を上げて彼の頬を伝う涙に触れた。掌に触れる指先が語る。 

――大丈夫です。周りを見て下さい。 

「朔夜、……怪我を、している筈。……先に、手当てを」 

 嗚咽おえつしそうになっては堪え、言葉がうまく声にならない。血が流れ出していなくても、彼女の魂魄いのちが費えていくような気がしてどうすればいいのか判らない。哀しみと絶望で飽和しかけた彼の心を叱咤するかのように、朔夜が弱々しい力でぱちりと彼の頬を叩く。 

――周りを見て。 

 彼はしゃくりあげながら、示されたとおり辺りを見る。暗い夜空の下にあってもくっきりと浮かび上がる鮮明な影。ぞわぞわと蠢いていてこちらを窺っている。彼はハッと状況を思い出して剣に手を伸ばしたが、朔夜によって遮られた。 

「どうして」 

 弱々しい彼女を見ると、すぐに競りあがってくる絶望に支配された。を打ち据えることも、勝利を手に入れることも、彼女がいなければ意味がなくなってしまうのだ。 
 恐れも憎しみも嫌悪も、全てが哀しみに呑み込まれてしまう。 

――大丈夫。見てください。あなたの哀しみがにうつる。ただ泣いているあなたを襲っては来ることはありません。は負の心を映す鏡のようなモノ。あなたが嫌悪すると、もあなたを嫌悪する。憎めば憎み、恐れれば恐れます。 

 彼女の指先が語る言葉を、彼は懸命に聞いた。そうしなければいけない気がしたのだ。まるで最後の言葉を振り絞るような、朔夜の覚悟が伝わってくる。 

 彼は涙で歪む視界で、果てしなく辺りを埋め尽くすを眺めた。たしかに彼らはさっきまでの激しい様子が嘘のように力なくこちらを窺っている。肩を落として立ち尽くす姿は、まるで朔夜を悼んでいるかのように哀しげに見えた。 

――カナシイ、カナシイ、カナシイ。 

 ぞろりと蠢く影から声が聞こえる。怨嗟にも似た暗い声が、哀しいと訴えているのだ。彼は耳を疑ったが、たしかに響いてくる。 

――ヒトリ、カナシイ、カナシイ、ヒトリ、カナシイ。 

 そっと朔夜の指先が触れる。 

――恐れないで。 

「……恐れてなど」 

 恐れてなどいない。本当に恐ろしいのは朔夜が傍にいなくなることなのだから。 

――ヒトリ、カナシイ、カナシイ。 

 暗い声が渦巻くほど、引きずり込まれるかのように絶望が深くなっていくのが判る。朔夜が消えてしまうのならば、もう全てがどうでもいい気がしていた。このままに寄り憑かれてわざわいと成り果ててもいい。どうせ誰も自分が生きていることを喜んでなどくれないのだから。 

――は誰の内にも在るもの。あなたには、そのこごった思いをそらに導くことができます。 

 恐れずにに触れて下さいと朔夜が促す。彼は濡れた黒硝子のような瞳で、目前の鬼を眺めた。肩を落としてじっとこちらを見たまま立ち尽くしている影。恐ろしさなど感じない。哀れなほど小さな闇。打ちひしがれ、まるでじっと絶望に耐えているかのようだった。 
 これまで見てきた光景が嘘のように。可哀想なくらいに。 

――カナシイ、ヒトリ。カナシイ。 

 同じなのだと思えた。憎まれ疎まれる存在。孤独であることを嘆くだけの自分と同じ。 
 そして、どうすればいいのか判らないのだ。 

「おまえも、哀しいのか」 

 哀しかったのか。 
 誰にも顧みてもらえないことが。独りが。 
 あるいは朔夜を失う恐れと絶望が、この胸の内から伝染したのだろうか。 
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