133 / 233
第四話 闇の在処(ありか)
序章:二 緋国(ひのくに):緋桜(ひおう)と静(しずか)
しおりを挟む
夜の藍が以前よりも鮮明さを失いつつある。昼の輝きも少しずつ変化を始め、昼夜の区別が昔よりも克明ではないせいかもしれない。
黄帝が代替わりしてからの御世は、全てが精彩を失いつつある。誰も口にはしないが、天帝の加護が少しずつ費えているのは隠しようのない事実のようだ。
先帝が失落してから、すぐに新たな黄帝が誕生した。しかし金域の玉座に即位するまで、幾許か空白の時を余儀なくされた。新たな御世が始まってから、まだ日が浅いのだ。世の歯車が全て噛み合うまで、少しばかり時が必要なのかもしれない。
緋桜は居室の開け放たれたままの半蔀から、果てのない夜空を眺めていた。
現状を憂慮しながらも、自身が緋国の王座につく頃には、全てが噛み合っているのだろうと思い直す。深刻に考えるほど危惧はしていない。
変わらぬ穏やかな夜。緋桜は半蔀を閉めるように云ってから侍女をさがらせた。
夜は長い。休むには早い気がして、文机に向かった。
「――緋桜」
ふいに名を呼ばれ、はっとして振り返る。空耳かと思うほどの、かすかな声。
声と言うよりは、動きのない空間をわずかに震わせる風のようだった。
緋桜は庭に面した広廂に慣れた気配を感じる。目を凝らすと、美しい朱塗りに彩られた格子の向こうに、影が透けて見える。幾重にも纏った緋色の衣装をさばき、緋桜は慌てて立ち上がった。転びそうな勢いで向かうと、すぐに見慣れた人影が庭から歩み寄ってくるのを見つけた。
驚きよりも先に、思わず顔を綻ばせてしまう。
「静様」
このような夜更けに、内裏の後宮にある次期女王の紅閨を訪れ、咎められないのは彼しかいない。
先守――静。
朱に馴染む緋国の光景に、良く映える容姿。赤漆で染められた柱の鮮やかさを引き立てるような、鮮烈な紫の法衣。そして衣装以上に静の双眸は美しい菫色を湛えていた。緋桜にはその不可思議な色合いが自分の姿を捉えて微笑むのが、夢のように感じられる。至福のひとときの訪れを思い、愛しさに胸が痛くなるほどだった。
思わず幼い頃からの習慣で駆け寄りそうになったが、緋桜はすぐに思いとどまって態度を改めた。しとやかな姫宮がするように、床に手をついて深く頭を垂れた。
「ようこそ、おいでくださいました」
礼儀正しく平伏すると、静がすぐ近くまで歩み寄ってくるのが判った。なんのためらいもなく広廂に上がり、至近距離で膝をつく気配に、緋桜は勢い良く面を上げて訴える。
「静様っ、せっかくきちんとお迎えしているのに」
思わず不平を唱えると、静は悪戯めいた微笑みを浮かべた。
「あなたは立派な女王になられるだろう」
「それは皮肉ですか」
思わず頬を膨らませると、静は声をたてて笑う。幼い頃から変わらない身近な気配に、緋桜は礼儀正しい姫君を演じるのを諦めた。華やかな衣装の袖を翻らせて、静の首筋に腕を回して、身を寄せるように力を込める。
静の母は、現在緋国の王座にある中宮、紅の宮の――緋桜の母の妹になる。緋国の二の宮であった彼女は、滄国の末の太子と縁を結び、先守となる静を生んだ。静は緋桜より一回り年上で、一番年の近い従兄弟だった。おかげで緋桜は幼い頃から兄のように静を慕ってきた。
精一杯腕を伸ばしてしがみつくと、静はこたえるように緋桜の体を抱き寄せた。幼い頃とは違う力強さに包まれて、緋桜は目を閉じる。
誰よりも優しい従兄弟。愛しさに眩暈を感じる。
彼に恋していると気付いたのは、いつだったのか。
これほどに愛して止まなくなったのは、いつからだろうか。
緋桜は今更のように、想いを馳せる。
無邪気に過ごした日々は瞬く間に過ぎて、やがて静が先守として紺の地に赴く日が訪れた。これまでのように会えなくなる寂しさに涙した日。
会えないはがゆさを堪えて静と再会できた時、緋桜は溢れる涙を止めることができなかった。会いたかったという声は、涙に濡れて言葉にならなかった。
変わりに静が言葉にしてくれたのだ。あなたに会いたかったと。
同じ想いで互いを求めていたと知ったのは、その時だったのかもしれない。
久しぶりの逢瀬を噛み締めながら、緋桜は少しだけ静から身をはなした。彼の顔をよく見ようとして仰ぐと、夜の藍に包まれているだけではない、蒼ざめた顔色に気付いた。
「静様、どこか体の加減が?……それとも、占いで消耗されたのですか」
顔を曇らせて体に触れてみると、以前よりも痩せているような気がする。
「何か、良くないことが?」
不安になって彼を見つめていると、美しい菫の瞳に翳がよぎった。静は暗い想いをやり過ごすように、緋桜に触れる手に力を込める。
「緋桜、――今夜はあなたに逢いに来た。だから、あなたのことだけ考えていたい」
優しげな声とは裏腹に、抗うことを許さないような力強さに囚われ、緋桜は身を委ねることしかできなかった。
先守が視る未来の断片、片鱗。それは必ずしも祝福に満ちているとは限らない。
これまでも、静を苦しめる占いがなかったとは思えない。
緋桜には先守の力が彼らの内にある何かを大きく磨耗させていく気がしてならなかった。 彼らしくない振る舞いに秘められた真実。訊くことが恐ろしくて、緋桜は問うことができなかった。
黄帝が代替わりしてからの御世は、全てが精彩を失いつつある。誰も口にはしないが、天帝の加護が少しずつ費えているのは隠しようのない事実のようだ。
先帝が失落してから、すぐに新たな黄帝が誕生した。しかし金域の玉座に即位するまで、幾許か空白の時を余儀なくされた。新たな御世が始まってから、まだ日が浅いのだ。世の歯車が全て噛み合うまで、少しばかり時が必要なのかもしれない。
緋桜は居室の開け放たれたままの半蔀から、果てのない夜空を眺めていた。
現状を憂慮しながらも、自身が緋国の王座につく頃には、全てが噛み合っているのだろうと思い直す。深刻に考えるほど危惧はしていない。
変わらぬ穏やかな夜。緋桜は半蔀を閉めるように云ってから侍女をさがらせた。
夜は長い。休むには早い気がして、文机に向かった。
「――緋桜」
ふいに名を呼ばれ、はっとして振り返る。空耳かと思うほどの、かすかな声。
声と言うよりは、動きのない空間をわずかに震わせる風のようだった。
緋桜は庭に面した広廂に慣れた気配を感じる。目を凝らすと、美しい朱塗りに彩られた格子の向こうに、影が透けて見える。幾重にも纏った緋色の衣装をさばき、緋桜は慌てて立ち上がった。転びそうな勢いで向かうと、すぐに見慣れた人影が庭から歩み寄ってくるのを見つけた。
驚きよりも先に、思わず顔を綻ばせてしまう。
「静様」
このような夜更けに、内裏の後宮にある次期女王の紅閨を訪れ、咎められないのは彼しかいない。
先守――静。
朱に馴染む緋国の光景に、良く映える容姿。赤漆で染められた柱の鮮やかさを引き立てるような、鮮烈な紫の法衣。そして衣装以上に静の双眸は美しい菫色を湛えていた。緋桜にはその不可思議な色合いが自分の姿を捉えて微笑むのが、夢のように感じられる。至福のひとときの訪れを思い、愛しさに胸が痛くなるほどだった。
思わず幼い頃からの習慣で駆け寄りそうになったが、緋桜はすぐに思いとどまって態度を改めた。しとやかな姫宮がするように、床に手をついて深く頭を垂れた。
「ようこそ、おいでくださいました」
礼儀正しく平伏すると、静がすぐ近くまで歩み寄ってくるのが判った。なんのためらいもなく広廂に上がり、至近距離で膝をつく気配に、緋桜は勢い良く面を上げて訴える。
「静様っ、せっかくきちんとお迎えしているのに」
思わず不平を唱えると、静は悪戯めいた微笑みを浮かべた。
「あなたは立派な女王になられるだろう」
「それは皮肉ですか」
思わず頬を膨らませると、静は声をたてて笑う。幼い頃から変わらない身近な気配に、緋桜は礼儀正しい姫君を演じるのを諦めた。華やかな衣装の袖を翻らせて、静の首筋に腕を回して、身を寄せるように力を込める。
静の母は、現在緋国の王座にある中宮、紅の宮の――緋桜の母の妹になる。緋国の二の宮であった彼女は、滄国の末の太子と縁を結び、先守となる静を生んだ。静は緋桜より一回り年上で、一番年の近い従兄弟だった。おかげで緋桜は幼い頃から兄のように静を慕ってきた。
精一杯腕を伸ばしてしがみつくと、静はこたえるように緋桜の体を抱き寄せた。幼い頃とは違う力強さに包まれて、緋桜は目を閉じる。
誰よりも優しい従兄弟。愛しさに眩暈を感じる。
彼に恋していると気付いたのは、いつだったのか。
これほどに愛して止まなくなったのは、いつからだろうか。
緋桜は今更のように、想いを馳せる。
無邪気に過ごした日々は瞬く間に過ぎて、やがて静が先守として紺の地に赴く日が訪れた。これまでのように会えなくなる寂しさに涙した日。
会えないはがゆさを堪えて静と再会できた時、緋桜は溢れる涙を止めることができなかった。会いたかったという声は、涙に濡れて言葉にならなかった。
変わりに静が言葉にしてくれたのだ。あなたに会いたかったと。
同じ想いで互いを求めていたと知ったのは、その時だったのかもしれない。
久しぶりの逢瀬を噛み締めながら、緋桜は少しだけ静から身をはなした。彼の顔をよく見ようとして仰ぐと、夜の藍に包まれているだけではない、蒼ざめた顔色に気付いた。
「静様、どこか体の加減が?……それとも、占いで消耗されたのですか」
顔を曇らせて体に触れてみると、以前よりも痩せているような気がする。
「何か、良くないことが?」
不安になって彼を見つめていると、美しい菫の瞳に翳がよぎった。静は暗い想いをやり過ごすように、緋桜に触れる手に力を込める。
「緋桜、――今夜はあなたに逢いに来た。だから、あなたのことだけ考えていたい」
優しげな声とは裏腹に、抗うことを許さないような力強さに囚われ、緋桜は身を委ねることしかできなかった。
先守が視る未来の断片、片鱗。それは必ずしも祝福に満ちているとは限らない。
これまでも、静を苦しめる占いがなかったとは思えない。
緋桜には先守の力が彼らの内にある何かを大きく磨耗させていく気がしてならなかった。 彼らしくない振る舞いに秘められた真実。訊くことが恐ろしくて、緋桜は問うことができなかった。
0
お気に入りに追加
136
あなたにおすすめの小説
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
恋愛
人身御供(ひとみごくう)は、人間を神への生贄とすること。
天魔神社の跡取り巫女の私、天魔華鈴(てんまかりん)は、今年の人身御供の生贄に選ばれた。
昔から続く儀式を、どうせ、いない神に対して行う。
私で最後、そうなるだろう。
親戚達も信じていない、神のために、私は命をささげる。
人身御供と言う口実で、厄介払いをされる。そのために。
親に捨てられ、親戚に捨てられて。
もう、誰も私を求めてはいない。
そう思っていたのに――……
『ぬし、一つ、我の願いを叶えてはくれぬか?』
『え、九尾の狐の、願い?』
『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』
もう、全てを諦めた私目の前に現れたのは、顔を黒く、四角い布で顔を隠した、一人の九尾の狐でした。
※カクヨム・なろうでも公開中!
※表紙、挿絵:あニキさん
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!>
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
貴方だけが私に優しくしてくれた
バンブー竹田
恋愛
人質として隣国の皇帝に嫁がされた王女フィリアは宮殿の端っこの部屋をあてがわれ、お飾りの側妃として空虚な日々をやり過ごすことになった。
そんなフィリアを気遣い、優しくしてくれたのは年下の少年騎士アベルだけだった。
いつの間にかアベルに想いを寄せるようになっていくフィリア。
しかし、ある時、皇帝とアベルの会話を漏れ聞いたフィリアはアベルの優しさの裏の真実を知ってしまってーーー

転生ヒロインと人魔大戦物語 ~召喚された勇者は前世の夫と息子でした~
田尾風香
ファンタジー
***11話まで改稿した影響で、その後の番号がずれています。
小さな村に住むリィカは、大量の魔物に村が襲われた時、恐怖から魔力を暴走させた。だが、その瞬間に前世の記憶が戻り、奇跡的に暴走を制御することに成功する。
魔力をしっかり扱えるように、と国立アルカライズ学園に入学して、なぜか王子やら貴族の子息やらと遭遇しながらも、無事に一年が経過。だがその修了式の日に、魔王が誕生した。
召喚された勇者が前世の夫と息子である事に驚愕しながらも、魔王討伐への旅に同行することを決意したリィカ。
「魔国をその目で見て欲しい。魔王様が誕生する意味を知って欲しい」。そう遺言を遺す魔族の意図は何なのか。
様々な戦いを経験し、謎を抱えながら、リィカたちは魔国へ向けて進んでいく。
他サイト様にも投稿しています。
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる