上 下
104 / 233
第三話 失われた真実

第九章:3 別れの予感 2

しおりを挟む
「その日が来たら、君は私にこう言う。――愛しているのはあなただけです。だけど、この世を見捨てることが出来ない。だから、行きます。――と。そう言って欲しい。それが、例え君の中にある真実ではなくても、そう言って欲しい。そうすれば、私が手に入れた想いは何があっても色褪せることがない」 

 朱里あかりは双子に教えられた自身の立場を思い出した。唇に触れていたはるかの手を追いかけるように、両手で引き寄せて捉まえる。強く握り締めると、抗議の意味をこめて彼を見据えた。 

「それは私が相称そうしょうつばさだから、ですか」 

 遥は何も答えない。朱里が夢の光景を双子に説明している時も、双子が朱里に異世界の事情を明かした時も、彼は一言も語ることをしなかった。ただ自身の守護である双子と、朱里の会話を見守っていただけである。 

 朱里は遥の目を見つめたまま、麒一きいちが教えてくれた自身の立場を振り返る。 
 相称の翼――世の頂きに立つ黄帝のきさきとなる者。 
 はるか――闇呪あんじゅの伴侶でありながら、どうして朱桜すおうがそんな立場に在るのか。朱里は黄帝の宮から逃亡を謀っていたらしい自身の夢を思い描く。何かをひどく恐れながらも、闇呪を想い、心はずっと彼だけを追いかけていた。 

 麒一きいち麟華りんかが考えるように、相称の翼となった成り行きには、何か理由があるに違いない。黄帝への想いが育ち、心変わりしたのだとは到底考えられない。 
 朱里の知る断片は全てではないが、それでも蘇った気持ちだけは確信できる。 

「たしかに、私は先生の世界について知らないことばかりです。だけど、自分が望んで黄后こうごうになったとは思いません」 

 そうでなければ、黄帝の元から逃げ出す必要はないだろう。あれほどに闇呪あんじゅを求める筈もない。最後に見た夢のあとに、何かがあったに違いないのだ。あるいは、既に何かが起きて、逃げ出していたのかもしれない。 

 朱里にとっては、そう考えることが自然だった。気持ちの筋道に齟齬そごがあるとは感じない。感じない筈なのに、どこかで自分の無知さを責めるように警笛が鳴っている。遥に想いを伝えるときにもぎった、消えることのない強い警告。 
 いけないと、自分の想いを戒める声。 

 朱桜すおうとしての記憶を持たない朱里には、決して理解できない危惧。 
 辿りつくことの出来ない真実。 
 朱里が異世界――自身の生まれた世について、どのようなことわりの上に成り立つのかを知れば、相称の翼が負う使命にも辿りついていただろう。 

 相称の翼。輝ける天帝てんてい御世みよを築くいしずえ。 
 世界を、人々を救うことができる、圧倒的な礼神らいじん。覆すことの出来ない世の掟。 

 朱里は異界のことわりが著しくこちらの世界とは違うという事実を、失ったままだった。 
 黄帝を頂きとして成り立つ世界、その真実を知らない。 誰にも説明されていない。

 真実を知らない朱里にとって、黄帝という存在は一国の主という印象でしかなかった。だからこそ、相称の翼についても、世にとってどれほど重大な存在なのか判らない。 
 その立場を裏切ることが、どれほどの災厄を招くことになるのか。 
 知らないまま、朱里はただ訴える。 
 素直な、歪むことのない想いを。 

麒一きいちちゃんや麟華りんかが考えるように、私がそんな立場に立たされた経緯いきさつには、きっと何か事情があると思います。だから、先生と一緒にいられなくなるなんて、姿を消すなんて、そんなこと考えられません」 

 つかまえた彼の手を握る手に、朱里は力を込める。遥は何かを噛み締めるように目を閉じた。ただ自分の手を握りしめている朱里の手を強く握り返す。 
 囁くような声が、静寂を貫いた。 

「朱里が云うとおり、君が相称の翼となった経緯いきさつには、何か理由があったのかもしれない。何かを護ろうとしたのかもしれないし、あるいは、庇おうとしたのかもしれない。……決して、真実は判らないけれど」 
「だけど、この気持ちは本当です」 
「そう、――信じている」 

 つないでいた朱里の手を、遥が強く引き寄せた。朱里が声を上げる間もなく、緩やかな衝撃に包まれる。胸に飛び込んだ朱里の体を抱きすくめるように、遥の腕に力が込められた。一瞬戸惑いを覚えたが、朱里はすぐに自分を取り戻した。抱きしめられた温もりと、響いてくる鼓動が、不思議なほど朱里の心を穏やかに支配する。 

 うろたえることもなく、朱里は眼鏡に守られた素顔を彼の胸に寄せて、瞳を閉じた。抗うような気持ちは芽生えない。ただ身を任せていた。 

「私が触れても、君は決して穢れることがない。いつかこの日を悔いる時が来たら、思い出すと良い」 

 信じると語りながらも、遥の言葉は苦しくなるほど寂しく響いた。 
 朱里はぐっと歯を食いしばって、抗議するように白衣の襟を握り締めた。遥は無言の訴えをどう受け止めたのか、襟を掴んだまま自分の胸に顔を伏せている朱里の手に触れて、ゆっくりと引き離す。 

 朱里は手首をつかまれたまま、息遣いが伝わる近さで遥と見つめあった。彼の寂しい台詞に抗うように、視線に力を込めて睨んだ。
 
「私は先生に触れられても、穢れたりしません」 

 遥は困ったように笑い、わずかに頷いた。つかんでいた朱里の手首を離す。長い指先が、朱里の度のない眼鏡に触れた。するりと、音もなく眼鏡が外される。朱里は容易たやすく素顔を晒してしまう。 

「君のこの姿は、君の真実を護るためのから――よろいのようなもの。私が触れているのは、君の身を護る鎧。だから――」 
「私はっ、――私は穢れたりしません」 

 彼の言葉を遮る形で、こらえきれずに朱里が繰り返す。同時に、遥の両手が朱里の頬を挟むようにして引き寄せた。吐息が触れる。 

「君が穢れることはない。……それが、私の免罪符になる」 
「せんせ……っ」 

 呟きをかき消すように、朱里は言葉を封じられた。激しく重ねられた唇から、熱が込み上げてくる。口づけを交わしたまま、朱里は呼吸を忘れそうなほど強く抱きしめられる。 
 まるで激流に耐えるように、朱里は腕を伸ばして遥の背中に回した。 

 しがみつくように。 
 決して見失わないように。 

 彼を好きだという気持ちだけが、得体の知れない罪過の底に沈んだまま、それでも輝いている。とめどない想いが、彼と触れ合った処から逆巻くように巡って、全てを染めていく。 

 彼を愛している。けれど、その想いは世界を滅ぼす。 

 朱里はまだ知らない。 
 彼が望むようにその言葉を語る日が来ることを。 
 その時が迫っていることを。 

――愛しているのはあなただけです。だけど、この世を見捨てることが出来ない。だから、往きます―― 

 許してくださいと、泣きながら告げる時が来ることを。 
 朱里はまだ知らない。 
 蘇ることが許されたのは、彼への想いだけ。その想いが断たれたことは、未だに封印されたまま秘められている。 

――愛しているのはあなただけです。 

 蘇ることが許されたのは、彼への想いだけなのだ。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

処理中です...