シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜

長月京子

文字の大きさ
上 下
103 / 233
第三話 失われた真実

第九章:2 別れの予感 1

しおりを挟む
 結局、一日中昨日の出来事に振り回された挙句、気がつけば放課後になっていた。とぼとぼと廊下を歩きながら、朱里あかりは頭を抱えたい気持ちになっている。 
 どうしてこんなに切り替えの悪い頭なのかと、真剣に自分を罵っていた。幼馴染の佐和さわ夏美なつみにも、思い切り不審な眼差しを向けられてしまった。 

 佐和曰く。 
「朱里、今日は朝からおかしすぎるよ。ピークは副担任が受け持っている物理の時だったけどさ。あれはひどかった」 
 と腕を組んで力説。苦笑いしか出来ない朱里に、畳み掛けるように夏美が難しい顔をして続けた。 

「毒キノコのような、何かおかしな物でも食べたみたいだったわ。あれじゃあ、いくら大人しい黒沢くろさわ先生でも見過ごすことができないわよ。叱られて当然ね」 

 二人はしきりに風邪でもひいたのかと朱里の額に手を添えたり、顔を覗き込んだりして様子を確かめていた。朱里は笑ってごまかしながら、はるかに命じられた放課後の任務をどうにかして回避できないものかと考えを巡らせていた。この際、二人に泣きついて付き添ってもらい、二人きりになることだけでも阻止したい。そう思って幼馴染に懇願してみたが、二人は部活動が優先だとあっさりと朱里を見捨てる。 

「何があったか知らないけど。副担任の手伝いでもして、頭を冷やしたほうがいいよ」 
「そうね。親友に何も相談してくれない朱里の味方は出来ないわね。ね、佐和」 
「うん、夏美の意見に賛成」 

 朱里が散々何もないと訴えても、二人は冷ややかな態度を崩さなかった。そのままひらひらと手を振りながら、にこやかに立ち去ってしまった。どうやら明らかに狼狽しているのに、その理由を語らない朱里に対して、二人は拗ねているのかもしれない。 

 朱里は一人で取り残されて、ひたすら器用に振る舞えない自分の鈍さを呪う。親友にも見放されてしまうと、あとはもう覚悟を決めるしかなかった。 

「はぁ」 

 潔く準備室へ向かいながらも、足取りはひたすら重い。今にも身を翻して逃げ出したい気分だった。どれほど知恵をふりしぼっても、どんな顔をして遥に会えばいいのか判らない。 

 できるだけゆっくりと準備室に向かっていたが、ぐつぐつと頭が煮え立ちそうなほど必死に逃げ出す口実を考えていると、あっという間にたどり着いてしまった。理系の準備室は人気の少ない別館にある。理科室の隣にある小さな部屋だった。

  朱里が準備室の扉の前で立ち止まると、中からザカザカと輪転機の動作音がしていた。どうやら既に資料を大量に刷っているようだ。罰として言い渡された用事は、単に自分を呼び出す口実だけではなかったらしい。 

 朱里は大きく深呼吸してから、気合いを入れるつもりで度のない眼鏡の位置を整える。覚悟を決めて準備室の扉に手をかけた。 
 輪転機の音がいっそう大きくなるのを感じながら、「失礼します」と室内へ踏み込む。 

 小さな部屋は、実験に使用する器具や資料でますます狭く感じる。外に通じる窓があるおかげで、夕刻の陽射しが室内を照らしていた。雑然とした模様の中で、そのけだるげな陽光だけが救いだった。 

 遥は輪転機の隣に立ち、資料の束を片手に抱えていた。眼鏡も白衣も教壇にあった時と同じで、冴えない副担任の格好をしている。作動中の機械から、ものすごい勢いで用紙が吐き出されていた。 
 朱里がおずおずと近づくと、遥がこちらを向いたまま微笑んだ。 

「天宮さん。放課後に資料作成を手伝わせてしまい申し訳ありません。早速ですが、そちらの机に並べて積んであるプリントを、端から一枚ずつ取って束ねてから、綴じてください」 
「あ、はい」 

 朱里は示された机へ向かい、椅子に掛けてから、云われた通りに順番に用紙をまとめた。そして出来上がった束をホッチキスで綴じる。輪転機の激しい動作音と、用紙を綴じる微かな音だけが準備室の静寂を揺るがしていた。 

 遥は黙々と資料作成を続け、副担任とは違う顔を朱里に見せる様子がない。初めは狭い室内に二人きりでいることに緊張していたが、朱里はそっと吐息をつくと、わずかに張り詰めていた気持ちを緩めた。 

(なんだ。先生は資料を作るのに、本当に手助けしてほしいだけだったんだ) 

 安堵しながらも、胸の底に残念な想いが滲む。朱里は複雑な気持ちになりながら、とりあえず副担任を手伝う生徒に徹した。こちらから下手に声をかけると、遥に対して昨日のことで墓穴を掘りかねない。 
 朱里が目の前の作業に没頭していると、ふいに輪転機の音が止んだ。背後で遥が身動きする気配を感じていると、彼は刷り終えた資料の束を抱えて朱里の傍へやってくる。 

 朱里は視界の端に、机の上に印刷したものを並べる遥の手を見ていた。 
 手元のホッチキスが、用紙を綴じる度にパチリと音を発する。輪転機の騒音がなくなると、室内の静寂はただ息苦しい。 
 隣に立つ遥の気配を感じながら、朱里は再び気持ちが張り詰めてゆくのを感じた。鼓動が少しずつ高くなる。 

 コトリと、机の端に固いものが触れる音がした。遥が掛けていた筈の黒縁眼鏡が、机の片隅に置かれている。彼が副担任という仮面を外したしるしだった。朱里の動悸が激しくなる。 

「朱里」 
「は、はいっ」 

 思わず背筋を伸ばして返事をしてしまう。昨日の自分の行動が蘇ってきて、朱里は頬がみるみる染まっていくのを自覚していた。 

「私は、君に伝えておかなければならない事がある」 

 朱里の頭の中は、既にある一つのことで占められていた。突然、好きな男性ひとに抱きついて、岩のようにしがみついたまま離れないという行動。どんなに考えても、はしたいない行いでしかない。朱里にとっては、上の空で授業を受けるよりも、もっとずっと大きな失態だった。 
 手にしていたホッチキスを強く握り締めて、朱里は思わず先に謝ってしまう。 

「あの、先生。昨日はごめんなさい。とにかく先生に伝えなければいけないって、必死になってしまって、後先も考えずにしがみついて、泣いて。どうしようもなく先生を困らせてしまって。その、だけど、気持ちは嘘じゃなくて、とにかく、どうしても伝えたかったんですっ」 

 動揺のあまり、更に告白を重ねるような謝罪になってしまう。朱里は何を言っているのかと、更にうろたえてしまった。穴があったら入りたい衝動に駆られる。遥の顔を見ることが出来ずにいると、ふいにホッチキスを握り締めている手に、彼の手が触れた。 

 長い指が、朱里の手から握り締めていた物を取り上げる。何も持たなくなった朱里の手に、遥が手を重ねた。彼は戸惑う朱里の手を、そっと握り締めた。 

 掌の熱が伝わってくる。温かい。 

 朱里は頬を染めたまま、ようやく遥を仰いだ。彼の端正な素顔を見つめる。 

「せ、先生?」 

 彼はこちらが切なくなるほど、優しい眼差しを朱里に向けていた。泣いているのではないかと思えるほど微かな笑み。泡沫うたかたのように儚い。 

「君は私のことを好きだと、――そう言ってくれた」 

 朱里はただ深く頷いた。彼への想いは、嘘偽りのない真実。 

「だから、君に伝えておきたい。君と想いを交わせるのなら、私はもうそれだけで何も望まない。こうして、君に触れることが出来るなら」 

 真っ直ぐに想いを語る彼の声は、淡い。まるで命を惜しまないと言いたげな、暗い決意を感じた。さっきまでの沸騰しそうな恥ずかしさが急激に鎮まっていく。朱里は思わず口を開いていた。 

「私、……私も先生と同じ気持ちです」 

 強く訴えると、彼は頷いた。 

「知っている。君が私に与えてくれた。朱里、いつか君が全てを思い出した時、――もし、私の傍にいられなくなった時には、私にこう言い残して立ち去って欲しい」 
「そんなこと――」 

 彼は言いかけた朱里の言葉を封じる。長い指先が、そっと朱里の唇に触れた。 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

思い出してしまったのです

月樹《つき》
恋愛
同じ姉妹なのに、私だけ愛されない。 妹のルルだけが特別なのはどうして? 婚約者のレオナルド王子も、どうして妹ばかり可愛がるの? でもある時、鏡を見て思い出してしまったのです。 愛されないのは当然です。 だって私は…。

【完結】彼を幸せにする十の方法

玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。 フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。 婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。 しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。 婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。 婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...