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第三話 失われた真実

第七章:4 共に在るための覚悟

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「どれほどの禁を破るつもりだ」 
「それは、あなたが自身に問うべきこと」 

 ゆるりと皓露こうろ皇子みこが進み出た。これ以上の時間稼ぎはできないと悟る。力の衝突が何をもたらすのか。遥が息を止める。万が一、衝撃が朱里あかりを巻き込むようなことになれば――。 

「我が君」 

 直後、まるで遥《はるか》の迷いを拭い去るように、新たな声が響いた。 

「我らの護りを信じてください。麒麟きりんの目一つでは、我が君の呪鬼じゅきを封じるのが限度です。我らの結界で余波を封じて見せます」 

 参上した麒一きいちの影が、遥の視界をよぎった。麟華に呼ばれ、霊脈みちを開いたのか、黒麒麟の俊足で駆けつけたのか、どちらにしても心強い援軍だった。 
 守護が全力で護るのならば心配はいらない。不安は絶たれた。ぐっと柄を握るてのひらに力を込める。 

皓露こうろ皇子みこ、覚悟されよ」 

 目の前の皇子みこを見据えて、遥が鮮やかに踏み出す。躊躇ためらいなく一振りすると、刃先が肩に届く寸前で、皇子が剣を止めた。びりびりと振動が体中を駆け巡り、皇子の美しい顔がひきつるのが判る。遥は彼が自身の太刀筋を止めたことに驚いたが、挑んでくる皇子の動きは鈍い。素早く次を振り下ろし、太刀筋を変えて再び踏み込む。 

 皇子は辛うじて遥の剣を受け止めていたが、交わす剣圧の違いに気がついたのだろう。距離を取ろうと大きく後ろに飛ぶ。遥が見計らっていたかのように、強く踏み込んで皇子の跳躍に続いた。着地と同時に美しい裳衣しょういの裾を踏んで、皇子の動きを封じる。 

「なに……」 

 圧倒的な動きの差に、皇子の顔色が失われていた。なりふり構わず振り抜かれた剣を、遥はたやすく弾く。交わった衝撃と共に、皇子の刀剣が砕け散った。皓露の皇子は受け止めきれない力に飛ばされて、幾重いくえにもまとった衣装をひらめかせながら地面に投げ出される。遥は素早く柄を逆手に持ちかえ、起き上がろうとする背中に迷いなく剣を突き降ろした。 

「――っ」 

 皇子みこが呻くように悲鳴を発した。白い裳衣しょういの肩から、みるみる血が滲み出る。地面に伏したまま、皇子が低く嘲笑する。 

「なぜ仕留めないのです?」 
「質問に答えていただく、黄帝の真意を教えていただこう」 
「――私が答えるとでも?」 

 遥は無言のまま、突き立てた刀剣をぐっと斜めに引き倒した。皇子が駆け抜けた激痛に顔を歪める。歯を食いしばりながら、それでも嗤った。深淵を映す瞳に、不穏な気配を感じる。遥の背筋にぞっと何かが這う。皇子みこてのひらに掴んだ黒い玉――麒麟きりんの目を額に当てた。 

「深追いしすぎたようです。――霊脈みちを」 
「待てっ……」 

 遥の言葉が終わらないうちに、皓露こうろ皇子みこがふっと姿を消した。霊獣だけが持つ霊脈れいみゃくを、いとも容易たやすく開く。麒麟の目による恩恵であるのかは、遥にも判らない。繰り広げられた戦いが嘘のように、辺りはいつもの静けさを取り戻している。 

 相手にとどめを刺さなかった、自身の甘さだけが残る。あかみやが語るように、その過信がいつか自分を追い詰めて行くのかもしれない。追手を逃したことを、今後悔やむ日が来るのかどうか、遥には想像することができなかった。 

 ふうっと緊張を解き、彼は悠闇剣ゆうあんのつるぎを虚空へ一振りして収めた。出来事を振り返る余裕もなく、脳裏を占める感情に支配される。すぐに踵を返して、遥は朱里のもとへ駆け寄った。 

 麟華に抱き起こされた朱里の顔から、血の気が失われている。路面に力なく放り出された白い手が血に濡れていた。膝の上から裂けた腿の傷跡が深い。麟華と麒一が止血を施したようだが、彼らには傷口を癒すことができないのだろう。 
 遥はその場に膝をついて、ぐったりと気を失っている朱里に触れた。 

「朱里……」 

 彼女の頬に触れた指先が震えていることに気付く。封じ込めなければならない想いが駆け巡って、押し殺すことで精一杯だった。 
 これほど傷つけられても、彼女は決して逃げ出すことを考えなかったのだ。気を失う間際まで、ただ麟華を救うことだけを思い続けた。 

「どうして、もっと早く私を呼ばない」 

 彼女が心から求めてくれるのなら、いつでも影脈みちは開かれる。 
 遥は腕を伸ばして、麟華に抱えられた彼女の上体を抱きしめた。鉄のような血の臭気に、ほのかに甘い匂いが混じっている。禁術によって形作られた殻であっても、それを満たす温もりは変わらない。 
 失うことは出来ない。何があっても幸せをつかみ取ってもらわなければ、この先には彼女を苦しめた後悔だけが募ってしまう。 

「もっと早く、私を……」 

 呟きながらも、遥にはそれが我儘わがままな願いであることは判っていた。本来ならば、彼女が遥にすがることなどあってはならないのだ。必要以上の信頼を得てはいけない。 

 彼女の内に遥――闇呪あんじゅへの信頼が育つほど、その禁術が解けた時、彼女は心を痛めることになる。決して、禍となる者に心を移してはいけない。 
 自分に対する朱里の信頼が、それ以上の気持ちに育ちつつあることは、遥も気がついていた。 

 彼がずっと望んでいた立場。 
 思い起こせば、愛を以って真実の名を捧げる前から焦がれていた。 
 けれど。 

 真実は違う。彼女の想いを望みながらも、彼には決して手に入れられなかった立場なのだ。禁術に犯された彼女は、全ての過去――真実を失っている。そんな状況で愛されることは、過ちではすまされない。悪戯に彼女の想いを弄ぶような真似はできない。 

 朱里の心が自分に向けられている。 
 この異界で手に入れた成り行きは、遥にとっては思いも寄らない出来事であり、そして、あってはならない展開だった。 

 変えることの出来ない運命みらいがある限り。 
 いつの日か全てが覆される日がやってくるのだ。 
 世を滅ぼすわざわいと、それを討つ相称の翼。 

 どれほど目を逸らしても、いつか形になる。 
 彼女の幸せは、その先にしか築くことができない。禍を討ちとった、その先にしか――。 
 遥は固く目を閉じてから、まるで覚悟を決めたように現実を見た。小柄な体を抱いていた腕を解く。 

麟華りんか麒一きいち。とにかく家に入ろう。彼女を休ませて、殻の受けた傷を癒してみる」 

 麟華が頷くのを見ながら、彼は労わるように朱里の肩を抱き、もう片腕を膝裏に通した。抱き上げるようにして立ち上がると、朱里の顔がことりと遥の胸に寄りかかる。 

 遥は足元に倒れているもう一人の人影を見返った。外傷もなく顔色も安定していたが、このまま家の前に放置しているわけにはいかない。 
 遥は同じように気を失っている涼一を、麒一に託した。守護は異を唱えることもなく、荷物を持ち上げるような素早さで青年の体を抱え上げる。 

 邸宅の前で事件が起きたのは、人目につかないという点では運が良かったと言えるだろう。麟華が素早く玄関の門を開いた。歩き出しながら、遥はもう一度胸に寄りかかっている朱里の顔を見る。血で汚れた白い顔は無防備に目を閉じていた。 

 愛しい翼扶つばさ。 
 護ると誓いながら傷つけられたことを、この上もなく悔やむ。もっと早く駆けつけたかったという望みが、遥の内に痕を残す。 
 求めてはいけないと知りながらも。 
 それでも、止めようもなく込み上げてくる思い。 

 もし自分が彼女の比翼であったのなら、遅れを取ることはなかっただろうか。あるいは遡れば、こんなふうに禁術に追い詰めることはなかったのかもしれない。 
 もしこの身が、彼女に愛されたただ一人の比翼であれば。 

 考えても仕方のない望みが渦を巻いた。 
 遥は痛みにも似た感情をやり過ごすように、朱里から目を逸らした。 
 強欲な思いを封じ込めるように考えを改める。 
 今はただ、彼女が心から必要としてくれたこと。自分に助けを求めてくれた声。 

 それだけが、その信頼だけが、自身を、――あるいは決意を支える糧となる。
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