上 下
85 / 233
第三話 失われた真実

第五章:4 複雑な乙女心

しおりを挟む
 いつものように麟華りんかに叩き起こされて、朱里あかりは変わらない朝を迎えた。のろのろと寝台から這い出しながら、夢の続きを見ていないことに吐息をつく。落胆しているのか、安堵しているのかは、自分でもよく分からない。 

 何か重大なことを忘れている気がしたが、まだ頭がぐったりと眠気をひきずっている。寝台の心地よさに未練を残しながら、ぼんやりと自室を出た。朱里は寝起きのまま、ぺたぺたと裸足で階下へ向かう。 

「うー、眠い」 

 目元をこすりながら、何の躊躇ためらいもなくリビングへ入った。 

「おはよう、朱里」 

 麟華の明るい声に迎えられて、朱里も「おはよう」と呟く。昨夜は寝つきが悪かった上に、途中で目覚めてしまったのだ。頭が寝足りないとだるさを訴えている。朱里がぼうっとしたまま食卓に座ると、麟華が朝食を整えながらふと動きを止めた。 

「朱里、どうしたの? ものすごく泣き腫らした目になっているけど」 
「え?」 

 指摘されて、朱里は目元を触りながら顔を上げた。昨夜の泣き方を考えれば無理もない。 

「そんなに腫れているかな? 昨夜、すごく嫌な夢を見ていたらしくて――」 

 麟華に適当に答えながら、朱里はふっと視界の端にとんでもない光景を見つけた。 
 素顔が歪むほどの黒縁眼鏡と、だらしなく皺でよれた白衣。 
 冴えない教師を演じている副担任のはるかが、間違いなく向こう側のソファで寛いでいる。 

「せ、先生?」 

 飛び上がりそうなくらいに仰天して、朱里は一気に眠気が覚めた。どうしてと狼狽したのは一瞬で、すぐに昨日の成り行きを思い出した。 
 彼はソファに腰掛けて呑気に新聞を手にしていたが、眼鏡の奥の視線は、完璧に朱里に向けられている。麟華とのやりとりを興味深く見守っているようだった。 
 朱里の動揺が一気に上り詰めていく。 

(ち、ち、ちょっと待って。私ってば、なんて格好で……) 

 かあっと頬が染まるのが分かる。朱里は思い切りうろたえながら、ガタガタと食卓の椅子から立ち上がった。 

「ご、ごめんなさい、先生。私、こんな、寝間着のままで……、あの、で、出直してきますっ」 

 朱里はリビングを飛び出して自分の部屋に引き返す。慌てて制服に着替えると、洗面所に駆け込んだ。そこで鏡に映った自分の腫れた目元を見て、再び仰天する。 

(こ、こんな顔を先生に見られるなんて、最悪っ) 

 がっくりとうな垂れつつ、朱里は着々と身支度を整えた。いつものようにきっちりと髪をまとめて眼鏡をかける。瞳の色合いだけではなく、今朝は泣き腫らした目元をごまかす道具としても役立ちそうだった。 
 居たたまれない気持ちでリビングへ戻り、朱里は真っ先に遥に頭を下げた。 

「あの、たいへん見苦しい処をお見せして、……ごめんなさい」 

 嫌な汗をかいていると、背後から麟華が不思議そうな声を出す。 

「朱里ったら、何を謝っているの?」 

 姉の乙女心を無視した発言に、朱里はくわっと食って掛かった。 

「あのね、麟華。先生がいるんだから、そういう処は注意してくれないと。見苦しいでしょ」 
「そういう処って?」 
「だから、その、思い切り寝起きのまま、寝間着でふらふらと歩き回ったりなんかして……」 

 恥ずかしさのあまり、語尾がかき消えてしまう。朱里がもじもじと指先を組み合わせながら俯くと、麟華がぴしゃりと言い放った。 

「そんなの、いつものことじゃないの」 
「だから、いつも通りじゃ駄目なのっ」 

 たまらず声を高くすると、麟華はきょとんと首をかしげた。 

「どうしてよ。それに、寝起きの朱里は見苦しくないわ。とっても可愛らしいのよ。だから、ぜひ黒沢くろさわ先生にも見て頂きたかったの。私の心遣いがわからないのかしらね、この子は」 
「はぁ?」 

(ず、ずれてるよ、麟華) 

 朱里あかりは姉の奇天烈な発想に頭を抱えたくなった。はるかは二人のやりとりが可笑しかったのか、小さく笑っている。 
 朱里にも、麟華の気遣いが全く分からないわけではない。昨夜、妹に打ち明けられた気持ちを、姉として応援しようとしてくれているのは、よく分かる。分かるのだが、麟華は更に墓穴を掘ってくれた。 

「ねぇ、黒沢先生。寝起きの朱里は無防備で可愛かったでしょ?」 

 朱里はそれ以上口を開くなと、麟華を呪いたい気持ちになっていた。遥は笑いながら、分厚い眼鏡を煩わしそうに外した。露になった綺麗な眼差しが、真っ直ぐに朱里に向けられる。口元に浮かぶわずかな笑みが甘い。 
 朱里はそれだけで鼓動が高くなる。 

「そうですね。髪をおろして素顔でいるほうが、私は好きです」 

 副担任を演じたまま、遥が素直な感想を漏らす。朱里は再び顔がのぼせてしまう。 

「せ、先生こそ、眼鏡をしていない方が素敵です」 

 照れ隠しに口を開いて、朱里は麟華と同じように墓穴を掘った。何を言っているのだと、ますます顔に熱が込み上げる。遥は困ったように苦笑を浮かべる。

「私は地味に過ごしたいので……」 

 今の格好もある意味、全然地味じゃない。朱里は喉まで出かかった台詞を、辛うじて呑みこんだ。遥は手にしていた新聞を置いて、指先を組み合わせる。 

「だけど、天宮あまみやさんもそんなふうに生真面目な生徒でいる方がいいでしょうね」 
「どうして、ですか」 
「それは、……目立たないから」 

 低く理由を語ってから、遥はごまかすようにいたずらっぽく笑う。 

「天宮さんは可愛いから、あまり目立つとモテすぎて困ったことになるでしょう?」 

 楽しそうな口調だった。朱里にも生徒をからかっているのだと判ってしまう。判っているのに、理屈とは裏腹にぼっと顔が熱くなる。 
 朱里は取り繕うように慌てて口を開く。 

「ひ、人をからかうのは止めて下さい」 

 遥は小さく笑ったが、すぐに何かを思い悩むように表情を改めた。副担任のとぼけた印象がすっと姿を消す。 

「では、真面目に君に聞きたい。――朱里、私がここにいることを嫌悪するのなら、そう言ってくれて構わない。他の方法を考える」 

 彼は真顔で朱里を見つめる。朱里は火照っていた顔から、急激に熱が冷めていくのを感じた。どんなふうに答えるべきか考えた挙句、朱里は麟華に助けを求めるように視線を投げかける。麟華は嫌な笑い方をして、わざとらしくそっぽを向いた。きちんと自分の口から誤解を解けと言わんばかりに、妹を放ったらかしにする姿勢らしい。 
 朱里は肝心なときに助け舟を出してくれない姉を怨みつつ、「えーと」と言葉を探した。 

「あの、黒沢先生。私には、先生と一緒に生活することを嫌がる理由なんてありません」 

 出来る限り深い意味を探られないように、はっきりと伝えた。遥は深い色を宿した瞳で、その言葉を推し量るように朱里を見つめていた。 

「じゃあ、その泣き腫らした目は? 私には他に理由があるとは思えない」 

 遥が気に病んでいる理由を理解して、朱里は「違います」とすぐに答えた。 

「これは、その、本当に嫌な夢を見ていただけで……」 

 朱里は夢で描き出された光景を語ることを躊躇してしまう。遥に打ち明けると、無邪気に彼を慕うことが許されなくなりそうな気がした。今の関係よりも、更に何かが遠ざかってしまう気がする。 
 今はまだ、このひとときを手放したくない。 
 どこにでもいるような女子高生のままで、遥のことを想っていたいのだ。 
 朱桜すおうが誰なのか、朱里はそれを知っていてはいけない気がした。知っているとしても、あまりにも全てが断片的すぎる。  
 朱里は夢で辿った光景については触れずに、秘めたまま、とにかく誤解を解こうとして言葉を続ける。 

「たしかに先生と出会ってから、身の回りで色々なことがあったけど。でも、……前にも言ったように、先生が護ってくれるなら安心です。私は先生が傍にいてくれるほうが心強い。本当です」 

 はっきりと本当の想いを伝えた。 
 遥は朱里を見上げていた顔を伏せるようにして、ただ頷いた。朱里には自分から目を逸らすための仕草に見えた。 

「それなら、いいんだ」 

 遥は再び素顔を歪ませる眼鏡をかける。それでも依然として俯いたまま、小さく呟いた。 

「――すまない」 

 朱里には彼が何に対して詫びているのか、わからなかった。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

処理中です...