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第三話 失われた真実

第四章:5 黒麒麟(くろきりん)の本能と誇り

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「諦めないといけないのに、それもできない。みんなを困らせるって知っているのに、先生が好きなの。ここにいてくれることだって、そんな理由で喜んではいけないのに。……なのに、好きだから、傍にいてくれて嬉しいと思う自分がいる。どうしても、消せないよ。……私、どうしたらいいの?」 

 しゃくりあげながら問いかけると、強く自分を引き寄せる力があった。柔らかくて暖かい、慣れた感覚。いつものように、それ以上に強い姉の抱擁だった。 

「私はね、信じているわよ」 

 麟華りんかに息苦しいほど抱きしめられながら、朱里あかりは鼓動と共に響いてくる姉の声を聞いた。 

「あなたが主上しゅじょうを救ってくれるのだと、そう信じているわ」 

「私が……、先生を」 
「そうよ。主上の守護である私が、主上と変わらずあなたを護りたいと思うことには、意味がある筈だわ。だから、朱里は必ず主上を護ってくれる」 
「じゃあ、麟華は私の気持ちを応援してくれるの?」 

 縋るように姉を見上げると、麟華はあでやかに笑った。 

「もちろんよ」 

 姉の笑顔が、再び揺らめいて霞む。朱里は流れ落ちる涙を隠すように、麟華にしがみついた。「ありがとう」と呟く声がくぐもる。 
 麟華が朱里をあやすようにぽんぽんと背中を叩く。けれど、その優しい手が不自然に止まった。新たな声が朱里にも聞こえてくる。 

「二人とも、夜は冷える。中に入りなさい」 

 穏やかな声は麒一きいちだった。朱里が振り返ると、彼は室内から無表情に二人を見ている。 

「麒一、私は――」 

 すぐに声をあげた麟華を制する様に、麒一が片手を上げてみせる。判っていると言いたげな仕草だった。麟華はそれで何かを察したのか口を閉ざした。 
 朱里は自分の思いが聞かれていたのかもしれないと、身を硬くする。ベランダで立ち尽くしたまま動かない二人を眺めながら、麒一が口を開いた。 

「朱里の気持ちは良く判ったよ。私の言葉がそれほどに朱里を苦しめているとは考えていなかった。悪かったね、朱里」 

 麒一はいつもの物静かな態度で、朱里に詫びる。厳しく責められるのだと思っていた朱里は、咄嗟に大きく首を横に振った。彼は更に続ける。 

「朱里が我が君を好きだと思うのなら、それは仕方がない。我々にはどうすることもできない」 

 麒一は兄としてではなく、遥の守護としての立場を守っているようだった。 
 淡々と語りながら、麒一は苦しげに眉根を寄せた。黒目がちの瞳は、絶望を映しているかのように暗かった。朱里は心臓を握られたかのように、胸が詰まる。 
 やはり麒一には歓迎できない想いなのだ。優しい兄を苦しめてしまうのだと、朱里は居たたまれない思いに苛まれる。 

「けれどね、朱里。私は麟華のように感情のままに物事を捉えることが出来ない。もちろん我が君が朱里を護ろうとするのなら従う。我々は全力で朱里を護ってみせる。けれど、我々は我が君のために生まれた守護。この本能の中心に刻まれたものは、意志だけではどうにもできない」 

 苦渋を滲ませたまま、麒一が語る。朱里は彼らの世界のおきてを垣間見たような気がした。けれど、そこに一筋の光を見つけたような気がして、しっかり麒一と向かい合う。 

「あの、私には事情が良く判らないけど。麒一ちゃんも麟華も、先生を護るために在るんだよね。私の兄姉である以上に、二人の本能にはそれが刻まれていて、無視できない。先生を傷つけたり、危険に晒すことは見過ごせない。そういうことだよね」 

 麒一は言葉もなく頷いた。朱里は少しでも兄の危惧することを和らげようと、明るい声を出す。 

「じゃあ、こうしよう。もし私のせいで先生の立場が悪くなったり、身を危険に晒すようなことになったら、麒一ちゃんは私を見捨てて先生を護る」 

 麒一は何も語らず、黒曜石のような瞳でひたと朱里を見据えている。朱里は挫けずに続けた。 

「先生が何かの事情に巻き込まれているのは、私にも判るよ。私だって、先生が危険な目に会うのは嫌。できる事なら、同じように先生の助けになりたい。だから、先生のために見捨てられても殺されても文句は言わない」 

 麒一がふっと眼差しを伏せた。同時に麟華が背後から朱里を抱きしめる。自分の体に回された麟華の腕が震えているように感じた。 
 朱里は自分の思い付きが、双子だけではなく、自身の思いに対しても慰めになっているのだと気付く。 
 この気持ちのために、周りの者が苦悩するのは嫌なのだ。 
 想いと共に刻まれる罪悪を、どうにかして拭えないかと足掻いてしまう。 
 何よりも遥を苦しめ、窮地へ陥れるような成り行きは避けたかった。遥が自分を犠牲にして朱里の望みを叶えようとすることは、既に夏美の一件で明らかになっている。 

 だから麒一に語ったことは、朱里にとっても慰めになる。もちろん、それで全てが解消するわけではないと判っている。自身の中に広がる想いと共に、どこからか消えることのない罪悪感が波紋となって、果てしなく広がっていくのだ。
 それでも、朱里は遥への想いを断ち切ることが出来ない。 
 麒一に訴えたことは、今朱里に示すことが出来る精一杯の気持ち、あるいは罪滅ぼしだったのかもしれない。 
 ゆっくりと伏せていた黒玻璃くろがらすのような眼差まなざしを上げると、兄は朱里に微笑んで見せた。 

「いつかあなたに語りました。我が君を想うあなたの気持ちは嬉しいと。それは嘘ではありません」 

 突然身を正し、麒一は改まった口調で告げる。朱里はどこか気恥ずかしくて、「え?」と大袈裟にたじろいでしまった。 

「麒一ちゃん?」 

 面食らっている妹を眺めて、麒一はようやく可笑しそうに笑った。 

「今のは冗談だよ。朱里、気持ちはよく判ったよ」 

 彼は朱里を抱きしめてぐりぐりと頬ずりをしている麟華に視線を映す。 

「麟華、私も少し考えてみよう。朱里を護りたいと訴える麟華の本能が意味すること」 

 朱里の背後から、麟華の勝ち誇ったような声がした。 

「ほうら、麒一。やっぱり、あなたの中にもそれはる」 
「……そうだね、私の中にも在る。そうでなければ我が君の命があったとしても、私は朱里に手をかけていただろうね。我が君を脅かすものは捨て置けないのだから」 

「理知的でいらっしゃると、気苦労が多いですわね」 
「感情的だと幼稚に見えるからね。私はこれでも黒麒麟くろきりんとしての誇りがある」 

 麟華の皮肉にさらりと皮肉を返し、麒一は不敵に笑ってみせる。 
 絶望の影を消して、麒一は穏やかに恐ろしいことを口にした。 

「そう、私には守護としての誇りがある。だからね、朱里。もし我が君の仇となった時、私は容赦しないよ」 
「う、うん。望むところだよ」 

 朱里が少しばかり怖気づいていると、麟華がそんな妹を慰めようとして、更に追い討ちをかけてくれた。 

「大丈夫よ、朱里。私がいるわ。朱里が心変わりでもしない限り、私はずっと味方よ」 

 麟華は明るく言い放ってくれるが。 

(それって、心変わりをした瞬間、麟華は鬼になるってことだよね) 

 想像すると、それは途轍もなく恐ろしい気がした。朱里は一人で震え上がりながらも、自分を囲んで笑っている二人に安堵する。 
 麒一の目の中から、暗いかげりは跡形もなく消えていた。自分の訴えた想いが、麒一にも届いたのだと嬉しくなる。もう麟華と麒一には、自分の想いを偽る必要がない。 

 今はこの先のことを想い悩むよりも、その悦びだけを噛み締める。 
 胸の中にある不安は、そっと遠ざけておこう。 
 朱里は目を閉じて、自分を抱きしめる姉の腕にてのひらを重ねた。 

――どうか、この心優しい双子を裏切る日が訪れませんように。 

 今はただ、それだけを。 
 朱里は強く、それだけを願っていた。
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