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第三話 失われた真実

第四章:4 深く刻まれた気持ち

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 冬の訪れを示すように、深夜の外気が冷たい。朱里あかりは寝間着の上に簡単な上着を羽織って、自室から続いているベランダへ出ていた。 
 今日一日を振り返りながら、色々なことに考えを巡らせる。 
 放課後に起きた衝撃的な出来事の余韻が冷めないまま、朱里ははるかと共に、無事に学院から帰宅した。 

 遥に刺し貫かれた女性のその後も気になったが、どこか現実感を欠いている。彼女との出会いで明らかになったこと。夢で辿たどる光景と符号する女性の顔貌かおかたち。語られた言葉。確かに彼女との出会いは朱里に新たな憂鬱の種を撒いてくれた。
 けれど、それ以上に胸に深く刻まれているのは、朱里の語ることを初めから拒絶している遥の態度だった。 

 泣きたいような気持ちで帰宅すると、麒一きいち麟華りんかが朱里に一つの提案をしてきた。遥をこの邸宅に滞在させるというのだ。理由を聞いてみると、ただ最善の策であるという。おそらく彼らの世界の事情が関わっているのだろう。朱里に窺い知ることが出来るのはそれだけだった。例え具体的に説明されても、理解できないに違いない。 

 朱里は理由について、深く追求しなかった。 
 遥を邸宅に迎えることについて、自分が肯定的であることは否定しない。少し前までなら、小躍りしたいくらい喜んだだろう。けれど、今は自分の中であらゆる事情が交錯していて、手放しに喜ぶことが出来なくなっていた。 

 複雑な思いに駆られてしまう。 
 遥の示した拒絶を目の当たりにして。 
 彼を好きになってはいけないと釘を刺されながら、彼の身近で過ごす日々を強いられる。 
 傍にあれば、朱里はその立ち位置を変えることが出来ない。既に遥への想いが、すぐに切り捨てられるような簡単な気持ちではないと判っている。 

 判っていても。 

 近くにいなければ、いつかこの胸に巣食っている想いが費えるのかもしれない。それが、わずかな希望だった。 
 出口のない箱庭の中で見つけた隠し扉のように、朱里にとってはわずかに残された逃げ道だったのだ。 

 一過性の熱病。 
 綺麗な思い出となって刻まれるだけの初恋。 
 本当は気持ちを自覚したときから、切ない思い出として終わることを期待していたに違いない。
 
 どこかで綺麗な恋心を思い描いていた自分。 
 届かない想いに苦悩することも、いつか懐かしい思い出になるだけなのだと。 
 叶わなかった初恋として、美しい思い出になると。 
 そんな幻想を抱いていた。 

 今はもう、綺麗事だけを思い描くことが出来ない。手に入らない想いを追い続けて、自分は奈落の底まで落ちていく。道を踏み外してしまうのかもしれない。
 
(――こわい……) 

 遥への想いが。 
 こんなにも思い詰めてしまう自分が。 
 胸の奥底に刻まれた罪悪がある。理由が失われたまま、ただ強く。 

――この想いは世界を滅ぼす。 

 手を離さなければ人々を苦しめる。全てが失われてしまう。 
 朱里は羽織っている上着の前を掻き合わせるように、強く両手に力を込めた。どこからか胸に去来する想い。それは不自然なくらいに、朱里の中に芽生えた遥への想いと交わっていくのだ。何の齟齬もなく、自分の気持ちとして。 

 深く刻まれている。 

(私は……)

 その先を考えることが恐ろしくて、朱里は凍えるように身を小さくする。 
 既に全てが憶測ではなくなりつつある。自分の中にある、たしかな証。 
 この想い。 

(私が、朱桜すおうなのかもしれない) 

 夢の中で見た光景。朱桜すおう闇呪あんじゅに抱く想いは、手に取るように辿ることが出来る。 
 彼女は闇呪に惹かれていた。自分が遥を想うように。 

(……嫌だ)

 思い過ごしだと目を逸らしたい。ただの偶然なのだと。 
 全てが自分の妄想で、何の根拠もない夢を見ているのだと。 

(夢を見るのがこわい……) 

 鮮明な夢はごまかすこともままならないほど、いつか朱里に真実を突きつけるのかもしれない。強すぎる気持ちも、想いと共に湧き上がる罪悪も、輪郭を持たない感情の全てが、形になってしまうのかもしれない。 

「朱里ったら」 

 ふいに背後で呼ばれて、朱里ははっと振り返った。 

麟華りんか、どうしたの?」 

 いつのまに現れたのか、麟華がベランダから続く開け放したままの窓の前に立っていた。 

「こんな夜中なのに、まだ部屋から灯りが漏れているんだもの。ノックしても返事がないから、勝手に入っちゃったわよ」 
「あ、ごめんなさい。ちょっと、星を見ていたの」 

 麟華に夢を見るのが恐いとは言えない。夢で辿る光景が、過ぎた日の出来事だと突きつけられることを恐れてしまう。眠れないのだと素直に言えなかった。 
 朱里が慌てて取り繕うと、麟華は顔をあげて夜空を眺めてから、目を細めて妹を睨む。 

「へぇ、こんなに曇っているのに? 朱里には星空が見えるのね。へえぇ」 

 皮肉をこめて大袈裟に感嘆しながら、麟華も同じようにベランダへ出てくる。朱里の隣に立って、「こら」と指先で妹の額を弾いた。 

「イタッ」 
「嘘をつくから、バチを当ててあげたわ」 
「もう、私だって色々と考えたいことがあるのっ」 

 むくれて姉を見上げると、麟華はふっと表情を改める。 

「朱里は、黒沢先生がこの家にいるのが嫌なの?」 

 唐突に聞かれて、朱里は思わずうろたえてしまう。自分の複雑な心境を見抜かれたのかと再び慌てた。 

「別に、嫌ということは……」 
「だって、朱里の様子がおかしいんだもの。私はもっと喜んでくれるかと思っていたのに」 

 麟華は残念そうに吐息をついて、ベランダを囲う塀から身を乗り出すようにして、上体を預けた。朱里は遥の滞在を提案された場面を振り返る。既に三人は申し合わせていたようで、遥もただ朱里の様子を見守っていた。 

 あの時、素直に喜べなかった自覚がある。そのせいだろうか。遥は「すまない」と静かに詫びていた。 
 朱里は周りに対して思いやりを欠いた態度だったのだと、今更になって反省してしまう。けれど、反省してみるものの、やはり複雑な心境は変わらない。 
 思わず、麟華にぽつりと漏らしてしまう。
 
「私、喜んでもいいのかな」 
「え?」 

 麟華は意味が判らないのか、不思議そうに朱里を見た。朱里は秘めていることが出来ず、目の前の姉にぶつけてしまう。 

麒一きいちちゃんが、先生を好きになっては駄目だって。――でも、私、先生が好きなの」 

 突然の告白に、さすがの麟華も戸惑っているようだった。すぐに反応がない。朱里はやはり姉にとっても歓迎できない事実なのだと胸が塞ぐ。けれど、一度言葉にすると、想いは更に力を伴って朱里を突き動かした。 

「すごく、先生が好き。自分でもいけないって判っているのに止められない。……でも、好きなの。ずっと、傍にいたいと思ってしまう」 

 麟華を困らせると判っているのに、朱里は想いを語ることがやめられなかった。今まで閉じ込めていた反動なのか、気持ちが急激に上り詰めて涙となって溢れ出てしまう。冗談だとごまかすこともできず、朱里は嗚咽を繰り返した。 
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