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第三話 失われた真実

第三章:4 遥(はるか)の真実

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 感情のこもらない、淡々とした声だった。女性はゆっくりと頷いて見せる。はるかはゆっくりと息を吐き出しただけで、何かを語ろうとはしなかった。女性は慰めるかのように、再び口を開いた。 

「私は人々が語るほど、あなたが非道ではないことを知っています。だからなのでしょうか。全てが腑に落ちず、まるでどこかに大きな罠があるような気がするのです。黄帝の語ることが、黄帝自身の真意であるのかも疑わしく思えてしまう。どちらにしても、今の状況ではあなたの力を破ることは、まだ誰にもできない筈です。それだけが救いです」 

「私は黄帝の元へ朱桜すおうを導くことが最善だと考えていましたが……」 
「それこそ、今は得策ではないように感じます」 

「――私は、何を信じれば……?」 
わたくしにも判りません」 

 二人の間には、遥が剣に手をかけた時よりもさらに重苦しい空気が漂っている。話が呑み込めない朱里あかりにも、遥にとって思わしくない展開なのだと伝わってくる。 

 朱里は胸に込み上げてくる恐れをやり過ごそうと、所在無く視線を漂わせた。再び床に描かれた血だまりを見てしまう。夜の闇に呑まれて真っ黒な染みに見えるが、間違いなく女性の負った傷の深さを物語っている。 

 それが急激に朱里を現実に引き戻した。大怪我に異世界の事情など関係ない。そんな成り行きはこの際どうでもいい。大怪我は大怪我なのだ。朱里は恐れとためらいを振り払って、何も考えず二人の間に割り込んだ。 

「あの、とにかく手当てを。話はそれからでも」 

 思い切って声をあげた時、教室の外からも新たな声が響いた。 

「――それで気がすんだでしょうか。あかみや様、本当に無茶をなさる」 

「と、東吾とうごさんっ?」 

 朱里は声の主を見て、思わず声を高くした。父の使いとして動き回っているのは、朱里も良く知っている。彼はいつからそこにいたのか。朱里は全く気がつかなかった。現れた東吾は、これまでの異常事態を払拭ふっしょくするかのように、すたすたと遥達の前まで歩み寄って来る。 

「東吾、……どうして君がここに?」 

 遥も東吾とは顔見知りのようだった。突然の彼の登場に驚きながらも、警戒している様子はない。自然に彼を迎え入れた。東吾は動じることもなく笑みを浮かべる。 

「私は天宮あまみやの使いです。学院のどこに現れようと不思議ではないでしょう。この方は私がお連れいたします」 
「あっ。あの、東吾さん。この人、大怪我をしているの」 

 朱里が訴えると、彼はにこりと笑う。血だまりの出来た辺りの状況を見ても、顔色一つ変えない。 

「事情は全て存じております。朱里さんが心配する必要はありません」 

 臆することもなく、飄々ひょうひょうと語る東吾の台詞せりふは心強い。朱里はそれだけで、なぜか大事には至らないのだと、肩の力が抜ける。東吾は毅然きぜんと立ち尽くす女性に会釈した。 

「では、宮様、私がご案内申し上げます」 
「ありがとうございます、東吾。おかげで私の憂慮は晴れました」 

 彼女は東吾に礼を述べてから、ふっと朱里を振り返った。 

「朱里さん」 
「は、はい」 

 思わず背筋を伸ばすと、彼女は真っ直ぐ朱里を見つめたまま告げた。 

「あなたは、あなたの思うままに進みなさい。それは間違えていないのだと、そう覚えていて欲しいのです」 
「え?」 

 朱里は一瞬、遥に対する想いのことかと考えたが、すぐにそんな筈がないと思いなおす。 

「はい、わかりました」 

 よく意味がわからないまま頷くと、女性はすっと踵を返す。 
 微笑むこともなく、毅然とした気高い横顔。朱里はあっと声を漏らしそうになった。 
 近頃、頻繁に見るようになった夢の中で、彼女と良く似た女性を見たような気がしたのだ。一つ手掛かりを見つけると、後は容易たやすい。 
 「赤の宮」という言葉も、「中宮」という立場も、全て夢の中で見聞きしている。

 緋国ひのくにの女王、赤の宮。 
 夢の中で示された全ての符号が揃っていく。 
 再び朱桜すおうについての憶測が、激しく自分の中で肥大しはじめた。 
 朱里あかりは何かに巻き込まれてゆくような、言いようのない不安を感じて、ただ女性の後姿を見送ってしまう。 

「赤の宮」 

 東吾と女性が教室を出ようかと言うところで、朱里の隣に立っていた遥が声をかけた。女性がわずかに振り返る。 

「あなたには、私の真実を伝えておきます。……私は自身の宿命も顧みず、朱桜を愛していました。ただ、うまく慈しむことができなかったのでしょう。だから、彼女は黄帝を愛した」 

闇呪あんじゅきみ、愚問であることは承知の上で尋ねましょう。あなたはそれでも朱桜すおうを怨まずにいられるのですか」 

 女性の問いに、遥は頷く。 

「たとえ彼女の想いが黄帝に向けられていても、私にとって朱桜が翼扶つばさであることは変わらない。私は彼女に忠誠を誓い、真名まなを捧げた」 

 女性が動揺したのが、朱里にも窺える。 

「――朱桜、に? ……では、あなたは」 
「そうです、宮。私は自ら与えられた宿命を、自分の手で完成させてしまった。全ておのれの成したことです。朱桜には何の罪もない」 

 遥の告白が終わると、静寂に包まれた教室に、再び凛と女性の声が響く。 

「結局、逃れることは出来ないのですね」 

 女性は悲しげにそれだけを呟く。教室から姿を消す女性の背中を、遥の声だけが追いかけた。 

「それでも、赤の宮。私は彼女が安逸として過ごせる未来を手に入れるまで、力の限り盾となる。――この魂魄いのちを賭けて」 

 何かに追い詰められているにも関わらず、遥の声は揺るがない。朱里はそれだけで切なくなってしまう。何がどのように繋がるのかは、良く判らない。
 遥が愛した朱桜。朱桜は相称の翼。そして彼女が愛したのは黄帝。 
 緋国ひのくにに生まれた六の君、朱桜すおう――それは。 

 それは――。 

 朱里は大きく頭を振って、憶測を振り払う。関係がないと無理矢理言い聞かすように。 
 彼らの語ったことは、自分には意味が判らない出来事なのだ。 
 判らない筈なのに、朱里は強く感じている。感じてしまう。 
 全てが違うと。 

 自分の中に生まれた遥への思いに重なるのだろうか。 
 違う誰かを愛していたという朱桜。 
 そんなふうに遥への想いを否定する事実はいらない。 
 朱里にはどうしても強い抵抗があった。何かを問うことが恐ろしくて、ひたすら黙っていることしか出来ない。 

 二人で取り残されると、耳の痛くなるような静寂が戻ってくる。 
 遥は歩み出そうしてから、ふっと踏みとどまり朱里を見返った。 

「朱里、――私が恐ろしいか」 

 問いかけにどのように答えれば良いのか、咄嗟に迷ってしまう。遥の凶行には事情があるのだと判っていても、さっきのような光景を受け入れることは、やはり難しい。教室の床を染める血痕を見ると、恐ろしくないと答えることにためらいを覚える。 
 朱里は正直に答えることにした。 

「怖くないと言えば、嘘になります。……先生には、先生の事情があると思うけれど、さっきみたいな先生は、やっぱり、怖いです」 
「だろうな。朱里はそれでいい。君に憎まれるのが、私の役目でもある」 
「え?」 

 朱里は胸に沈んでいくおもりが増していくのを感じる。 
 誰もが揃って同じようなことを言うのだ。 
 示される結論は、いつでも遥を好きになってはいけない。それだけを形にする。 
 遥が教室を出るために、ゆっくりと歩み始めた。 

「先生っ」 

 自分の中を占めるもどかしさに突き動かされて、朱里は彼を呼び止めてしまう。立ち止まった遥が、もう一度こちらを振り返った。辺りはすっかり夜の闇に呑まれ、朱里には遥の表情が判らない。 

「どうかしたのか」 

 教室を飲み込んだ夜の闇に、声だけが明瞭に響く。遥が真っ直ぐにこちらを向いていた。 

「先生とさっきの女の人が話していた朱桜というのは――」 

 朱里はためらいを覚えたが、闇に包まれた不鮮明さに励まされて問いかけた。 

「私のこと、ですか」 

 遥は身動きしない。闇に遮られて、視線を交わせるほどには互いが見えなかった。遥のよく通る声が響く。 

「もしそうだとしたら?」 

 朱里は恐れと不安に震えながら、自分を奮い立たせる。 

「もし、もしそうだとしたら、――私が先生を好きになることは、許されないことですか」 

 朱里には自分の鼓動がはっきりと聞こえる。教室を包む闇の中に、遥の輪郭だけを見分けることが出来た。依然として彼の表情は影に呑まれている。 
 朱里が息を止めるようにして返答を待っていると、遥が低く笑った。 

ない」 

 はっきりとした呟きだった。何を指してそう語るのかは判らないが、朱里には強い拒絶に受け取れた。 
 遥はそれきり何も語らず教室を出る。扉から出たところで、まるで何事もなかったかのように立ち尽くす朱里を促した。 

「朱里、家に戻ろう。麒一きいち麟華りんかが待っている」 

 朱里は強く歯を食いしばってただ頷いて見せる。教室を出ると、遥の背中を追うように暗い廊下を歩き出した。
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