上 下
69 / 233
第三話 失われた真実

第二章:2 噂との差異

しおりを挟む
 直後、キンと拍子抜けするほど軽い音が響く。彼方かなたのすぐ傍らで身動きする気配が、緩やかな風を生んだ。 

「――この地で抜刀して剣を振るうなど、正気か」 

 彼方は現れた人影を見て、小さく声をあげた。 

「ふ、副担任」 

 まるで大したことではないように、副担任であるはるかが碧宇の剣を受け止めていた。遥が手にしている輝きのない刀剣。彼方は緊迫した状況を置き去りにして、思わずしげしげと眺めてしまう。 
 辺りの暗闇よりも、いっそう深い漆黒。眺めていると、艶やかな美しさが浮かび上がってくる不思議な剣だった。 

(もしかして、白亜の話に出てきた、――悠闇剣ゆうあんのつるぎ……) 

 遥は受け止めていた剣を簡単に振り払って、碧宇へきうと対峙している。 

「ここは天落てんらくの地。かんの地と同様に戦伐せんばつの禁じられた地。――退かぬなら誰であろうと容赦はしない。魂魄いのちを失うと思え」 
「――闇呪あんじゅあるじか」 

 碧宇へきうの問いに、遥は沈黙で答えた。碧宇はゆっくりと構えていた剣を下ろし、虚空へ一振りして具現化することのない鞘へおさめた。戦意のないことを示すと、碧宇はさっき降りてきた階段へと足を向ける。立ち去ろうとする碧宇に、遥のよく通る声が問いかけた。 

「目的は何だ。誰の差し金だ」 

 碧宇は背を向けたまま、くっと小さく笑う。彼方には闇呪あんじゅを前にして、兄がこれほど平然と構えていられることが信じられない。容赦なく葬り去られるとは考えないのだろうか。何もかもが、彼方かなたの想像を超えた行動だった。 

「我が主は黄帝」 
「どうやら愚問であるようだ」 

 遥は聞くだけで無駄であったというように、深く息をついた。碧宇は浅い笑みを浮かべたまま続けた。 

「今は貴殿の相手をする段階ではない。――出直そう」 

 呆気なく戦意を喪失して、碧宇は引き下がる。それ以上何も語らず、すっと踊り場の暗闇に姿を消した。 

「兄上っ」 

 咄嗟に彼方が追いかけても、もうどこにも姿がない。唖然として立ち尽くしていると、背後で深い溜息を感じた。深夜の校内に、よく通る艶やかな声が響く。 

「どうやら王子様は厄介ごとばかり持ち込んでくれるようだな」 

 彼方をちらりと横目で見たまま、遥が睨む。絶体絶命の危機を脱したのも束の間、彼方はすぐに新たな緊張感に占められる。 

「えーと。この場合、僕は被害者だと思うんだけど」 

 既に副担任の正体が、極悪非道だと語られてきた闇呪であることは明らかである。こちらの地で見てきた限り、彼は噂ほど残虐な人物には見えない。見えないが、それでも全ての恐れが払拭されるには程遠い位置に在った。 

 闇呪である副担任に対して、彼方はどのように接すればいいのかわからない。互いに素性が明らかなのだ。今更、教師と生徒を演じることはできない。
 戸惑う彼方に構わず、遥は手にしていた剣を一振りして虚空にある鞘へ収めた。何事もなかったように歩み寄ってくると、彼方の腕を掴む。 

「痛っ」 

 腕を引っ張られた勢いで、傷口に激痛が走る。彼方はその痛みで左肩を負傷していたことを思い出した。 

「――仲間割れか」 

 遥に問われて、彼方は「違う」とすぐに頭を振った。何がどうなっているのか、彼方自身にもわからない。あんなに弟として自分を可愛がってくれていた兄の、信じられない豹変振り。それを思うだけで、気持ちが暗くなってしまう。 
 遥にどのように成り行きを説明すれば良いのか考えていると、血に濡れた左肩の辺りを眺めていた遥が口を開いた。 

「上着を脱ぎなさい」 
「え?」 
「いちおう教え子と先生の関係ですからね。止血くらいはしてあげましょう」 

 突然副担任の立場を取り戻した遥に、彼方は身につけていた制服の上着をもぎとられてしまう。中にきていた白いシャツは、更に血の赤が鮮明だった。

「ちょっ、待って。い、痛い」 

 彼方の訴えを見事に聞き流して、すっぱりと切られた処から、遥はシャツの左袖を無造作に破る。それを包帯代わりにして、彼方の傷口を押さえるように回して、締め上げた。 

「い、いたたた」 
「この場合は手当てをするしか方法がありませんからね。怨むのなら、こんな痛手を負わせた相手を怨みなさい」 

 応急処置が終わっても、彼は生徒として彼方が帰宅するのを見届けるつもりなのか、立ち去ることはなくこちらを眺めている。 

「あの、どうして今更、副担任のふりをするわけ?」 
「私は正真正銘の副担任ですが……」 
「あなたは闇呪の主だ」 

 思い切って宣告すると、遥はやれやれと吐息をついて暗い廊下を歩き出した。彼方は成り行きで後ろをついていく。 

「先生と生徒の方が簡単だろう」 
「そういう問題じゃないと思うけど……」 

 ぼそりと本音を漏らすと、彼は「面倒くさいだけだ」と呟いた。 
 遥の背中を見ながら廊下を進んでいると、彼方は全てが夢ではないかという錯覚に陥る。極悪非道だと語られてきた闇呪には、何の恐れも感じない。自分を窮地から救い出し、丁寧に傷の応急処置まで施してくれるのだ。 

 再会した兄である碧宇の方が、よほど恐ろしかった。 
 自分の中にあった何かが根底から覆るような気がして、彼方の戸惑いは大きくなる一方だ。 
 闇呪に出会い、語り合うことが可能であれば、彼方は山のように聞きたいことがあった。けれど、立て続けに起きた予想外の展開に混乱しているのだろうか。何を問うべきなのかが、にわかにわからなくなっている。 

 兄の碧宇が語った、彼方の立場。今となっては、自分の立ち位置さえしっかりと把握できていない。整理のつかない思考の中で、彼方はふと一つだけ状況に相応ふさわしい問いが浮かんだ。 

「副担任は、もう体の具合はいいの? たしかを呑んで重体だった筈だよね」 

 当たり障りのない会話の糸口を見つけたと思ったが、はるかは不自然に歩みを止めて、驚いたように振り返る。彼方は何かまずいことを口走ってしまったのかと、思わず背筋を伸ばした。 

「君は正体を知りながら、私のことを心配するのか。――変わっているな」 

 遥は機嫌を損ねた様子はなく、珍しいものを見るようにこちらを見ている。彼方はそう言われるのも無理はないと思ったが、素直に答えた。 

「あなたが僕の想像と違っていたから」 
「想像?」 
「噂だよ。極悪非道だと聞いていた」 

 打ち明けると、遥は自嘲的に小さく笑う。 

「私はいずれそういうものになるのだろうな」 

 寂しげな声だった。彼方は自分の中に刷り込まれた闇呪あんじゅが、作り上げられた悪の虚像であったことに気付く。 
 本人と出会えば、こんなにも明らかなことだ。 
 白虹はっこう皇子みこが出会った誰か。白露はくろの末路を救ったのは、おそらく目の前にいる遥――闇呪あんじゅに違いない。 
 何かが違うと彼方はますます混乱が増す。 
 どこかに大きな過ちがあるのだ。 

「副担任。あなたは昔、白虹はっこう皇子みこを助けたことがあるよね」 
「白虹の皇子?」 
「当時、透国とうこくの後継者だった皇子みこだよ。地界の娘を望んだけれど、病で亡くした。残されたのは黒きむくろで。あなたはその娘の亡骸を救った」 

 自身の中に芽生えた期待。彼方かなたはそれを証明したくて、まくし立てるように語る。 
 どうして、こんなにも遥に肯定してほしいと思うのだろう。 
 人柄がどうであっても、彼は世界を滅ぼす凶兆でしかないのだ。 
 その宿命を変えることはできないのに。 
 彼が完璧な悪でなければ、何かが救われるような気がするのだ。 

「黒き躯か。たしかに君の言うことには覚えがあるが」 
「やっぱり」 
「私は取り返しのつかない過ちを犯したのかもしれない」 

 遥の語る後悔が何を意味しているのか、彼方には判らない。白露はくろを救った経緯いきさつが、なぜ過ちになってしまうのか。 

「今更悔いても仕方のないことだな。それが間違いだったのか正しかったのかは、私が答えを出すことではないのだろう」 

 校舎の闇を貫く声。明瞭で穏やかな響きだった。彼は真っ直ぐに彼方かなたを見つめた。 

へきの王子、残念ながら私には天界で何が起きているのか判らない。しかし、私がどのように在ろうとも、この身に与えられた宿命は消えない。私が望まずとも、いずれ黄帝のあだとなり、世界を滅ぼすやみとなる。君がこちらの世界で動くのは勝手だが、相称そうしょうつばさに関わろうとするのならば、相応の覚悟をしておいた方がいい」 

 遥は守護である黒麒麟くろきりんから、彼方が彼らに語った事情を聞いているのだろう。 
 語られた警告には脅しの要素がなく、まるで彼方の立場を労わるような言い方だった。その印象はすぐに裏付けられた。 

「君に剣を抜いたのは、同じ碧の王子だった。そうだろう?」 
「――うん」 

 小さくうなずきながら、彼方は斬りつけられた肩をてのひらで押さえた。信じたくない事実だったが、傷跡が真実であることを示す。傷跡の痛みは嘘のようにひいていたが、ずんと胸が痛んだ。 

「天界へ戻り、大人しく過ごした方が良い」 
「今更そんなことはできない。僕は真実を知りたい」 

 噛み締めるように呟く。彼方は勢いに任せて問う。 

「あなたにとって相称の翼は憎むべき存在なのかもしれない。だけど、僕にとっては救世主だ。どんな思惑が絡もうとも、諦めることはできない。ねぇ、あなたは本当に相称の翼を奪ったの? どうして?」 

 遥は動じる様子もなく、ただ浅く笑った。 

「君に答える必要はない」 

 強い眼差まなざしで遥を見上げていると、彼は改めて厳しい声を出す。 

「とにかく警告はした。君が私の護るべき者の仇となるなら、その時は容赦しない」 
「――護るべき者?」 

 遥はそれ以上語らず、彼方に背を向けた。足音もなく校内を歩いていく。彼方は立ち尽くしたまま、月明かりに照らされ、遠ざかっていく背中を見つめていた。 
 求めているものは、未だ手に入らない。 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

処理中です...