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第二話 偽りの玉座

陸章:一 衝動

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 透国とうこくから戻って以来、翡翠ひすいは抑えがたい衝動にとりつかれていた。すぐにでも行動に移したい反面、あまりの無謀さに、さすがの翡翠も尻込みしてしまう。 

 ゆき兄皇子あにみこである白虹はっこうから仕入れた知識は、翡翠にとって一つの指針にはなった。けれど、日を追うごとに膨らんでいく衝動は、それだけが原因ではない。 
 帰国後に起きた一つの異変が始まりだった。 
 その異変がもたらしたのだろう人々の噂が、翡翠の中にある焦燥を駆り立てる。 

 異変は闇の地あんのちで起きた。 
 鬼門にある、坩堝るつぼと言われる漆黒の柱が、その姿を消したのだ。 
 翡翠が生まれてからは、天界のどこにあっても眺めることが出来た巨大な柱。一説では鬼門を治める闇呪あんじゅが、この世のを集め、遥かなそらへおくっていると言われているが、それが真実であるのか翡翠は知らない。 
 黄帝を凌ぐほどの強大な力を誇示しているのだと、天界では疑いようもなく語られてきた。 

 闇呪あんじゅに対する知識を振り返ってみると、翡翠はあまりにも無知だった。白虹はっこう皇子みこに教えられるまで、闇呪あんじゅが黄帝の命によって鬼門を治めていることも知らなかった。鬼門から繋がる異界――天落てんらくについて記録を書き表していることも知らなかったのだ。 

 翡翠にとっては、生かされていることが不思議な位、忌まわしいこの世の凶兆でしかない。けれど、この世が衰退の兆しを見せはじめても、真っ先に闇呪あんじゅの存在を危ぶむことはなかった。 
 あまりの矛盾にたどり着いて、翡翠自身どうしてだろうと愕然としてしまう。 

 先守さきもりの占いのとおり凶兆として生まれながらも、その存在は――まるで伝説のように実態が希薄だった。 
 非道な行いが人々に脅威を与えても、ただそれだけ。 
 彼の恐ろしさは冷酷無比な人柄にあって、凶兆となり得る宿命には見出されていなかったのだ。 

 まだこの世が天帝てんてい加護かごに恵まれていた時代。あまりにも平穏で、この世の滅亡を信じる者がいなかったのかもしれない。翡翠自身、そんなふうに安逸として過ごした過去の記憶がある。 
 いつのまにか失われてしまった、闇呪あんじゅに対する本来の脅威。 
 決して黄帝を、この世を脅かすことはできないのだと。 

 闇呪あんじゅの位置づけは、いつのまにかそのように捉えられていた。どれほど極悪非道な凶行が語られようとも、闇呪の脅威は過去に置き去りにされたまま。 
 今となっては。 
 まるで黄帝の捕虜のように、ただ生かされている。 
 そんな錯覚。 

 誰に教えられたわけでもないのに、翡翠の中には当たり前の図式として出来上がっていたのだ。翡翠だけではない、この世の誰もが、そのように刷り込まれていたに違いない。 
 それが誰かの思惑であったのか、自然と生まれた発想なのか、翡翠には判断できない。 

 いつからか、天界では当たり前の光景となっていた、巨大な黒柱。 
 翡翠の住む碧国へきこくからも、眺めることが出来た。 
 けれど、今。 
 その黒い柱――鬼の坩堝きのるつぼの喪失が、闇呪あんじゅに対する本来の脅威を呼び戻しつつあるのだ。 

 人々の噂が、如実にそれを現していた。 

――闇の地を治めていた番人が、姿を消したらしい。 

 坩堝るつぼの喪失は、人々に闇呪あんじゅの不在として捉えられた。噂には更に、尾びれがついて広がっていく。 

――ついに黄帝に反旗を翻すのかもしれない。 

 彼は、この世の凶兆。世界を、黄帝を滅ぼす者として。 
 思い出したように語られる、忌まわしい闇呪の宿命。 

――やはり、彼がこの世を滅ぼすわざわいとなるのか。 

 日毎に失われていく、この世を育む黄帝のじん。 
 世界の行く末を憂う人々の思いが、まるで一つのきっかけを与えられたように、ふつふつと高まって行く。同時に、この世の衰退について、何かしら原因を求める想いが錯綜する。 

 翡翠の耳にも聞こえてきた噂。 
 人々がたどり着いた不安を現しているのかもしれない。 

――闇呪あんじゅ相称そうしょうつばさを手に入れて、異界へ姿を消したのかもしれない。 

 相称の翼を見たという噂が、再び流れ出す。 
 全ての風聞が繋がり、一つの筋道が描き出されてしまう。 
 黄后となる者を奪われて、黄帝には成す術がない。いずれ天帝てんてい加護かごは完全についえ、世界は終焉を迎える。 

――それが事実であれば、この世はもう終わりだ。 

 翡翠は息苦しさを感じて、知らずに胸元を手で掴んでいた。ついに人々の不安が、かたちとなって現れ始めたのだ。 
 相称の翼に関わる事件を知っている翡翠としては、人々の噂が根も葉もない偽りに過ぎないとも思えない。 

 透国とうこくで得た情報を思い返すと、相称の翼が既に存在している可能性は高い。 
 鬼門での異変――坩堝るつぼの喪失が何を意味するのか。 
 翡翠としては、鍵を握る相称の翼について、黄帝に直に話を聞きたかった。けれど、国の表舞台に立っていない立場では、謁見できる筈もない。近頃では、黄帝は滅多に公の場に姿を現すこともないと言われている。 

 国の主である王が会うことすら、容易ではないのだ。 
 翡翠は金域こんいきに忍び込み、強引に警護を突破することも考えたが、あまりにも命知らずな計画でしかないと、すぐに諦めた。 
 黄帝を護るきりんは、金域こんいきへの侵入者には容赦がないと聞く。 

 事実として、黄帝が公に姿を現さなくなってから、強引に臣下を送り込んだ国があった。伝令として金域こんいきに立ち入った者達は、生きて戻らなかったという。それが守護である麒麟の裁きであったのかは曖昧だが、彼らの遺体は罪人のごとく黒きむくろと成り果てていたらしい。金域を侵す者は、それだけで天意の逆鱗に触れてしまうのだ。 

 へきの王子であろうと、盗賊であろうと、辿る末路は同じだろう。 
 黄帝の許可がなければ、足を踏み入れることが許されない土地なのだ。 
 翡翠が黄帝に真偽を問うことは出来ない。 
 だとすれば――。 

 翡翠は再び無謀な手段を思い描いてしまう。 
 恐ろしいと竦んでしまう思いと、真実を知りたいと願う思いが交錯する。 
 行き場のない衝動。 

「翡翠様ったら、またぼんやりと考え事をしている」 

 突然、翡翠の堂々巡りを遮る声が飛び込んできた。 

「っ――雪」 

 聞きなれた声が驚くほど間近で響いて、翡翠は思わず腰を浮かしてしまった。顔を上げると、腰に手を当てて可愛らしく仁王立ちしている姿があった。 

「珍しくご自分の宮にとどまっておられると喜んでいたのに、毎日ぼんやりしながら溜息ばっかりついています」 
「ごめんなさい」 

 翡翠は叱られた子犬のように、しゅんとこうべを垂れた。 
 もうこれまでのように、翡翠は無為に世界を彷徨さまよう必要がなくなってしまった。何かしなければならないと追い立てられながら、どうすれば良いのか分からなかった日々は終わったのだ。 

 透国とうこく白虹はっこう皇子みこから与えられた事実が、翡翠を導いてくれた。 
 鍵となるのは、――相称の翼。 
 目に見えないところで、何かが動き始めている。 

「翡翠様は……」 

 珍しく言いよどんでいる雪の声を聞いて、翡翠はゆっくりと伏せていた顔をあげた。目の前に立っている雪は、視線があうと取り繕うように笑みを浮かべる。 
 翡翠が問いかけようとするより早く、彼女が口を開いた。 

「先ほど、みどりいん碧宇へきう王子おうじ金域こんいきよりお戻りになられました」 
「兄上が?」 

 翡翠の脳裏は、一瞬で新たな知らせに埋め尽くされる。 
 透国とうこくから戻った翡翠達と入れ違いに発った父王と兄。 
 継承権第一位の真名まなの献上。 

 二人はその黄帝の勅命ちょくめいを受けて、金域にある黄帝の宮まで出向いて行ったのだ。 
 久しぶりに各国の王が後継者を連れて、黄帝の御前に集うことになる。 
 兄である碧宇へきうの真名献上が果たされてしまったのかと、翡翠は再び不安が頭をもたげてきた。 

 勅命に従う前、各国の王の間では密やかに談合が成されていた。 
 いにしえのような黄帝の威光が失われつつある今、後継者の真名献上を快諾する国はない。黄帝の思惑が、見せかけの忠誠を繋ぎとめる手段に見えてしまう。 
 翡翠は帰国した碧宇に聞きたいことが山のようにあった。
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