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第二話 偽りの玉座
肆章:三 思い入れ2
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「たしかに、それは名案ですね」
書物の蔵のように荒れ果てた宮殿内を思い返して、翡翠は思わず呟いてしまう。
「だけど、清香さんは怖くないかしら」
雪がすぐに問題点を指摘する。
「誰よりも鬼を恐れる彼女が、ここにいる黒鳥に耐えられるかしら」
「そういえば……」
翡翠もすぐに黒鳥の存在を思い出した。今は雪が室内から追い出していて姿が見えない。害はないと理解出来ても、その姿を目にするだけで込み上げてしまう嫌悪感はどうしようもない。時間をかけて慣れるしかないだろう。
清香は表情を強張らせている。しばらく逡巡してから、覚悟を決めたのだろうか。悩み続けている皇子を毅然とした面持ちで見上げて、床に両手をついた。
「白虹様、私のような者でよろしければ、どうぞ何なりとお申し付けください」
はっきりと述べて、彼女はその場に平伏した。皇子は驚いたように動きを止めていたが、すぐに清香の前に膝をついて、再びその痩せた手を取った。
「では、清香。どうかよろしくお願いします」
白虹の皇子は、臣従として仕えると決意した清香の思いを正しく受け止めたようだった。何となく一段落したという空気が流れると、雪が明るい声を出す。
「翡翠様、お腹が空きませんか?」
「そう言えば、朝から何も食べてなかったかも」
張り詰めていた緊張が、雪の一言で緩んでしまう。翡翠は途端に空腹を感じて腹部に掌を当てた。白虹の皇子が立ち上がって、打ち解けた笑みを浮かべる。
「王子も雪も、白亜も清香も疲れているでしょう。私が何か用意しましょう」
「ええっ?」「そんなことは私がいたしますっ」
翡翠が清香と同時に声を上げると、雪は二人を宥めるように笑顔を向ける。立ち上がると、ひらりと袖を一振りして、兄皇子の背中を叩いた。
「大兄、私も手伝います」
「お待ちください、玉花様。私は今こちらで仕えると申しました」
慌てて立ち上がった清香を見て、雪は難しい顔をする。
「清香さんは、まず体を労わるべきです。逃げるだけの生活でくたくたの筈だもの」
「いいえ。たしかに姿はすっかり痩せ衰えておりますが、こう見えても体力には自信があります。ここに来る道中で、白亜がとても待遇良くしてくれました。それだけで回復するには充分です」
雪に劣らず、清香も気の強い性格をしているのかもしれない。向かい合っている二人のやりとりを見ていると、翡翠は可笑しくなった。雪は難しい顔をしたまま清香の訴えを聞いていたが、やがて何かを思いついたらしく、ぽんと手を打った。
「じゃあ、清香さんはまず着替えましょう。その間に大兄が何か用意して下さるでしょう」
「あの、ですから玉花様」
戸惑う清香の腕を引っ張って歩き出しながら、雪は翡翠を振り返った。
「翡翠様と白亜は、しばらくここで寛いでいて下さい」
「うん、了解」
「わかりました」
翡翠がひらひらと手を振ると、雪は恐縮しまくっている清香を連れて部屋を出た。白虹の皇子が後に続く。
「では、私もしばらく席を外します」
三人が出て行くと、室内が急に静かになる。しんと満ちた沈黙は穏やかで、翡翠は大きく腕を振り上げて伸びをしてから、はたと白亜に目を向ける。視線が合うと、彼は巨体に似合わず人懐こく微笑んだ。
翡翠の中で、さっき感じた引っ掛かりが頭をもたげてくる。
白虹の皇子の抱える思い。
禍である闇呪に対して、不自然な思い入れがあるような気がしたのだ。
そこに繋がる何かを、白亜は知っているのかもしれない。
「あのさ、白亜殿」
「白亜でよろしいですよ。翡翠様、私は堅苦しいのは好きではありません」
「うん。じゃあ、白亜に聞きたいことがあるんだけど……」
どんなふうに尋ねるべきか言葉をさがしていると、白亜は先を促すように笑う。
「私で良かったら、何なりと」
「さっき、白虹の皇子の話を聞いて感じたんだけど。彼は禍である闇呪に対して、悪い印象を持っていないように思うんだ」
白亜は答える代わりに、頷いてみせた。
「清香の語る体験は、どう考えても闇呪の仕業だと考えられる。あれだけの事実を知っても、彼は闇呪の主の潔白を信じていたいようだった」
「はい。翡翠様がそう感じたことは、間違っておられないでしょう」
「だけど、白虹の皇子は闇呪の主に会ったことはないと言っていたよね。会った事もないのに、どうしてだろう」
「会った事がないと言うのは、正しいようで正しくないのかもしれません」
翡翠は意味がつかめず首を捻る。
「白虹様には想いを捧げた女性がいました。あの方はその女性にまつわる思い出に縛られているのです」
「その思い出に、闇呪の主が関わっているということ?」
白亜は横に首を振った。
「それが何者だったのか、私にも白虹様にもわからない。けれど、そんな事が出来るのは、この世に闇呪の主しか考えられない」
「そんな事って、――白亜はその出来事を知っているの?」
「知っています。白虹様が想いを捧げたのは、私の妹でしたから」
静かに語られた事実に、翡翠は何と答えれば良いのか判らなかった。皇子の愛した女性はこの宮にはいない。それが示す意味を考えると、その想いの行方について、簡単に問い返していいのか分からない。
白亜の妹であるならば、それは当然地界の女である筈だ。一方、白虹の皇子は天籍を与えられた、透の第一王子。縁を結ぶことが不可能だとは言わない。
そんな先例は各国にある。地界のものが後に天籍に入ることは珍しくない。礼神と真名をもつことは出来ないが、天界で生きるための寿命はそれで得ることが出来る。
王に仕える臣下にも後天的に天籍を与えられた者は多い。与えられた天籍は与えた者によって剥奪することができた。生まれながらの天籍は決して動かすことが出来ず、礼神と真名を与えられるが、そんなふうに生粋の天籍を持つ者は天界でも半数に満たない。
「白亜、あの……」
翡翠は逡巡したが、思い切って白亜に訊いた。
「何があったのか、聞いてもいいかな」
彼は嫌な顔をする事もなく頷いた。
書物の蔵のように荒れ果てた宮殿内を思い返して、翡翠は思わず呟いてしまう。
「だけど、清香さんは怖くないかしら」
雪がすぐに問題点を指摘する。
「誰よりも鬼を恐れる彼女が、ここにいる黒鳥に耐えられるかしら」
「そういえば……」
翡翠もすぐに黒鳥の存在を思い出した。今は雪が室内から追い出していて姿が見えない。害はないと理解出来ても、その姿を目にするだけで込み上げてしまう嫌悪感はどうしようもない。時間をかけて慣れるしかないだろう。
清香は表情を強張らせている。しばらく逡巡してから、覚悟を決めたのだろうか。悩み続けている皇子を毅然とした面持ちで見上げて、床に両手をついた。
「白虹様、私のような者でよろしければ、どうぞ何なりとお申し付けください」
はっきりと述べて、彼女はその場に平伏した。皇子は驚いたように動きを止めていたが、すぐに清香の前に膝をついて、再びその痩せた手を取った。
「では、清香。どうかよろしくお願いします」
白虹の皇子は、臣従として仕えると決意した清香の思いを正しく受け止めたようだった。何となく一段落したという空気が流れると、雪が明るい声を出す。
「翡翠様、お腹が空きませんか?」
「そう言えば、朝から何も食べてなかったかも」
張り詰めていた緊張が、雪の一言で緩んでしまう。翡翠は途端に空腹を感じて腹部に掌を当てた。白虹の皇子が立ち上がって、打ち解けた笑みを浮かべる。
「王子も雪も、白亜も清香も疲れているでしょう。私が何か用意しましょう」
「ええっ?」「そんなことは私がいたしますっ」
翡翠が清香と同時に声を上げると、雪は二人を宥めるように笑顔を向ける。立ち上がると、ひらりと袖を一振りして、兄皇子の背中を叩いた。
「大兄、私も手伝います」
「お待ちください、玉花様。私は今こちらで仕えると申しました」
慌てて立ち上がった清香を見て、雪は難しい顔をする。
「清香さんは、まず体を労わるべきです。逃げるだけの生活でくたくたの筈だもの」
「いいえ。たしかに姿はすっかり痩せ衰えておりますが、こう見えても体力には自信があります。ここに来る道中で、白亜がとても待遇良くしてくれました。それだけで回復するには充分です」
雪に劣らず、清香も気の強い性格をしているのかもしれない。向かい合っている二人のやりとりを見ていると、翡翠は可笑しくなった。雪は難しい顔をしたまま清香の訴えを聞いていたが、やがて何かを思いついたらしく、ぽんと手を打った。
「じゃあ、清香さんはまず着替えましょう。その間に大兄が何か用意して下さるでしょう」
「あの、ですから玉花様」
戸惑う清香の腕を引っ張って歩き出しながら、雪は翡翠を振り返った。
「翡翠様と白亜は、しばらくここで寛いでいて下さい」
「うん、了解」
「わかりました」
翡翠がひらひらと手を振ると、雪は恐縮しまくっている清香を連れて部屋を出た。白虹の皇子が後に続く。
「では、私もしばらく席を外します」
三人が出て行くと、室内が急に静かになる。しんと満ちた沈黙は穏やかで、翡翠は大きく腕を振り上げて伸びをしてから、はたと白亜に目を向ける。視線が合うと、彼は巨体に似合わず人懐こく微笑んだ。
翡翠の中で、さっき感じた引っ掛かりが頭をもたげてくる。
白虹の皇子の抱える思い。
禍である闇呪に対して、不自然な思い入れがあるような気がしたのだ。
そこに繋がる何かを、白亜は知っているのかもしれない。
「あのさ、白亜殿」
「白亜でよろしいですよ。翡翠様、私は堅苦しいのは好きではありません」
「うん。じゃあ、白亜に聞きたいことがあるんだけど……」
どんなふうに尋ねるべきか言葉をさがしていると、白亜は先を促すように笑う。
「私で良かったら、何なりと」
「さっき、白虹の皇子の話を聞いて感じたんだけど。彼は禍である闇呪に対して、悪い印象を持っていないように思うんだ」
白亜は答える代わりに、頷いてみせた。
「清香の語る体験は、どう考えても闇呪の仕業だと考えられる。あれだけの事実を知っても、彼は闇呪の主の潔白を信じていたいようだった」
「はい。翡翠様がそう感じたことは、間違っておられないでしょう」
「だけど、白虹の皇子は闇呪の主に会ったことはないと言っていたよね。会った事もないのに、どうしてだろう」
「会った事がないと言うのは、正しいようで正しくないのかもしれません」
翡翠は意味がつかめず首を捻る。
「白虹様には想いを捧げた女性がいました。あの方はその女性にまつわる思い出に縛られているのです」
「その思い出に、闇呪の主が関わっているということ?」
白亜は横に首を振った。
「それが何者だったのか、私にも白虹様にもわからない。けれど、そんな事が出来るのは、この世に闇呪の主しか考えられない」
「そんな事って、――白亜はその出来事を知っているの?」
「知っています。白虹様が想いを捧げたのは、私の妹でしたから」
静かに語られた事実に、翡翠は何と答えれば良いのか判らなかった。皇子の愛した女性はこの宮にはいない。それが示す意味を考えると、その想いの行方について、簡単に問い返していいのか分からない。
白亜の妹であるならば、それは当然地界の女である筈だ。一方、白虹の皇子は天籍を与えられた、透の第一王子。縁を結ぶことが不可能だとは言わない。
そんな先例は各国にある。地界のものが後に天籍に入ることは珍しくない。礼神と真名をもつことは出来ないが、天界で生きるための寿命はそれで得ることが出来る。
王に仕える臣下にも後天的に天籍を与えられた者は多い。与えられた天籍は与えた者によって剥奪することができた。生まれながらの天籍は決して動かすことが出来ず、礼神と真名を与えられるが、そんなふうに生粋の天籍を持つ者は天界でも半数に満たない。
「白亜、あの……」
翡翠は逡巡したが、思い切って白亜に訊いた。
「何があったのか、聞いてもいいかな」
彼は嫌な顔をする事もなく頷いた。
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