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第二話 偽りの玉座
肆章:二 思い入れ1
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「それからは、ずっと地界を彷徨いました」
白虹の皇子は眉間に皺を刻んだまま、清香の声に耳を傾けている。翡翠は彼女の身に起きた不幸を痛ましく思うが、それ以上に、相称の翼を巡る事実が胸に重くのしかかっていた。
呪を以って鬼を制するのは、この世にただ一人。
天帝に、あるいは相称の翼に滅ぼされる宿命を負った禍――闇呪。彼にだけは、相称の翼に関わった者を殺める理由がある。冷酷で残忍な気性を持つのならば、その凶行を成し遂げるだけの非情さも持ち合わせているだろう。
白虹の皇子は深く吐息をつくと、俯いていた顔をあげて清香を見た。
「地界にも、あなたを狙う追手はありましたか」
清香はためらわずに頷いた。皇子はますます眉間に深く皺を刻む。
「皇子様、それが天階に続く門前で見た者と繋がるのかは判りません。けれど、黒い陽炎のような者が、後を追ってくるように必ず現れて、私はその度に逃げ出しました」
「黒い陽炎? 鬼ですか」
「そうだと思います」
皇子は思うことがあるのか、長い指で顎を掴むようにして、しばらく押し黙る。やがて気を取り直したように、清香に問う。
「それは追って来るだけで、あなたを狩ろうと襲い掛かってくることはなかったのですか」
「はい。――今思えば、私を葬るための追手ではなかったのかもしれません。……私の恐れが見せていた幻だったのかも……」
皇子は労わるように頷いて見せただけだった。翡翠にも、逃げ続けなければならなかった清香の恐れは想像がついた。例え自身の恐れが作り上げた幻覚に怯えていたとしても、これまでの体験を考えれば無理もない。
「追手の是非はともかく、犠牲となった者が黒い骸となったことは事実ですし。あなたが天階で見たことも事実です。――信じたくはありませんが、なかったことには出来ない」
皇子が再び苦渋に顔を歪める。翡翠は思い切って、自身の考えを打ち明けた。
「皇子、どう考えても既に何かが仕掛けられているように思います」
「――そうですね」
答える皇子の声も暗い。
いつも気丈な雪がさすがに顔色を失くしている。翡翠は皓月から身を離すと、彼女に歩み寄ってそっと白い手を取った。
「雪、大丈夫?」
触れた雪の手先がひやりと冷たい。翡翠が強く握り締めると、掌から伝わる温もりに慰められたのか、彼女はいつもの笑顔を取り戻した。
「大丈夫です、翡翠様」
翡翠は小柄な雪を抱きしめてあげたい気がしたが、兄皇子である白虹や白亜達の視線を気にして思いとどまった。仕方なく隣に牀子を引き寄せて座る。
雪は自身を落ち着けるように深く息をついて、兄皇子を見た。
「大兄。清香さんが天階で見た者は、やはり闇呪の主ではないかしら」
翡翠も雪の意見をもっともだと思う。誰が考えても、たどり着く結論は同じだろう。けれど、白虹の皇子は困ったように笑う。
「たしかに、誰が聞いてもそう思うだろうね」
まるで違うと言いたげな皇子の様子に、翡翠は少なからず驚いてしまう。雪も訝しげに首を傾けている。
「大兄は、今までの一連の出来事は、闇呪の主の仕業ではないと考えているの?」
「いや、玉花。誰が聞いても、闇呪の君――彼の仕業であることは疑いようがない」
言葉とは裏腹に、皇子はどこか含んだ物の言い方をする。まるで何かを辿るように目を閉じていた。
「だけど、大兄の言い方では、そうではないと言いたげに聞こえます」
「……そうかもしれないね。けれど、この世に呪を以って鬼を制するのは、闇呪の君だけです。そのように決められている」
翡翠にも、その覆せない掟は理解できる。先守の占いに虚偽は許されない。その先守がはっきりとそう明言したのだ。
――禍。この世にただ独り、呪を以って鬼を制する。
呪鬼は礼神と相反する力であると言われる。どのような方法をもってしても、天界の者が手に入れられる力ではない。それは天意の定めた理だと言える。
雪が眉根を寄せて、食い入るように兄皇子を眺めている。
「違うと――、大兄は違うと言いたいのですか。呪を以って鬼を制するのは、闇呪の君だけではないと?」
しんとその場に沈黙が落ちた。随分と間があってから、皇子が小さく頷いた。
「私は、そう思いたいのかもしれない」
「どうしてですか?」
「私がそう考えることに、大きな意味や裏づけがあるわけではないよ。先守の占いは絶対だからね。これは私のとても個人的な感想に過ぎない」
触れられたくない出来事があるように、皇子の口調はどこか雪を突き放した調子だった。かける言葉を失った雪の代わりに、翡翠が口を開く。
「皇子は闇呪の君とお会いになったことがあるのですか」
「――ありません」
皇子の声は明瞭で、嘘をついているとも思えない。翡翠が戸惑っていると、ふと傍らで皇子を眺めている白亜の眼差しに気がついた。労わるような色を浮かべて、彼は皇子の品のある横顔を見つめている。
翡翠はそこに何か深い意味合いがあるような気がしたが、今ここで白亜を問いただす勇気はなかった。白虹の皇子は気を取り直したように笑みを浮かべて、真向かいの清香に頭を下げた。
「清香さん。思い出したくない体験を話していただき、本当に感謝します。これからは私の宮で自由に過ごされるといい。雑然としていますが、宮には私の礼によって、神をはりめぐらせてあります。あなたを狙う追手にとっては、結界となるでしょう。それでも護りきれるのかは判りませんが、できるだけの事はします」
翡翠も雪も、何よりも当人である清香が、一番皇子の申し出に驚いたに違いない。ただ一人白亜だけは、当然の成り行きのように様子を見守っている。
「皇子様、それは、私にはあまりに恐れ多い申し出です。それほどの庇護を受ける理由がありません」
翡翠には清香がためらうのも頷ける。滄の宮城に勤めていた彼女ならば、王族である皇子の宮で自由に過ごすことが、どういう立場を表していたのかを知っている筈である。
皇子もようやく、それが妃に等しいという扱いに気がついたのか、困ったように口元に手を当てる。
「あなたに教えていただいた事実は、私にとって、世の衰退を解き明かすための重要な鍵だと言っても過言ではありません。報酬はあって然るべきだと思うのですが」
清香は言葉もなく、強く首を横に振る。翡翠には貴重な情報を得たという皇子の思いもわかるが、戸惑う清香の思いもわかる。
傍らで皓月が大きな欠伸と共に長い尾を震わせた時、皇子は名案を思いついたらしく、小さくなっている清香を見た。
「では、――どうでしょう。この私の宮には世話をしてくれる者が一人もいない。白亜には外回りを任せていますし。これからは、この宮の世話をしていただけないでしょうか」
白虹の皇子は眉間に皺を刻んだまま、清香の声に耳を傾けている。翡翠は彼女の身に起きた不幸を痛ましく思うが、それ以上に、相称の翼を巡る事実が胸に重くのしかかっていた。
呪を以って鬼を制するのは、この世にただ一人。
天帝に、あるいは相称の翼に滅ぼされる宿命を負った禍――闇呪。彼にだけは、相称の翼に関わった者を殺める理由がある。冷酷で残忍な気性を持つのならば、その凶行を成し遂げるだけの非情さも持ち合わせているだろう。
白虹の皇子は深く吐息をつくと、俯いていた顔をあげて清香を見た。
「地界にも、あなたを狙う追手はありましたか」
清香はためらわずに頷いた。皇子はますます眉間に深く皺を刻む。
「皇子様、それが天階に続く門前で見た者と繋がるのかは判りません。けれど、黒い陽炎のような者が、後を追ってくるように必ず現れて、私はその度に逃げ出しました」
「黒い陽炎? 鬼ですか」
「そうだと思います」
皇子は思うことがあるのか、長い指で顎を掴むようにして、しばらく押し黙る。やがて気を取り直したように、清香に問う。
「それは追って来るだけで、あなたを狩ろうと襲い掛かってくることはなかったのですか」
「はい。――今思えば、私を葬るための追手ではなかったのかもしれません。……私の恐れが見せていた幻だったのかも……」
皇子は労わるように頷いて見せただけだった。翡翠にも、逃げ続けなければならなかった清香の恐れは想像がついた。例え自身の恐れが作り上げた幻覚に怯えていたとしても、これまでの体験を考えれば無理もない。
「追手の是非はともかく、犠牲となった者が黒い骸となったことは事実ですし。あなたが天階で見たことも事実です。――信じたくはありませんが、なかったことには出来ない」
皇子が再び苦渋に顔を歪める。翡翠は思い切って、自身の考えを打ち明けた。
「皇子、どう考えても既に何かが仕掛けられているように思います」
「――そうですね」
答える皇子の声も暗い。
いつも気丈な雪がさすがに顔色を失くしている。翡翠は皓月から身を離すと、彼女に歩み寄ってそっと白い手を取った。
「雪、大丈夫?」
触れた雪の手先がひやりと冷たい。翡翠が強く握り締めると、掌から伝わる温もりに慰められたのか、彼女はいつもの笑顔を取り戻した。
「大丈夫です、翡翠様」
翡翠は小柄な雪を抱きしめてあげたい気がしたが、兄皇子である白虹や白亜達の視線を気にして思いとどまった。仕方なく隣に牀子を引き寄せて座る。
雪は自身を落ち着けるように深く息をついて、兄皇子を見た。
「大兄。清香さんが天階で見た者は、やはり闇呪の主ではないかしら」
翡翠も雪の意見をもっともだと思う。誰が考えても、たどり着く結論は同じだろう。けれど、白虹の皇子は困ったように笑う。
「たしかに、誰が聞いてもそう思うだろうね」
まるで違うと言いたげな皇子の様子に、翡翠は少なからず驚いてしまう。雪も訝しげに首を傾けている。
「大兄は、今までの一連の出来事は、闇呪の主の仕業ではないと考えているの?」
「いや、玉花。誰が聞いても、闇呪の君――彼の仕業であることは疑いようがない」
言葉とは裏腹に、皇子はどこか含んだ物の言い方をする。まるで何かを辿るように目を閉じていた。
「だけど、大兄の言い方では、そうではないと言いたげに聞こえます」
「……そうかもしれないね。けれど、この世に呪を以って鬼を制するのは、闇呪の君だけです。そのように決められている」
翡翠にも、その覆せない掟は理解できる。先守の占いに虚偽は許されない。その先守がはっきりとそう明言したのだ。
――禍。この世にただ独り、呪を以って鬼を制する。
呪鬼は礼神と相反する力であると言われる。どのような方法をもってしても、天界の者が手に入れられる力ではない。それは天意の定めた理だと言える。
雪が眉根を寄せて、食い入るように兄皇子を眺めている。
「違うと――、大兄は違うと言いたいのですか。呪を以って鬼を制するのは、闇呪の君だけではないと?」
しんとその場に沈黙が落ちた。随分と間があってから、皇子が小さく頷いた。
「私は、そう思いたいのかもしれない」
「どうしてですか?」
「私がそう考えることに、大きな意味や裏づけがあるわけではないよ。先守の占いは絶対だからね。これは私のとても個人的な感想に過ぎない」
触れられたくない出来事があるように、皇子の口調はどこか雪を突き放した調子だった。かける言葉を失った雪の代わりに、翡翠が口を開く。
「皇子は闇呪の君とお会いになったことがあるのですか」
「――ありません」
皇子の声は明瞭で、嘘をついているとも思えない。翡翠が戸惑っていると、ふと傍らで皇子を眺めている白亜の眼差しに気がついた。労わるような色を浮かべて、彼は皇子の品のある横顔を見つめている。
翡翠はそこに何か深い意味合いがあるような気がしたが、今ここで白亜を問いただす勇気はなかった。白虹の皇子は気を取り直したように笑みを浮かべて、真向かいの清香に頭を下げた。
「清香さん。思い出したくない体験を話していただき、本当に感謝します。これからは私の宮で自由に過ごされるといい。雑然としていますが、宮には私の礼によって、神をはりめぐらせてあります。あなたを狙う追手にとっては、結界となるでしょう。それでも護りきれるのかは判りませんが、できるだけの事はします」
翡翠も雪も、何よりも当人である清香が、一番皇子の申し出に驚いたに違いない。ただ一人白亜だけは、当然の成り行きのように様子を見守っている。
「皇子様、それは、私にはあまりに恐れ多い申し出です。それほどの庇護を受ける理由がありません」
翡翠には清香がためらうのも頷ける。滄の宮城に勤めていた彼女ならば、王族である皇子の宮で自由に過ごすことが、どういう立場を表していたのかを知っている筈である。
皇子もようやく、それが妃に等しいという扱いに気がついたのか、困ったように口元に手を当てる。
「あなたに教えていただいた事実は、私にとって、世の衰退を解き明かすための重要な鍵だと言っても過言ではありません。報酬はあって然るべきだと思うのですが」
清香は言葉もなく、強く首を横に振る。翡翠には貴重な情報を得たという皇子の思いもわかるが、戸惑う清香の思いもわかる。
傍らで皓月が大きな欠伸と共に長い尾を震わせた時、皇子は名案を思いついたらしく、小さくなっている清香を見た。
「では、――どうでしょう。この私の宮には世話をしてくれる者が一人もいない。白亜には外回りを任せていますし。これからは、この宮の世話をしていただけないでしょうか」
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