シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜

長月京子

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第一話 天落の地

第5章:5 形になる悪意

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「待って、先生」 

 朱里あかりは慌てて後を追うが、室内に立ち込めたおりのような暗さに思わず息を止めた。胸が塞いで、息がつまるほど空気が重い。足元に目を向けると、保健医が倒れている。 

 こんな室内に閉じ込められれば、誰だって気を失う。朱里は顔を顰めながらそう思ったが、視界の端に映った影ですぐに我に返った。 

「先生、何をするつもりですか」 

 おもりを飲み込んだように体が重たかったが、朱里は懸命に二人の間に駆け込んだ。 

「やめてっ」 

 叫ぶのと、振り下ろされた刀身とうしんの先が動きを止めるのが同時だった。朱里はすぐ目の前に迫った刃にひやりとしたが、意志を奮い立たせてはるかを見上げた。背後では、震えている夏美の気配を感じる。 

「これは夏美のせいじゃない」 
退くんだ、朱里」 
「嫌です。先生は間違えています」 

 伝える間にも、朱里はおりのようにこごった何かが、周りで影となって立ち上がるのを感じる。 

(憎い、憎い) 

 重い気持ちが胸に沈んでいく。 

「……朱里、いいの。私、もう消えてしまいたい」 

 夏美の小さな声が、背後で弱々しく訴えた。 

「私のせいなの。私の思いが、佐和さわに怪我をさせた」 
夏美なつみ、何を言っているの?」 

 背中に触れた夏美の掌が、朱里の上着を強く握り締めるのが伝わってくる。 

「私、とても嫌な子だから。心の中が醜くて、だから、こんなことに」 
「そんなことないよ」 
「――はじめは、ただ羨ましかっただけなのに。そんなふうになれない自分が、悔しくて。走り回れる佐和が、妬ましくて。……友達なのに、私……」 

 夏美の言葉が嗚咽に変わる。朱里はどんなふうに言葉をかければいいのか判らない。 
 全てが夏美の抱えていた暗い感情の発露。 

 人を妬み、憎む気持ち。 
 確かにそれは、気持ちのよい心のありようではない。 
 ないけれど。 

「彼女も成り行きが判っているんだ、朱里。退きなさい」 
「朱里、どいて」 
「嫌っ」 

 暗い感情。それを抱くことが過ちならば。 

(私だって、同じだ) 

 咎人とがびとはここにもいる。それは夏美だけじゃない。 
 誰だって、胸の中にねたみやそねみを抱えている。人を憎んだり、呪ったり、日々の中にそんな感情は絶え間なく渦巻いていて、戦っている。 

「絶対にやだ。だって、そんなの私だって同じだもん。もてる夏美のことが羨ましくて、その可愛さを妬んだり、佐和の運動神経を妬んだり。そんなことは、誰だってあるし。それに、夏美はそんな心ばっかりの子じゃないって知っているから、絶対に嫌だ、ここはどかない」 

 上着を握り締める夏美の手に、ぎゅうっと力がこもった。朱里は無我夢中で、思いを言葉にする。 

「夏美は、私のことをおにじゃないって。瞳の色を綺麗だって、はじめてそう言ってくれた子だから。同情でも、単なる励ましでも、私はすごく救われた」 

 無我夢中で、朱里は自分でも何を言っているのか訳がわからない。それでも、夏美は大切な友人なのだ。それだけは間違いがなかった。今だって、自分の犯した罪を悔いて泣いている。 

 心に悪意を抱くことは、誰にだってある。 
 もし考えるだけで、思うだけで、その悪意が全て形になってしまったのなら、それは悲劇以外の何物でもない。思うことと形にすることには、大きな隔たりがあるのだ。 
 その境界がなくなってしまったら、誰だって凶行を止める術を持たないだろう。 

 誰も羨まず、妬まず、何も呪わずに過ごすことなど出来はしない。 
 悪意を知らなければ、きっと人の思いやりに触れて涙することもできないのだ。 

 一対で与えられる想い。 
 羨望と嫉妬。喜びと哀しみ。 
 補いあう世界。 
 光と影。表と裏。 

「先生、夏美が罰を受けるなら、私も一緒に罰を受けます。二人一緒に刺し貫いてくださいっ」 

 いつの間にか溢れ出ていた涙で、遥の顔が揺らめいている。彼の表情が歪んで、朱里には彼の感情がつかめなかった。 

「無茶苦茶だな」 

 遥の深い溜息が聞こえた。 

「――君に泣かれると、どうすればいいのか判らない」 

 彼は刀剣から手を離すと、指先で朱里の眼鏡に触れて外す。そっと、彼の長い指が頬に触れた。労わるように朱里の涙を拭う。 

「先生?」 

 彼はもう一度溜息をつくと、降参したように眼鏡を外した。 

「君に甘いな、私は」 

 ようやく素顔を見せて、苦虫を噛み潰したように顔を顰める。 

「これだけは避けたかったが……、仕方がない」 

 彼は何か覚悟を決めたのか、朱里の背後で震えている夏美を見た。朱里は辺りを見て思わず息を呑む。室内に淀む澱のような靄は密度を増して影となり、窺うように自分達を取り巻いている。ゆるゆると生き物のように外へも這い出そうとしていた。 

「この場は私の守護しゅごに託す。後のことは問題なく片付けてくれるだろう」 
「え?」 

 状況が把握できないが、どうやら夏美を亡き者にすることは諦めたようだ。朱里は少しだけ緊張が緩む。保健室の片隅で、彼方が顔色を失くしたまま、こちらを窺っていることに気付いた。影に阻まれて身動きがままならないようにも見える。 

 朱里は再び目前の遥を見た。彼は困ったように微笑んでから、朱里にも聞き慣れた名を口にした。 

麒一きいち麟華りんか」 

 何かを問いかける間もなく、どこからか向かって来る風を感じた。辺りに満ちたもやとは比べようのない艶やかな漆黒が、舞うように視界を阻む。朱里が咄嗟に瞬きをすると、いつの間に現れたのか、兄の麒一と姉の麟華の姿があった。 

「猶予がないので説明は省くが、あとは任せた」 
「――かしこまりました」 

 兄の麒一は無表情のまま、遥にこうべを垂れる。朱里は背後から麟華に体を抱かれた。 

「我が君の命をって、昇華する」 

 麒一の号令に従うように、どうっと激しい風が渦巻いた。朱里は思わず顔を背けて目を閉じる。麟華の細い腕が恐れる朱里を慰めるように、微塵も揺るがず抱きしめていてくれた。渦巻く風が自分を巻き込まないことが判ると、朱里はゆっくりと目を開けた。遥が行った時よりも乱暴に暗黒が渦を巻き、天井を突き抜けてゆく。無理矢理風に巻き上げられるような光景だった。 

 朱里は高く渦巻く闇の向こう側に、遥と夏美の姿を見る。彼の手には刀剣がなかったが、遥は小柄な夏美を追い詰めるように身を寄せ、手を伸ばすところだった。 

 夏美は素顔の遥を見て、それが副担任であるとは思ってもいないのだろう。この状況では、誰が現れても恐れてしまうのは仕方がない。小さな体が震えているのが、朱里には判る。 

(先生、どうする気だろう)

 朱里は一抹の不安に駆られながら、じっと二人を見守ってしまう。 
 遥の腕が夏美の体を捉えて抱き寄せる。強引な力で引きよれられて、夏美が小さく悲鳴をあげた。遥は有無を言わせず彼女のおとがいをつかみ、迷わず唇を重ねる。 

「先生っ」 

 予想外の展開に声をあげて駆け寄ろうとすると、姉の麟華がそれを阻止した。兄である麒一も佇んだまま、二人を見守っている。 

「はなしてよ、麟華」 
「駄目よ。……朱里、あの方に彼女の命を救ってと言ったのね」 

 麟華の口調は静かで哀しそうだった。辺りに淀んでいた影は、双子によって見事に払われている。朱里は傍らに彼方が歩み寄ってくるのを感じた。 

「あの方は朱里の望むことを叶えてくださる。だけどね、朱里。あの方を傷つけないでほしいの、お願いよ」 
「麟華?」 

 突然の懇願に朱里は戸惑うばかりだった。いつも明るい麟華には似合わない、弱い言葉。 
 すぐ隣で彼方かなたが立ち止まる。彼も遥と夏美を眺めたまま、それを止めることもなく眺めていた。まるで痛々しいものを見るように、眼差まなざしを歪めている。 

「……彼女はソウショウの翼じゃなかったのか。それにしても、こちらの悪意に触れるなんて、正気の沙汰じゃない」 

 彼方は朱里を振り返る。 

「委員長は、彼の何なの?」 
「え?」 
「噂では、容赦がないと聞いていたのに」 

 彼方の呟きは麟華の願いと等しく、朱里の中を空回りするだけだった。 
 長い口づけはまだ解けずに、遥は夏美を捕らえている。彼女の体からぐったりと力が抜けるまで、どの位の時間を費やしたのか。朱里には長く感じられた。 

 遥はようやく夏美を離して、ふらりと立ち上がる。自身の口元を強く掌で抑えて、何かをこらえるように固く目を閉じた。 
 朱里はその時になってようやく、彼の顔から滴り落ちる無数の冷や汗に気付く。 
 苦痛に表情を歪めて、彼はその場に膝をついた。 

「先生っ?」 

 何度駆け寄ろうとしても麟華が許してくれない。朱里は彼女に抱きとめられたまま、成す術もなく遥の苦しげな様子を見守ることしか出来なかった。 

「無理もない。……ありえない」 

 彼方かなたは恐ろしい光景だと言わんばかりに身を震わせた。 

「――っ」 

 小さく呻き、遥は床に手をついた。彼はこらえきれずに、ついに咳き込むようにして激しく吐き出した。 
 一瞬にして辺りを染めたのは、血の赤。 

 彼は自身が吐き出した血だまりの中に、力なく倒れこんだ。意識を失ったまま、身動き一つしない。 

「……嘘」 

 辺りを汚している血の色。美しい赤が場違いなくらい鮮やかだった。 
 朱里は渾身の力で、麟華の腕を振りほどく。ためらわず血だまりの中に倒れている遥に這い寄るようにして触れた。 

「――先生」 

 何の反応もない様子が、朱里の中に強烈な恐れを撒き散らした。 

「そんな……」 

 体を支配する小刻みな震えが、やむことなく競りあがってくる。カチカチと歯がなった。 
 朱里は喉が破れそうなくらい、高く絶叫した。
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