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第一話 天落の地
第5章:3 魂禍(こんか)1
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保健医の指示に従って、遥が夏美を寝台へ運んだ。朱里は彼の背後から覗き込むように、横になった夏美の様子を窺っていた。
保健医の説明によると、やはり夏美は地震の衝撃で気を失ってしまったようだ。大事には至らないと確信ができて、朱里は「良かった」と呟きながら副担任を仰いだ。
振り返った彼は無表情で、副担任を演じているときの微笑みが消えている。
朱里は戦慄を覚えたが、とりあえず夏美のことを保健医に託して保健室を出た。副担任である遥は、扉の前で会釈をしてから朱里の後に続く。
彼が保健室の扉を閉めるのを見届けてから、朱里は彼と向き合った。
「あれは、黒沢先生の仕業ですか」
彼は意図が分からないという顔をして、眼鏡を指で押し上げた。
「教室で昨日の黒い靄を見たんです」
遥にはそれだけで通じる筈である。理科室の前に現れた女子生徒を取り囲んでいた暗い影。朱里は思い返すだけで、どことなく寒気を催すほどだ。
分厚い眼鏡レンズを通して、遥の眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめている。朱里は教室で見た一部始終を事細かに彼に伝えた。
遥は納得したように、小さく頷く。
「そうか。では、彼は君を助けようとしたわけだ」
朱里を引き倒した彼方の行動を、遥も同じように受け止めたようだった。
「先生は彼の国のことを何か知っているんですか。彼方も先生と何か関係があるとか? 王子がどうだとか言っていたけれど、彼方は自分の生まれた国では王子様だったり?」
異国からの留学生である彼は、朱里にとってはそれだけで別世界の住人であるという錯覚があった。実は王子だったと明かされても、それほど驚きを感じない気がした。
「王子。そうだな。……それだけではないのかもしれないが、君にとってはそれでいいだろう。彼方=グリーンゲートだったかな。……呆れるほど単純な名前だ。まぁ、私も人の事は言えないが」
低く笑う遥は、やはり謎に包まれている。朱里は腑に落ちない。
「彼方と先生は昔からの知り合いですか。国に出入りしていて、彼の父親を知っているとか?」
重ねて問いかける朱里に、彼はいつもの微笑みを向けた。
「そんなことよりも、今は君の友達を始末することが先決だな」
「――は?」
朱里は何か聞き間違いをしたのかと、思わず聞き返してしまう。遥は立てた親指で平然と保健室の方を示す。
「彼女は生かしておけない」
「そんな、突然何を言い出すんですか」
「キに輪郭を与え、こちらの理を乱す。滑稽な姿をした女子生徒、生き物のように蠢く影。全て彼女の仕業だ。既に本人にも自覚があるだろう」
「だけど……」
朱里は縋りつくような夏美の表情を思い出した。
「だけど、彼女は助けてと言っていた。ちがうって、望んでいないって」
「そうだとしても、既に輪郭になっている。そして友人を傷つけた」
「夏美が?」
「そうだ。今朝、怪我をしていた友達がいただろう。そして、現れた影は彼女を狙っていた」
遥は的確に見抜いている。朱里はつながった事実を伝えられても、信じられない。
「でも、夏美が望んだことじゃないわ。昨日の女の子だって、助けてって、そればかり繰り返していた。助けを求めているのに、生かしておけないなんて、ひどいです」
「君がどう思おうと勝手だが、全て彼女の中に在ったものだ。キは強い呪いに触れなければ、輪郭になることはない」
「そんな筈ありません。夏美がこんなことを願う筈がない。動機がないです」
遥は目を閉じて、ただ横に首を振った。
「元凶は夏美じゃないでしょう?先生の言うキって、一体何ですか。それの仕業じゃないですか」
「キにこちらの字を当てるなら鬼。罪過によって闇に染まった魂魄。魂鬼、あるいは魂禍とも言う」
「じゃあ、夏美にとりついたソレを払うとか。昨日の理科室の時みたいに」
「鬼が彼女にとりついたわけじゃない。どちらかと言えば、彼女の思いが鬼にとりついたと考えたほうがいいな」
「とにかく、何でもいいから、夏美を救う方法はないんですかっ」
「――天宮さん」
遥はいきなり副担任に戻ると、口元に人差し指を立てるような仕草をする。朱里は咄嗟に自分の口を手で押さえた。静寂を取り戻すと、廊下にかすかな足音が響いている。人の気配を感じて振り返ると、再び異国からの留学生である彼方の姿があった。
「なるほどね。何となく判ったような気がする」
「彼方、どうしたの? 授業は?」
朱里は遥との会話が聞かれていたのかと緊張を取り戻す。彼方は真っ直ぐに副担任である遥を見つめたまま、律儀に朱里の問いに答えた。
「授業よりもこっちの方が重要」
「夏美のこと? 保健の先生は気を失っているだけで心配はいらないって」
「違うよ、委員長。そういうことじゃないんだよね。重要なのは、そこにいる副担任に化けた奴のことだよ」
「黒沢先生が? どうして?」
彼方がどこまで会話を聞いていたのかは判らない。我ながら白々しい芝居だと思ったが、朱里にはそんなふうに振る舞うことが精一杯だった。
彼方はうろたえる朱里とは対照的に、はっきりと答えた。
「ここからは委員長には判らないお話。なぜなら、僕の国に関わることだから」
「彼方の?」
保健医の説明によると、やはり夏美は地震の衝撃で気を失ってしまったようだ。大事には至らないと確信ができて、朱里は「良かった」と呟きながら副担任を仰いだ。
振り返った彼は無表情で、副担任を演じているときの微笑みが消えている。
朱里は戦慄を覚えたが、とりあえず夏美のことを保健医に託して保健室を出た。副担任である遥は、扉の前で会釈をしてから朱里の後に続く。
彼が保健室の扉を閉めるのを見届けてから、朱里は彼と向き合った。
「あれは、黒沢先生の仕業ですか」
彼は意図が分からないという顔をして、眼鏡を指で押し上げた。
「教室で昨日の黒い靄を見たんです」
遥にはそれだけで通じる筈である。理科室の前に現れた女子生徒を取り囲んでいた暗い影。朱里は思い返すだけで、どことなく寒気を催すほどだ。
分厚い眼鏡レンズを通して、遥の眼差しが真っ直ぐにこちらを見つめている。朱里は教室で見た一部始終を事細かに彼に伝えた。
遥は納得したように、小さく頷く。
「そうか。では、彼は君を助けようとしたわけだ」
朱里を引き倒した彼方の行動を、遥も同じように受け止めたようだった。
「先生は彼の国のことを何か知っているんですか。彼方も先生と何か関係があるとか? 王子がどうだとか言っていたけれど、彼方は自分の生まれた国では王子様だったり?」
異国からの留学生である彼は、朱里にとってはそれだけで別世界の住人であるという錯覚があった。実は王子だったと明かされても、それほど驚きを感じない気がした。
「王子。そうだな。……それだけではないのかもしれないが、君にとってはそれでいいだろう。彼方=グリーンゲートだったかな。……呆れるほど単純な名前だ。まぁ、私も人の事は言えないが」
低く笑う遥は、やはり謎に包まれている。朱里は腑に落ちない。
「彼方と先生は昔からの知り合いですか。国に出入りしていて、彼の父親を知っているとか?」
重ねて問いかける朱里に、彼はいつもの微笑みを向けた。
「そんなことよりも、今は君の友達を始末することが先決だな」
「――は?」
朱里は何か聞き間違いをしたのかと、思わず聞き返してしまう。遥は立てた親指で平然と保健室の方を示す。
「彼女は生かしておけない」
「そんな、突然何を言い出すんですか」
「キに輪郭を与え、こちらの理を乱す。滑稽な姿をした女子生徒、生き物のように蠢く影。全て彼女の仕業だ。既に本人にも自覚があるだろう」
「だけど……」
朱里は縋りつくような夏美の表情を思い出した。
「だけど、彼女は助けてと言っていた。ちがうって、望んでいないって」
「そうだとしても、既に輪郭になっている。そして友人を傷つけた」
「夏美が?」
「そうだ。今朝、怪我をしていた友達がいただろう。そして、現れた影は彼女を狙っていた」
遥は的確に見抜いている。朱里はつながった事実を伝えられても、信じられない。
「でも、夏美が望んだことじゃないわ。昨日の女の子だって、助けてって、そればかり繰り返していた。助けを求めているのに、生かしておけないなんて、ひどいです」
「君がどう思おうと勝手だが、全て彼女の中に在ったものだ。キは強い呪いに触れなければ、輪郭になることはない」
「そんな筈ありません。夏美がこんなことを願う筈がない。動機がないです」
遥は目を閉じて、ただ横に首を振った。
「元凶は夏美じゃないでしょう?先生の言うキって、一体何ですか。それの仕業じゃないですか」
「キにこちらの字を当てるなら鬼。罪過によって闇に染まった魂魄。魂鬼、あるいは魂禍とも言う」
「じゃあ、夏美にとりついたソレを払うとか。昨日の理科室の時みたいに」
「鬼が彼女にとりついたわけじゃない。どちらかと言えば、彼女の思いが鬼にとりついたと考えたほうがいいな」
「とにかく、何でもいいから、夏美を救う方法はないんですかっ」
「――天宮さん」
遥はいきなり副担任に戻ると、口元に人差し指を立てるような仕草をする。朱里は咄嗟に自分の口を手で押さえた。静寂を取り戻すと、廊下にかすかな足音が響いている。人の気配を感じて振り返ると、再び異国からの留学生である彼方の姿があった。
「なるほどね。何となく判ったような気がする」
「彼方、どうしたの? 授業は?」
朱里は遥との会話が聞かれていたのかと緊張を取り戻す。彼方は真っ直ぐに副担任である遥を見つめたまま、律儀に朱里の問いに答えた。
「授業よりもこっちの方が重要」
「夏美のこと? 保健の先生は気を失っているだけで心配はいらないって」
「違うよ、委員長。そういうことじゃないんだよね。重要なのは、そこにいる副担任に化けた奴のことだよ」
「黒沢先生が? どうして?」
彼方がどこまで会話を聞いていたのかは判らない。我ながら白々しい芝居だと思ったが、朱里にはそんなふうに振る舞うことが精一杯だった。
彼方はうろたえる朱里とは対照的に、はっきりと答えた。
「ここからは委員長には判らないお話。なぜなら、僕の国に関わることだから」
「彼方の?」
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