上 下
17 / 233
第一話 天落の地

第4章:5 混迷

しおりを挟む
 兄である麒一きいちと姉の麟華りんかは、午後十時を回っても帰宅していなかった。 
 朱里あかりは前もって二人から予告されていのたで心配はしていない。双子は互いに教職の集まりに参加するとかで、今日は少しばかり遠出しているはずなのだ。 

 朱里は一人で夕食をすませて、ぼんやりと過ごしながら双子の帰宅を待っていたが、一向に帰ってくる気配がなかった。 

 集会は久しぶりに出会う仲間との親睦の場でもあるのかもしれない。そのまま呑み会にでも誘われたのならば、二人とも戻ってくるのは深夜になるだろう。 

 朱里は今日一日で体験した様々なことを双子に聞いてもらいたかった。同時に副担任である黒沢くろさわはるかのことを教えてほしかったのだ。二人なら遥の抱える過去について少しは何かを知っているのかもしれない。朱里と彼の関わりも分かるのかもしれなかった。 

「早く帰ってこないかな」 

 朱里は板張りのリビングのソファに横になったままテレビを眺めていたが、十一時を回っても二人は帰ってこない。 
 これは間違いなく午前様になるのだろうと決めてかかって、朱里はソファから起き上がると浴室へ向かった。 
 佐和が手厚く巻いてくれた包帯をほどいて、手当てされた怪我を見てみる。 

「えっ?」 

 朱里は短く声をあげて、瞬きをした。 
 傷跡がなくなっているのだ。打撲の痣も見つけることが出来ない。 
 思わず目をこすってから、もう一度しげしげと怪我をしている筈だった腕を眺めてみる。 

(……治ってる) 

 手で触れても滑らかな肌があるだけだった。痛みも感じない。 
 一瞬、全てが思い違いだったのかと考えたが、洗面台にある包帯がこれまでの成り行きを証明してくれる。 

(これも、先生の仕業かな) 

 今日の出来事を思い返すと、それらしい場面があった。 
 朱里は浴槽に身を沈めて、もう一度怪我をしていた処に手を当てた。遥のせいなのだと考えた瞬間から、その治癒力についての不可解さはなくなっていた。常識では考えられないことに変わりはないのに、朱里は当たり前のように彼の力を受け入れている。 

 あの夜に初めて出会ってから、一週間も経っていない。 
 副担任として現れてからは、二日。 
 素顔を知って、考えられないような体験をしてからは、まだ半日しか経っていないのに。 

 この世界の法則では捉えきることのできない出来事、世界。 
 それは確かに在るのだと。 
 遥との出会いが、朱里に否応なく認めさせた。 
 朱里は浴槽の中で掌にすくった湯を、ぱしゃりと顔にかぶる。 

(早く帰ってこないかな、二人とも) 

 結局双子の帰宅が待ち遠しい。これ以上遥のことを考えていても堂々巡りするだけである。朱里は浴室を出ると、濡れた髪を拭いながら寝間着でぺたぺたと廊下を進んだ。 
 リビングからつけたままのテレビの音が漏れている。 
 同時に。 

「……疲れたわ」 
「私もだよ、麟華」 

(二人とも、帰って来たんだ)

 朱里はすぐに双子の声を聞き分けた。勢い良くリビングへ駆け込む。 

「おかえりなさい、麟華、麒一ちゃん」 

 盛大に迎えると、ぐったりとソファに沈み込んでいた二人がすぐに上体を起こして朱里を見た。 

「ただいま、朱里」 

 双子の声が綺麗に重なった。見たところ、呑んで帰って来たようではないが、二人とも色濃い疲労感を漂わせている。 

「どうしたの? すごく疲れてない?」 

 朱里が向かい側のソファに座ると、兄の麒一はいつものように微笑んでくれる。 

「色々と想定外のことが起きたからね。でも、それだけだよ。それよりも今日は朱里の周りや、学院内で何か変わったことが起きなかったかい?」 
「変わったことって……?」 

 突然言い当てられてどきりとしたが、朱里はすぐに打ち明けることはせず兄の様子を窺った。 

「何もなかったらいいんだよ」 

 麒一はそれだけで話題を締めくくろうとする。麟華は腕を組んで「あるわけないでしょう」と双子の兄を見た。 

「あの方がついていて、何かが起きる筈がないもの」 
「それもそうだね」 

 いつものように双子だけで通じ合う会話だったが、朱里は思い切って傍観者の立場をやめた。 

「ねぇ、あの方って誰?」 

 これまでは全く想像がつかず、朱里は学院の理事長である父親のことかと思っていたのだ。けれど、ふいに遥の存在がよぎった。まさかとは思ったが、双子に遥のことを尋ねるきっかけのようなものだ。朱里は閃いた当てずっぽうをそのまま口にした。 

「それって、もしかして黒沢先生のこと?……じゃないよね」 

 言いながらあまりの根拠のなさに、朱里は恥ずかしくなった。こんな処で遥のことを持ち出した自分が不自然に思えて仕方がなかったのだ。 
 思わず頬を染めてうろたえてしまう。 

「――?」 

 双子からは何の反応もない。朱里は顔を赤くしたまま上目遣いに二人を見た。双子は固められた蝋人形のように身動きせず朱里に注目している。 
 たっぷり十秒は沈黙があっただろうか。不気味な静寂を破ったのは、麟華の甲高い声だった。 

「何ですって?」 
「え?」 
「え? じゃないわよ、朱里。あなた、今誰の話をしたの?」 
「誰って、別に誰かの話をしたわけじゃ……」 
「ないとは言わせないわよ。はっきりとあの方のことを言ったわよね」 
「え? あの方って?」 

 あまりの姉の剣幕に、朱里はどう答えればいいのか分からない。ひたすら戸惑っていると、麒一が「少し落ち着きなさい、麟華」と一喝する。 

「順序だてて聞かないと、お互いに話が分からない。朱里、どうして黒沢先生だと思ったんだい?」 

 麒一に説明を求められて、朱里はようやく今日体験した出来事を二人に話した。副担任である遥との経緯も、全て包み隠さず語る。 

 朱里の話を聞いている間、双子の様子は不自然なくらいに対照的だった。麒一は大変な苦悩を抱えたという表情のまま動かず、一方、麟華は目を輝かせて溌剌とした表情でじっと朱里を見つめている。 
 自分の憶測も含めて、朱里が一通り双子に話し終えると、麒一は頭を抱えるようにして顔を伏せてしまった。 

「……何を考えているんだ、あの方は」 

 低い呟きが、恐ろしいくらい絶望的な響きをしている。朱里は気になったが、麟華は麒一の様子を気に留める様子もなく、嬉しそうに笑っている。 

「朱里、それであなたはどうなの? 主上しゅじょうをどう思うの?」 
「主上って?」 

 聞きなれない言葉に首を傾げると、麒一きいちの余裕のない声が響く。 

「言葉に気をつけろ、麟華りんか」 

 苛立たしげな麒一の様子にも怯まず、麟華は「はぁい」と軽く答える。 

「朱里は黒沢先生のことをどう思うの?」 

 姉に率直に聞かれて、朱里は思わず頬が染まった。 

「どうって言われても。……変装っぽくて怪しいし」 
「だけど、素顔はとびっきり男前でしょう?」 

 麟華は自慢げに笑っている。やはり双子は遥の素性を知っているのだ。 

「うん。まぁ、たしかに格好良いけど、でも不思議な処もあるし」 
「でしょ? 格好良いでしょ?」 

 後の台詞を聞いていたのかと突っ込みたいくらいに、麟華は一人で盛り上がっている。朱里は気を取り直して、双子に聞いた。 

「それよりも、麟華と麒一ちゃんは先生のこと知っているでしょう? 先生は私を知っているって言うけど、私は覚えていないの。だから、二人が昔のこと知っているなら、教えてほしいんだけど」 

 朱里が訴えると、麟華と麒一は顔を見合わせた。麒一の厳しい眼差しに負けたのか、麟華は何かを諦めたようだった。 

「私としては、教えてあげたいのは山々なんだけど」 

 麟華は不服そうに呟いて、麒一に発言を譲ったようだ。 

「朱里、残念ながら、私達は何も語れない」 

 何となくそんな気はしていた。朱里は「そっか」と肩を落として息をついた。 

「うん。ありがとう。二人には話を聞いてもらったから、それだけでも充分スッキリした。それに、そうだよね。黒沢先生が秘めておきたいことを暴くのは良くないよね」 

 双子の判断は正しいのだ。そう感じると、朱里もこれ以上を求める必要はないのだと言う気がしてくる。 
 今自分の知っている遥が全てなのだ。過去の経緯を知ったからと言って、これからが変わるわけではない。 

「じゃあ、最後にこれだけ。麟華は私に好きになってほしい人がいるって言っていたけど、それは黒沢先生のこと?」 

「そうよ」「違う」 

 双子の声が響きあった。麒一は厳しい眼差しを麟華に向けている。 

「誰が幸せになれる?」 
「今だけでも」 
「莫迦なことを言うな」 
「だけど、麒一。先のことなんて誰にも分からないわ。本当はあの方だって望んでいるはずよ」 
「本当にそう思っているのか、麟華」 

 麟華は唇を噛んで、俯いてしまう。麒一が吐き捨てるように呟いた。 

「――望むはずがない」 

 二人の間に重苦しい空気が流れている。いつもと同じ。朱里には分からない双子だけの世界。日常茶飯事に起きる兄妹喧嘩である筈なのに、麒一の呟きは朱里の胸にも重く沈んだ。 
 麒一は更に追い討ちをかけるように、朱里に告げる。 

「朱里は覚えていないけれど。これだけは教えておくよ。もし黒沢先生を好きになってしまったら、朱里はとても苦しむことになる」 
「どうして?」 

 思わず聞いてしまうと、麒一は迷ってから答えた。 

「……黒沢先生には、恋人がいるんだ」 
「ええっ?」 

 朱里は大袈裟なくらいに声をあげてしまう。 

「麒一、それは……」 

 麟華はうろたえているようだったが、朱里は想像もしていなかった事実を聞いて頭が真っ白になっていた。 
 遥の演じている副担任からは想像もつかないが、彼の年齢を考えれば恋人がいるのは当たり前である。心を許す相手ならば、きっと遥の素顔や正体を知っているに違いない。 

 衝撃を受ける、新しい事実だった。 
 そんなふうに心に決めた女性がありながら、彼は朱里のために尽くさなければならない。彼を縛り付ける理由。どんなに考えても朱里には分からない。 

 彼にかけられた見えない呪縛。 
 どうにかして解く方法はないのだろうか。 
 自分を守ると言った彼の言葉が苦い。 
 朱里は息苦しさを感じて、知らずに胸元を手で押さえていた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…

アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。 婚約者には役目がある。 例え、私との時間が取れなくても、 例え、一人で夜会に行く事になっても、 例え、貴方が彼女を愛していても、 私は貴方を愛してる。  ❈ 作者独自の世界観です。  ❈ 女性視点、男性視点があります。  ❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

犠牲の恋

詩織
恋愛
私を大事にすると言ってくれた人は…、ずっと信じて待ってたのに… しかも私は悪女と噂されるように…

幸せな番が微笑みながら願うこと

矢野りと
恋愛
偉大な竜王に待望の番が見つかったのは10年前のこと。 まだ幼かった番は王宮で真綿に包まれるように大切にされ、成人になる16歳の時に竜王と婚姻を結ぶことが決まっていた。幸せな未来は確定されていたはずだった…。 だが獣人の要素が薄い番の扱いを周りは間違えてしまう。…それは大切に想うがあまりのすれ違いだった。 竜王の番の心は少しづつ追いつめられ蝕まれていく。 ※設定はゆるいです。

【完結】あなたは知らなくていいのです

楽歩
恋愛
無知は不幸なのか、全てを知っていたら幸せなのか  セレナ・ホフマン伯爵令嬢は3人いた王太子の婚約者候補の一人だった。しかし王太子が選んだのは、ミレーナ・アヴリル伯爵令嬢。婚約者候補ではなくなったセレナは、王太子の従弟である公爵令息の婚約者になる。誰にも関心を持たないこの令息はある日階段から落ち… え?転生者?私を非難している者たちに『ざまぁ』をする?この目がキラキラの人はいったい… でも、婚約者様。ふふ、少し『ざまぁ』とやらが、甘いのではなくて?きっと私の方が上手ですわ。 知らないからー幸せか、不幸かーそれは、セレナ・ホフマン伯爵令嬢のみぞ知る ※誤字脱字、勉強不足、名前間違いなどなど、どうか温かい目でm(_ _"m)

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……

buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。 みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……

処理中です...