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第一話 天落の地

第3章:2 再会1

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 佐和さわと共に保健室の扉を叩いて、朱里あかりは出てきた人影に驚いてしまう。保健医の清潔感溢れた白衣とは違い、よれよれの白衣をざっくりと羽織っただけの副担任が顔を出したからだ。佐和も目を丸くしてから、すぐに問いかけた。 

「どうして黒沢くろさわ先生が保健室にいるんですか」 
「理科室から校庭を眺めていたら、どうやらクラスの生徒が怪我をしてやって来るようだったので」 
「それで、ここに?」 

 佐和が呆れたように尋ねると、彼は頷いた。渦を巻いたレンズの奥で、小さくなった瞳が笑っている。よれよれの白衣とまとまりのない癖毛の乱れがだらしないが、真っ直ぐにたたずむ姿勢は綺麗だった。朱里は思わず抜け道で出会った男の面影を探してしまう。 

 副担任の黒沢遥くろさわ はるかは朱里の眼差しを受け止めて、不自然に肩をすくめた。真っ直ぐに伸びていた背筋が途端に丸くなる。どちらが彼の本来の姿勢なのかは判断がつかない。 
 副担任は二人を保健室へ招き入れて、椅子へと促す。保健医は外出中らしく、備品を使ったときの注意書きが机に貼られていた。 

「小一時間もすれば戻ってくるようですが、私と入れ違いでどこかへ行ってしまいました」 
「そうなんですか。じゃあ、私が手当てします。朱里、腕を見せて」 

 佐和は部活動で保健室を訪れる機会が多いのか、ちょっとした怪我の手当てには慣れているようだった。迷いなく薬品や備品を持ち出してきて、朱里の腕を取った。 
 副担任は傍らでその様子を眺めて「器用ですね」と感心している。 

「佐和、テープだけでいいよ。包帯なんて大袈裟だよ」 
「だーめ。ちゃんとしなきゃ。それにここ打ち付けてるから、そのうちもっと濃い紫色に変色するよ。隠しておいたほうが良いって」 

 朱里の訴えを聞き流して、佐和はくるくると包帯を巻き終えた。手当てが終わると、佐和は満足そうに笑って椅子から立ち上がった。 

「よし。これで一安心。じゃあ、朱里。私は授業に戻るね」 
「そんなの、私も一緒に戻るよ。見学しているし」 

 慌てて朱里も立ち上がろうとすると、副担任の遥が二人に声をかけた。 

「二人とも、せっかくなのでお茶でも飲んでいきませんか?」 
「はぁ?」 

 朱里は佐和と声を揃えて、ぐるりと副担任に顔を向けた。彼は二人の反応に戸惑っているのか、小さく咳払いをしてから続ける。 

「いえ、その、ここにはお茶のセットも揃っているようですし」 

 副担任が示す先には小綺麗な棚があった。背の低い棚の上には電気ポットがあり、棚には湯飲みやマグカップが伏せられている。即席の珈琲や紅茶、砂糖まで揃っているようだ。 

「それに私はまだ赴任したばかりで判らない事が多いですから、少し話を聞けたらと思いまして」 

 普通ならば生徒に対して卑屈に感じるほど丁寧な言葉遣いだが、不思議と嫌味は感じない。朱里は親しみやすそうな人柄だなと副担任を眺めた。控えめに提案する様子からは、抜け道で出会った男の面影は追えない。 

 やはり別人なのかと残念に思いながらも、素直に教師としての副担任に興味を持った。佐和も彼の思いには素直に賛同できたらしく、腕を組んだまま「なるほど」と頷く。 

「先生の気持ちはわかります。でも私は怪我人の付き添いで抜けてきただけだから戻らないと。そういうわけで朱里を置いていきますから、話は彼女から聞いてください。一応うちの級長だし」 
「え? 佐和、ちょっと……」 

 唖然とする朱里の前で、佐和はポットの乗った棚の前まで歩み寄る。彼女は慣れた仕草で最下段の棚を開いた。 

「実は、ここにお菓子もあったりするんですよね。親睦を深める小道具にどうですか」 
「物知りですね」 

 副担任が再び感心していると、佐和は悪戯っぽく笑う。 

「部活が終わってからたまに友達と顔を出すと、保健の先生が出してくれるんです」 

 楽しげなひとときなのかもしれないが、朱里にはそんなことを微笑ましく想像している余裕はない。ここで副担任と二人でとり残されてしまうことは避けたい。ほとんど初対面に近い教師と、何を語り合えばいいのか判らないのだ。 

 佐和はうろたえている朱里には気付いていないようで、軽い足取りで朱里と副担任の前を横切っていく。

「じゃあ、ごゆっくり」と手を上げると、そのまま保健室を出て行った。 

(……どうしよう)

 朱里は静まり返った保健室で、椅子に掛けたまま固まってしまう。 

(何か、話題があれば、――えーと) 

 ぐるぐると頭をフル回転させて沈黙を破るきっかけを探していると、副担任があっさりと朱里に声をかけた。 

「天宮さん、どうぞ」 

 目の前に湯気が立ち昇るマグカップを差し出されて、朱里は慌てて受け取った。 

「あ、どうもありがとうございます」 

 朱里が一人で話題を探している間に、副担任の遥が淹れてくれたようだ。そんなことにも気づかないくらい緊張している自分を感じて、朱里は余計に焦ってしまう。 
 自分を落ち着けようと、朱里は手渡されたマグカップに口をつけた。 

「私はどうやら変人扱いされているようですが、そんなに怖がらなくてもいいのに」 

 狼狽しまくっている朱里とは違い、副担任の口調はさっきよりも砕けた調子だった。 

「いえ、怖がっているわけでは……」 

 否定して顔を上げると、彼は口元にかすかな笑みを浮かべて朱里を眺めていた。 

「それに先生は思っていたより変じゃないし、――あ、ごめんなさい。変と言うのは、そういう変な意味じゃなくて」 

 伝えようとすることがうまく言葉に出来ない。朱里は墓穴ぼけつを掘っていく自分を感じながら、「えーと、だから」と言葉を探す。 

「とにかく、怖いわけでも、敬遠しているわけでもなくて。……その、私が人見知りで緊張しているだけなんです」 

 ようやくそれだけを伝えると、副担任は口元を手で押さえて低く笑っている。 

「――君は、やはり変わらない」 
「え?」 

 不似合いな言葉を聞いた気がして、朱里は副担任である遥を仰いだ。強烈に渦を巻くレンズの奥にある瞳を真っ直ぐに見つめてしまう。 

「先生。今、何か……?」 
「ああ、いえ。独り言です。天宮さんは、理事長のお嬢さんだと伺いました」 
「あ、はい。そうです」 

 うまく誤魔化されたような気がしたが、朱里は自分の立場を言い当てられて咄嗟に頷いた。 

「私は理事長にはお世話になっています。こちらの天宮あまみや先生と大学部の天宮教授にも。どうかよろしく伝えてください」 

 一瞬だけ意外な気がしたが、この学院で教鞭をとるのだから、遥が理事長を始めとして兄や姉と知り合いであるのは頷ける。朱里はこれといって疑問も抱かずただ頷いた。 

天宮あまみや先生と教授から、よく君の話を聞いています」 
「そうだったんですか」 

 麒一きいちはともかく、麟華りんかなら余計なことまで色々と語りそうである。朱里は一体どんな内容を吹き込まれているのか気になった。けれど、ここでそれを聞くのも恥ずかしい。 

「黒沢先生は臨時講師だと伺いました。任期はもう決まっているんですか」 

 出来るだけ自然に話題を逸らしてみた。遥は朱里の思惑に気付かない様子で正直に答えてくれる。 

「任期についてはまだ決まっていません。必要がなくなれば、すぐに姿を消します。本当は、私の出番がなければ良かったのに」 

 そう語る口調が少しだけ苦い。朱里は禁忌の場所に伴う自分達の失態のせいで、遥が副担任として現れたことを思い出した。彼の口ぶりから察すると、それは正しい憶測だったのだろう。 
 彼は自分で淹れた珈琲を飲み干して、小さな机にマグカップを置いた。 

「先生は私達のクラスが起こした問題を聞いていますか」 
「もちろん聞いています。私は副担任ですから。立ち入りを禁じられた場所に、用意周到に踏み込もうとしたみたいですね」 
「はい。黒沢先生は、それで私達のクラスに副担任として呼ばれたんじゃないですか?」 

 思い切って包み隠さず問うと、彼は分厚いレンズの奥で眼差しを細めた。こんなふうに間近で顔を眺めていると、乱れた前髪と分厚い眼鏡で隠されている素顔が、少しずつ見えてくるような気がする。朱里の中に、彼の正体に期待している自分が蘇ってくる。少しずつ鼓動が高くなると、いつの間にか掌に緊張を握り締めていた。 

「問題を起こしたクラスの監督を強化する。たしかに、もっともな理由です」 

 まるで違うと言いたげな言い回しだった。 

「違うんですか」 
「いいえ。そういうことになっています」 
「そういうことになっているって……」 

 朱里が眉根を寄せると、遥は口元に薄く笑みを浮かべた。 

「これも何かの縁です。君には本当のことを打ち明けておきましょう」 

 まるで共犯者だと豪語されたような錯覚がする。朱里は関わりたくないような気がしたが、彼の正体に触れるきっかけになるかもしれないと思い直した。目の前の副担任は口元に笑みを浮かべたまま、顔を隠すように落ちかかっている前髪をかきあげる。 
 朱里はトクリと鼓動が高く打つのを自覚する。 

「――君は私の正体を疑っているようだから」 

 同じ声。大きくはないのに、よく通る。 
 朱里は思わず胸の前で手を組み合わせて力を込めてしまう。彼の指先がくっきりとした黒縁の枠に触れた。激しく渦を巻くレンズがゆっくりと取り払われる。 

 コクリと、朱里の喉が鳴った。 
 明らかになった素顔。隔てるものが失われた双眸で、彼は真っ直ぐに朱里を捉えた。 
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