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第一話 天落の地
第2章:3 夢と現Ⅱ
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その噂を誰に聞いたのかは定かではない。
東の国に生まれた第三太子《だいさんたいし》は、闇のごとき髪色と瞳を持つという。
世界に与えられた七儀の理。
金(=黄)、紺(=紫)、滄(=青)、緋(=赤)、碧(=緑)、透(=白)、闇(=黒)。
黒き闇は禍を意味するこの世の凶兆。
第三太子の気質は残忍、残酷。血も涙もなく冷酷で冷淡な人ならざる心で生きる。
彼に嫁いだ者は呪にかかり、魂魄を失う。
耳にした噂の全てが、ただ恐ろしい。
「六の君」
訊き慣れた声に呼ばれて顔をあげる。目の前に立つ美しい女性は、裳の裾をするりと払うように翻した。身の丈よりも長い緋色の髪が激しい炎を表すように細やかに波打っている。六の君と呼ばれた彼女は、その美しい癖毛のうねりをただ羨ましげに見上げていた。
「あなたが縁を結ぶ方が決まりました」
突然の宣告を受けて、彼女は「私が?」と目の前の女性を見つめた。不安と期待が入り混じった複雑な表情をしている。縁を結ぶとは婚姻を意味する。
彼女は自身の立場を思い、それを望むような者がいることを疑ってしまう。
「本当に、私が?」
こんな自分を望んでくれるのなら、それだけで不満はない。彼女は自身に与えられた役割を嬉しく感じたが、喜びはすぐに費えた。
「滄の国に生まれた第三の太子です。聞いた事くらいはあるでしょう」
すうっと目の前から光が失われてしまった気がした。与えられた役割があまりに過酷で、彼女は全身から血の気が引くような思いに捕らわれる。
向かいに立つ尊い女性の声が、どこか遠くで聞こえている。
泣き叫びたいような気がしたが、辛うじて堪えた。これが自分に与えられた分相応な役割なのだと強く言い聞かせる。決して姉である宮達よりも目立ってならない。それは彼女達のように、華やかな幸せを手に入れてはならないということを意味している。
「ありがとうございます」
震える両手を床について、彼女は深く頭を下げた。
(自分にできることを、精一杯しよう)
今までと、同じ。役割があって、それが何かに通じているのなら、役立つのならばそれでいい。
彼女は震えが来るほどの恐れと不安をやり過ごす。奈落の底で立ち上がり、ゆっくりと這い上がる。
周りの者の顔色を窺い、機嫌を損ねないように立ち居振る舞うことには慣れている。住まう場所が変わるだけで、これからも自分の隷属的な立場はずっと変わらない。
(これが、私の役目)
彼女は決して、無意味にこの世に生まれたとは考えない。自分がここに在ることには意味がある。それが世界にとって、取るに足らぬほどのささやかな働きであっても構わない。与えられた境遇の中に自分が役に立てる場面があるのなら。
誰かの、何かの助けになれるのなら。
誰に罵られても、貶められても、思いだけは前を向いて胸をはって生きていられる。
それだけで幸せを感じることが出来る。不幸だとは思わない。
どこに嫁ごうとも揺るがない。変わらない。
自分が在る事の意味は、これからは滄国の第三太子が与えてくれるのだ。
厄介者を追い払うに等しい結婚だとしても、彼女は目を背けずに、自身に与えられた役割だと真摯に受け止めた。
頭を下げる彼女の前で、衣擦れの音がする。美しく尊い人の気配が無くなるまで、彼女はそのまま動かなかった。
彼女は太子を前にして、体が震え出すのを止めることができなかった。
前に揃えた両手をついたまま、額が床に触れそうなほど深く頭を下げていた。広い室内は驚くほど深閑としている。するすると衣擦れの音が近づく。太子が間近で立ち止まった気配がした。
「――まだ幼いのに、酷な仕打ちをする」
響いた声は想像よりも明瞭で柔らかかった。凛と通る声が頭上から続けた。
「私は鬼ではない。君に呪をかけるほど酔狂ではないつもりだ。……顔をあげなさい」
緊張が高まり、どっと冷たい汗が噴き出す。彼女はゆっくりと上体を起こして、恐る恐る顔を上げた。
目の前に立つ太子を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。
見たことのない闇色。緩やかにうねる細い髪は黒く、柔らかに流れて艶を放っている。夜の闇よりも、どんな宝玉よりも深い色彩。
闇を映す黒がこれほど美しいと、誰が知っていただろう。見慣れない色合いは感覚に馴染まない。少しだけ恐ろしいことも確かだ。
けれど、彼女は素直に綺麗だと感じた。どんな色彩も混じることの敵わない漆黒。
噂とは何とあてにならないのだろう。
場違いながら、改めて風聞の愚かさを噛み締める。
「鮮やかな朱の瞳、緋い髪。茜よりも明るく、暁よりも深い」
太子は彼女の前で膝をついて手を伸ばす。高い位置で固く結われ、そこから真っ直ぐに落ちかかる緋い髪に触れた。珍しそうな仕草だった。
「南にある緋の国。……なるほど、神獣朱雀を従えるのも分かるような気がする」
彼女は目の前の太子に魅せられて、言葉を失っていた。いつの間にか身の竦むような恐れも嫌悪も消え失せている。囁きのような声に酔いそうだった。
太子は彼女の沈黙をどのように受け止めたのか、苦く笑った。
「私が恐ろしいか」
「そ、そんなことは……」
ないと伝えようとしたのに、うまく言葉にならなかった。太子は立ち上がり、自身の長く緩やかにうねる黒髪を指先でゆるゆると弄ぶ。自嘲するような笑みが浮かんでいる。
「この姿、君が恐れるのも無理はない。……はっきりさせておこう。君は私の元へ嫁いで来たようだが、私は君に興味がない。私の成すことに干渉しないのなら、ここでは好きなように過ごしてくれてかまわない」
何と答えればいいのか分からない。彼女の中では極悪非道な主として出来上がっていたのだ。どのように扱われるのか覚悟を決めていた。
まるで太子はその覚悟を嘲笑うかのように、簡単に自由を与えてくれる。同時に見事に突き放した。
「私には既に恋人が在る。よって、君の出る幕はない。それだけは肝に銘じていただこう」
「――はい」
喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか、彼女にはよく判らなかった。全てがあまりに想定外で混乱していた。
「姫君、このような鬼の坩堝、闇呪の治める地へようこそおいで下さいました」
太子が深く頭を垂れた。しなやかな動作に目を奪われる。美しい顔に長い髪が落ちかかっていた。顔をあげると、太子はそっと手を差し伸べる。
彼女は戸惑いながら、しっかりと掌を重ねた。
強い力に引かれて立ち上がると、勢いが余ったのか一瞬体がふわりと浮き上がる。
「――っ!」
がくりと体が震えて、朱里は目覚めた。蒼い闇の中で、ぱちくりと瞬きをしてしまう。寝台に横たわっている自分を感じて、心の底から吐き出すような深い息が漏れた。
暗がりに沈んでいるのは、見慣れた自分の部屋だった。
「はぁ」
自分を落ち着かせるために、朱里はわざと溜息をつく。大袈裟に寝返りを打って、肌布団を蹴り上げた。
(何? 今の夢)
朱里は恥ずかしさのあまり、今度はがばっと肌布団を頭からかぶる。
(どこまで単純なの、私ってば)
さっきまで見ていた夢を思い返すだけで、頬が染まるのを感じた。太子として登場したのは、間違いなく禁忌の場所へ続く抜け道で出会った彼だった。
目を奪われるほどの太子の美貌は、暗がりで見た彼の顔と同じである。
夢でも現でも、強烈に印象に残ってしまうのは認める。
百歩譲って認めるが。
だからと言って。
(そんな得体の知れない男に嫁いでたまるかぁ)
思い切り胸の内で叫んで、朱里は枕を抱いてゴロゴロと忙しなく寝返りを打った。狭い抜け道、暗がりでの不思議な出会い。現れた人影が余程心に残っているのだろう。付け加えて、麟華の戯言も影響しているに違いない。
異世界を舞台にした夢まで見てしまうのだから、かなりの重症である。
それにしても。
(「――私には既に恋人が在る。君の出る幕はない――」)
朱里は彼の台詞を思い出して笑ってしまう。作り上げられた夢の中でも、自分の意識は現実的な部分を失っていないようだ。甘い乙女の妄想だけで終われない。
「……私らしい」
夢の続きを見てみたい気もしたが、そんな器用な真似はできないだろう。
くすくすと小さく笑いながら、朱里は肌布団を整えてかぶる。
もう一眠りしようと目を閉じた。心地の良い眠りが訪れるのに時間はかからなかった。
東の国に生まれた第三太子《だいさんたいし》は、闇のごとき髪色と瞳を持つという。
世界に与えられた七儀の理。
金(=黄)、紺(=紫)、滄(=青)、緋(=赤)、碧(=緑)、透(=白)、闇(=黒)。
黒き闇は禍を意味するこの世の凶兆。
第三太子の気質は残忍、残酷。血も涙もなく冷酷で冷淡な人ならざる心で生きる。
彼に嫁いだ者は呪にかかり、魂魄を失う。
耳にした噂の全てが、ただ恐ろしい。
「六の君」
訊き慣れた声に呼ばれて顔をあげる。目の前に立つ美しい女性は、裳の裾をするりと払うように翻した。身の丈よりも長い緋色の髪が激しい炎を表すように細やかに波打っている。六の君と呼ばれた彼女は、その美しい癖毛のうねりをただ羨ましげに見上げていた。
「あなたが縁を結ぶ方が決まりました」
突然の宣告を受けて、彼女は「私が?」と目の前の女性を見つめた。不安と期待が入り混じった複雑な表情をしている。縁を結ぶとは婚姻を意味する。
彼女は自身の立場を思い、それを望むような者がいることを疑ってしまう。
「本当に、私が?」
こんな自分を望んでくれるのなら、それだけで不満はない。彼女は自身に与えられた役割を嬉しく感じたが、喜びはすぐに費えた。
「滄の国に生まれた第三の太子です。聞いた事くらいはあるでしょう」
すうっと目の前から光が失われてしまった気がした。与えられた役割があまりに過酷で、彼女は全身から血の気が引くような思いに捕らわれる。
向かいに立つ尊い女性の声が、どこか遠くで聞こえている。
泣き叫びたいような気がしたが、辛うじて堪えた。これが自分に与えられた分相応な役割なのだと強く言い聞かせる。決して姉である宮達よりも目立ってならない。それは彼女達のように、華やかな幸せを手に入れてはならないということを意味している。
「ありがとうございます」
震える両手を床について、彼女は深く頭を下げた。
(自分にできることを、精一杯しよう)
今までと、同じ。役割があって、それが何かに通じているのなら、役立つのならばそれでいい。
彼女は震えが来るほどの恐れと不安をやり過ごす。奈落の底で立ち上がり、ゆっくりと這い上がる。
周りの者の顔色を窺い、機嫌を損ねないように立ち居振る舞うことには慣れている。住まう場所が変わるだけで、これからも自分の隷属的な立場はずっと変わらない。
(これが、私の役目)
彼女は決して、無意味にこの世に生まれたとは考えない。自分がここに在ることには意味がある。それが世界にとって、取るに足らぬほどのささやかな働きであっても構わない。与えられた境遇の中に自分が役に立てる場面があるのなら。
誰かの、何かの助けになれるのなら。
誰に罵られても、貶められても、思いだけは前を向いて胸をはって生きていられる。
それだけで幸せを感じることが出来る。不幸だとは思わない。
どこに嫁ごうとも揺るがない。変わらない。
自分が在る事の意味は、これからは滄国の第三太子が与えてくれるのだ。
厄介者を追い払うに等しい結婚だとしても、彼女は目を背けずに、自身に与えられた役割だと真摯に受け止めた。
頭を下げる彼女の前で、衣擦れの音がする。美しく尊い人の気配が無くなるまで、彼女はそのまま動かなかった。
彼女は太子を前にして、体が震え出すのを止めることができなかった。
前に揃えた両手をついたまま、額が床に触れそうなほど深く頭を下げていた。広い室内は驚くほど深閑としている。するすると衣擦れの音が近づく。太子が間近で立ち止まった気配がした。
「――まだ幼いのに、酷な仕打ちをする」
響いた声は想像よりも明瞭で柔らかかった。凛と通る声が頭上から続けた。
「私は鬼ではない。君に呪をかけるほど酔狂ではないつもりだ。……顔をあげなさい」
緊張が高まり、どっと冷たい汗が噴き出す。彼女はゆっくりと上体を起こして、恐る恐る顔を上げた。
目の前に立つ太子を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。
見たことのない闇色。緩やかにうねる細い髪は黒く、柔らかに流れて艶を放っている。夜の闇よりも、どんな宝玉よりも深い色彩。
闇を映す黒がこれほど美しいと、誰が知っていただろう。見慣れない色合いは感覚に馴染まない。少しだけ恐ろしいことも確かだ。
けれど、彼女は素直に綺麗だと感じた。どんな色彩も混じることの敵わない漆黒。
噂とは何とあてにならないのだろう。
場違いながら、改めて風聞の愚かさを噛み締める。
「鮮やかな朱の瞳、緋い髪。茜よりも明るく、暁よりも深い」
太子は彼女の前で膝をついて手を伸ばす。高い位置で固く結われ、そこから真っ直ぐに落ちかかる緋い髪に触れた。珍しそうな仕草だった。
「南にある緋の国。……なるほど、神獣朱雀を従えるのも分かるような気がする」
彼女は目の前の太子に魅せられて、言葉を失っていた。いつの間にか身の竦むような恐れも嫌悪も消え失せている。囁きのような声に酔いそうだった。
太子は彼女の沈黙をどのように受け止めたのか、苦く笑った。
「私が恐ろしいか」
「そ、そんなことは……」
ないと伝えようとしたのに、うまく言葉にならなかった。太子は立ち上がり、自身の長く緩やかにうねる黒髪を指先でゆるゆると弄ぶ。自嘲するような笑みが浮かんでいる。
「この姿、君が恐れるのも無理はない。……はっきりさせておこう。君は私の元へ嫁いで来たようだが、私は君に興味がない。私の成すことに干渉しないのなら、ここでは好きなように過ごしてくれてかまわない」
何と答えればいいのか分からない。彼女の中では極悪非道な主として出来上がっていたのだ。どのように扱われるのか覚悟を決めていた。
まるで太子はその覚悟を嘲笑うかのように、簡単に自由を与えてくれる。同時に見事に突き放した。
「私には既に恋人が在る。よって、君の出る幕はない。それだけは肝に銘じていただこう」
「――はい」
喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか、彼女にはよく判らなかった。全てがあまりに想定外で混乱していた。
「姫君、このような鬼の坩堝、闇呪の治める地へようこそおいで下さいました」
太子が深く頭を垂れた。しなやかな動作に目を奪われる。美しい顔に長い髪が落ちかかっていた。顔をあげると、太子はそっと手を差し伸べる。
彼女は戸惑いながら、しっかりと掌を重ねた。
強い力に引かれて立ち上がると、勢いが余ったのか一瞬体がふわりと浮き上がる。
「――っ!」
がくりと体が震えて、朱里は目覚めた。蒼い闇の中で、ぱちくりと瞬きをしてしまう。寝台に横たわっている自分を感じて、心の底から吐き出すような深い息が漏れた。
暗がりに沈んでいるのは、見慣れた自分の部屋だった。
「はぁ」
自分を落ち着かせるために、朱里はわざと溜息をつく。大袈裟に寝返りを打って、肌布団を蹴り上げた。
(何? 今の夢)
朱里は恥ずかしさのあまり、今度はがばっと肌布団を頭からかぶる。
(どこまで単純なの、私ってば)
さっきまで見ていた夢を思い返すだけで、頬が染まるのを感じた。太子として登場したのは、間違いなく禁忌の場所へ続く抜け道で出会った彼だった。
目を奪われるほどの太子の美貌は、暗がりで見た彼の顔と同じである。
夢でも現でも、強烈に印象に残ってしまうのは認める。
百歩譲って認めるが。
だからと言って。
(そんな得体の知れない男に嫁いでたまるかぁ)
思い切り胸の内で叫んで、朱里は枕を抱いてゴロゴロと忙しなく寝返りを打った。狭い抜け道、暗がりでの不思議な出会い。現れた人影が余程心に残っているのだろう。付け加えて、麟華の戯言も影響しているに違いない。
異世界を舞台にした夢まで見てしまうのだから、かなりの重症である。
それにしても。
(「――私には既に恋人が在る。君の出る幕はない――」)
朱里は彼の台詞を思い出して笑ってしまう。作り上げられた夢の中でも、自分の意識は現実的な部分を失っていないようだ。甘い乙女の妄想だけで終われない。
「……私らしい」
夢の続きを見てみたい気もしたが、そんな器用な真似はできないだろう。
くすくすと小さく笑いながら、朱里は肌布団を整えてかぶる。
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