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第六章:重なり焦がれる心

29:蘇らない記憶

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 ルシアが目覚めると、すでにディオンの姿はなかった。ゆっくりと寝台から身を起こし、昨夜のことを思う。全てが夢だったのではないかと思えたが、何も纏わぬ身体に彼と交わした行いの痕が刻まれていた。
 体が全てを覚えている。

 情を交わしたのが初めてではないことも明らかだった。彼に触れられることには、何のためらいも戸惑いも感じなかった。まるで受け入れることが当たり前のように、互いの熱と鼓動を感じた。泣きたくなるような幸福感と、悦びだけを与えられる。至福の行い。

 繰り返される、愛しているという囁き。
 慈しむように「ルシア」と呼ぶ声。

「ディオン様ーー」

 ルシアは無造作に広がる自身の衣装を手繰り寄せて、視界を滲ませる涙を拭った。
 もどかしい。
 これほどに体に刻み込まれ、示されても、ルシアには蘇る想い出がない。あの白金の面影以外には、何も思い出せないのだ。

 心を狂わせていたのは、レイアと叫んだ断末魔の声。
 双神であったレイアを失った哀しみがもたらした錯綜。過去が蘇らないルシアには、レイアの喪失が自分にとってどれほどの絶望だったのかを測ることができない。心には、トールの最期を見届けたレイアの絶望と、焼けつくような想いが刻まれているだけだった。

「どうして……」

 翻る癖のない白金の髪。その面影に連なる焦がれるような愛しさ。レイアの焼けつくような想いに通じるほど、自分がその面影に心を傾けていたのだとわかる。
 今、ディオンに焦がれているのと同じように。

「どうして、思い出せないの」

 地底ガルズで与えられた立場が、魔王に作られた筋書きであるなどとは、もう決して考えられない。錯綜している自分を恥じたくなるほど、彼を恐れた自分を悔いている。

 ノルンを切り捨てた成り行きを思っても、その後悔が覆ることはない。
 自分は彼を愛していた。そして、彼に愛されていた。
 ディオンにつながる過去がたしかにある。

 けれど、思い出せない。
 再び、これほどにディオンが自分の心を占めるようになっても、彼と共にあった過去をどうしても思い出すことが出来ないのだ。




 いつものようにクルドが綺麗に髪を結ってくれている。毎朝繰り返してきた支度なのに、今日はすぐにでも飛び出していきたい衝動に駆られていた。

「ルシア様。そんなにそわそわしなくても、ディオン様は帰ったりしませんよ」

 背後で小さく笑いながら、クルドがからかうようにルシアに伝える。

「べ、別に、そわそわしているわけでは……」

 自分でも苦しい言い訳のように感じるが、気持ちが急いてしまう。今この瞬間にも、ディオンが魔王の丘オーズから立ち去ってしまうのではないかと気が気ではない。今となっては彼の思いを疑う気持ちはないが、自分とは違いディオンはルシアと会えないことを思い悩んだりはしないのだ。

 ルシアが憎悪を向けている時も、誤解を解くために説明を尽くすことはしなかった。
 邪悪ガルドルの影響がなければ、まるで傍観者ように仕方がないという様子で、動じることもない。
 自分がディオンの立場であれば、そんな風に振舞えるとは到底思えない。

「できましたよ、ルシア様。今日もお綺麗です」

 クルドが可笑しそうに笑いながら、ルシアの肩に手を置いた。居室を出ることを促すように、そっと弱い力で押される。

「ありがとう、クルド」

「ディオン様は上の露台におられます」

 クルドの声を背後に聞きながら、ルシアはすぐに居室を出た。これほど明らさまに心が浮き立っていることを恥ずかしくも感じるが、彼を信じると決めたのだ。迷うことも戸惑うこともない。

 昨日はディオンから何かを聞くことができなかった。疑うことのできない激しさで思いを刻まれたが、それだけだった。

 思えばこれまでも、彼に経緯を問い質すことをしてこなかった。ルシアの知る成り行きはクルドとアルヴィの話で出来上がっている。

 けれど、彼らにもディオンが堕天した理由や、身に邪悪ガルドルを飼うようになった理由はわからないのだ。

(後悔はしていないが、私はもう以前のように寄り添うことはできない)

 ふと一抹の不安がよぎる。何か途轍もなく大切なことを見落としているのではないか。
 ディオンへの気持ちで高鳴る胸に、漠然と影が落ちた。
 ルシアは不安の正体を掴みきれないまま、昨日の露台へと向かう。

 石造りの通路を抜け露台に出ると、昨日よりも湿った空気に身を包まれる。魔王の丘オーズの霧が、今日は露台にまで届いているようだ。視界を奪うほどではないが、ぼんやりと辺りに霞がかかっていた。

 清々しいとは言えない光景の中でも、ディオンの姿はすぐに目に止まった。昨日は気づかなかったが、露台の端には小さな卓と長椅子が備えられている。宮殿と同じような彫刻が刻まれた美しい造形をしていた。ディオンは悠然と椅子にかけていたが、気配を感じたのかすぐに振り返った。
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