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第五章:古き者の影
23:何とも言えない気持ち
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クルドと共に考えると言ってみたが、結局ルシアが力になれることはなさそうだった。自身が何者であるかも分からないのだ。いかに非力であるのかを思い知る日々だった。
出来ることと言えば、クルドの語る話に耳を傾けることくらいである。
「ルシア様。今日は後ろに結い上げて、少しだけ編んでみますね」
クルドの明るい声が石造りの居室に響く。今朝もルシアの緩やかな癖をもつ長い髪を、クルドが綺麗に結ってくれていた。身にまとわりつく長い髪。綺麗だと言われてもルシアには煩わしく、髪を切りたいと申し出ると、クルドが猛反対をして結うことを提案してくれた。
以来、毎朝クルドに任せている。はじめは彼女の手を煩わせているのではないかと申し訳ない気持ちもあったが、どうやらクルドは楽しんでいるようだ。
毎日、少しずつ変化をつけて結い上げてくれる。
「クルドは器用ですね」
「いえ、どちらかというと不器用なんです。アルヴィの方が器用なんですよ」
「アルヴィが?」
「はい」
何かを思い出したのか、クルドが小さく笑う。彼女が語る人界での昔話に、ルシアも心が和んだ。近頃はクルドの語るディオンの話も自然に受け止めている。
「あ、そういえば、先日外庭に花が咲きそうな場所がありました。そろそろ開花しているのではないでしょうか? 髪飾りにも良さそうです。ルシア様、少し出られてみませんか」
「ええ。ありがとう、クルド」
ルシアの胸で号泣してから、クルドが再び嘆くことはなかった。打ち明けるだけで不安が晴れたのか、毎日くるくると愛らしい笑顔でルシアに仕えている。
クルドに誘われて外庭に出ると、やはり肌に触れる空気がしっとりとしている。
しんと静まり返った庭園の中で、ルシアは思わず古き者の影を探してしまう。
あれからもクルドに隠れて何度かノルンの墓標を訪れてみたが、古き者の声を聞くことも、姿を見ることもなかった。やはり迷った心が見せた白昼夢だったのだろうか。
ルシアは気持ちを切り替えて、石畳の小道を辿る。
何気ない会話を装いながら、最近日増しに気になりだした事を口にした。
「クルド。ディオン様は、今度はいつこちらに参られるのでしょうか」
中庭での会食から、全く音沙汰がない。ルシアは心に刻まれた軋轢を白紙に戻すと訴えた。彼はそれを認め
てくれたはずなのだ。
あれからもアルヴィが独りで顔を見せることはあったが、ディオンの姿は見ていない。
前を行くクルドがぴたりと歩みを止めた。意外なことを聞かれたという顔で、愛らしい顔が振り返る。
「ルシア様はディオン様に会いたいのですか」
「え?」
会いたいのかと聞かれるとためらいがあった。クルドやアルヴィが彼を慕っているのは分かっているが、だからと言ってルシアのわだかまりが全て解消するわけではない。
「ディオン様のことが恐ろしいのではないのですか」
「ーーそれは」
ルシアは初めの印象を見失っていたことに気付く。クルドが語るディオンが少しずつ影響していたのだろうか。面影を思い描くだけで身が竦むほど恐れていたのに、恐怖がすっかり心から失われていた。
彼を信じられるのかどうか、そのことばかりを考えていた。恐れも憎悪もいつのまにかどこかへ置き去りになっている。
「今は、それほど恐ろしくはありません」
「本当ですか?」
「その、……彼のひどい振る舞いは邪悪の影響だとわかりましたしーー」
ルシアは心の変化を見抜かれないよう、まるで言い訳するように理由を語る。
「クルドやアルヴィの話を聞いている限り、それほど恐ろしい人ではないのかもしれないと……」
「本当ですか!」
クルドが、ぱぁっと顔を輝かせる。
「では、もうディオン様のことが怖くはないのですね!」
「――え、ええ」
「前ほどには……」と付け加えた声が、自分でも何かを取り繕っているように歯切れが悪い。ルシアの戸惑いには無頓着な様子で、クルドは笑う。
「良かった。では、早速ディオン様にお知らせします。……そうですね。ルシア様が一緒にお食事をしたいと望んでいる、ということでどうでしょうか?」
「べ、別に、望んでいるわけでは……」
「ディオン様はあれからも度々魔王の丘には訪れていらっしゃいます。ルシア様とお会いになることは避けておられるみたいですが」
「え?」
「ルシア様が望まれるのなら、こちらにも顔を見せて下さると思います」
ディオンが魔王の丘を訪れていたという事実が、ルシアにもやもやとした気持ちをもたらす。クルドの言い様では、自分を気遣ってのことのようだが釈然としない。クルドやアルヴィの不安に寄り添うと決めてから、ずっと考えていた。次に彼に会う機会があれば、自分はどのような印象を抱くのだろうかと。
少しの不安と期待の入り混じった気持ちが、ルシアの心をかき乱していた。けれど、ディオンはまるでルシアに興味がないのだ。
魔王の丘に在れば良いだけの、それだけの存在。
クルドの語る昔話によって形作られていたディオンの印象が、急激に色あせる。
「あ!」
ルシアが何とも言えない気持ちを味わっていると、ふいにクルドが声をあげる。ルシアもつられて目を向けた。霧に煙る緑の庭園に、くっきりとした黒衣が浮かび上がっている。
「ディオン様!」
ルシアが意識したと同時に、クルドが凛と通る声で呼びかけた。黒い人影が弾かれたようにこちらを見る。霧でかすむ小道の先には、アルヴィの姿も見えた。
出来ることと言えば、クルドの語る話に耳を傾けることくらいである。
「ルシア様。今日は後ろに結い上げて、少しだけ編んでみますね」
クルドの明るい声が石造りの居室に響く。今朝もルシアの緩やかな癖をもつ長い髪を、クルドが綺麗に結ってくれていた。身にまとわりつく長い髪。綺麗だと言われてもルシアには煩わしく、髪を切りたいと申し出ると、クルドが猛反対をして結うことを提案してくれた。
以来、毎朝クルドに任せている。はじめは彼女の手を煩わせているのではないかと申し訳ない気持ちもあったが、どうやらクルドは楽しんでいるようだ。
毎日、少しずつ変化をつけて結い上げてくれる。
「クルドは器用ですね」
「いえ、どちらかというと不器用なんです。アルヴィの方が器用なんですよ」
「アルヴィが?」
「はい」
何かを思い出したのか、クルドが小さく笑う。彼女が語る人界での昔話に、ルシアも心が和んだ。近頃はクルドの語るディオンの話も自然に受け止めている。
「あ、そういえば、先日外庭に花が咲きそうな場所がありました。そろそろ開花しているのではないでしょうか? 髪飾りにも良さそうです。ルシア様、少し出られてみませんか」
「ええ。ありがとう、クルド」
ルシアの胸で号泣してから、クルドが再び嘆くことはなかった。打ち明けるだけで不安が晴れたのか、毎日くるくると愛らしい笑顔でルシアに仕えている。
クルドに誘われて外庭に出ると、やはり肌に触れる空気がしっとりとしている。
しんと静まり返った庭園の中で、ルシアは思わず古き者の影を探してしまう。
あれからもクルドに隠れて何度かノルンの墓標を訪れてみたが、古き者の声を聞くことも、姿を見ることもなかった。やはり迷った心が見せた白昼夢だったのだろうか。
ルシアは気持ちを切り替えて、石畳の小道を辿る。
何気ない会話を装いながら、最近日増しに気になりだした事を口にした。
「クルド。ディオン様は、今度はいつこちらに参られるのでしょうか」
中庭での会食から、全く音沙汰がない。ルシアは心に刻まれた軋轢を白紙に戻すと訴えた。彼はそれを認め
てくれたはずなのだ。
あれからもアルヴィが独りで顔を見せることはあったが、ディオンの姿は見ていない。
前を行くクルドがぴたりと歩みを止めた。意外なことを聞かれたという顔で、愛らしい顔が振り返る。
「ルシア様はディオン様に会いたいのですか」
「え?」
会いたいのかと聞かれるとためらいがあった。クルドやアルヴィが彼を慕っているのは分かっているが、だからと言ってルシアのわだかまりが全て解消するわけではない。
「ディオン様のことが恐ろしいのではないのですか」
「ーーそれは」
ルシアは初めの印象を見失っていたことに気付く。クルドが語るディオンが少しずつ影響していたのだろうか。面影を思い描くだけで身が竦むほど恐れていたのに、恐怖がすっかり心から失われていた。
彼を信じられるのかどうか、そのことばかりを考えていた。恐れも憎悪もいつのまにかどこかへ置き去りになっている。
「今は、それほど恐ろしくはありません」
「本当ですか?」
「その、……彼のひどい振る舞いは邪悪の影響だとわかりましたしーー」
ルシアは心の変化を見抜かれないよう、まるで言い訳するように理由を語る。
「クルドやアルヴィの話を聞いている限り、それほど恐ろしい人ではないのかもしれないと……」
「本当ですか!」
クルドが、ぱぁっと顔を輝かせる。
「では、もうディオン様のことが怖くはないのですね!」
「――え、ええ」
「前ほどには……」と付け加えた声が、自分でも何かを取り繕っているように歯切れが悪い。ルシアの戸惑いには無頓着な様子で、クルドは笑う。
「良かった。では、早速ディオン様にお知らせします。……そうですね。ルシア様が一緒にお食事をしたいと望んでいる、ということでどうでしょうか?」
「べ、別に、望んでいるわけでは……」
「ディオン様はあれからも度々魔王の丘には訪れていらっしゃいます。ルシア様とお会いになることは避けておられるみたいですが」
「え?」
「ルシア様が望まれるのなら、こちらにも顔を見せて下さると思います」
ディオンが魔王の丘を訪れていたという事実が、ルシアにもやもやとした気持ちをもたらす。クルドの言い様では、自分を気遣ってのことのようだが釈然としない。クルドやアルヴィの不安に寄り添うと決めてから、ずっと考えていた。次に彼に会う機会があれば、自分はどのような印象を抱くのだろうかと。
少しの不安と期待の入り混じった気持ちが、ルシアの心をかき乱していた。けれど、ディオンはまるでルシアに興味がないのだ。
魔王の丘に在れば良いだけの、それだけの存在。
クルドの語る昔話によって形作られていたディオンの印象が、急激に色あせる。
「あ!」
ルシアが何とも言えない気持ちを味わっていると、ふいにクルドが声をあげる。ルシアもつられて目を向けた。霧に煙る緑の庭園に、くっきりとした黒衣が浮かび上がっている。
「ディオン様!」
ルシアが意識したと同時に、クルドが凛と通る声で呼びかけた。黒い人影が弾かれたようにこちらを見る。霧でかすむ小道の先には、アルヴィの姿も見えた。
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