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第三章:狂気と覚悟
15:ルシアの覚悟
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魔鳥がバサリと羽ばたき、慣れた様子でディオンの腕に止まった。ぎゃあぎゃあと声を上げている。
「私はおまえを切り裂きたくない。今日はムギンが助けてくれたが、次はどうなるかわからない」
ルシアは自分の予感が間違えていないことを悟った。邪悪に囚われていないディオンになら、取り入ることができそうだった。
ルシアは魔王の丘で平穏に過ごしていたいわけではない。
胸に抱いた決意がある。
「邪悪のせいであるのなら、私にも心の持ちようがございます。ディオン様が望むのなら、これまでの仕打ちを白紙に戻しましょう。あなたに恐れや憎悪を向けなければ、お側に寄ることが許されるのでしょうか」
「私への憎しみを白紙に戻す? 今もこれほどに憎悪を感じているのにか」
ルシアはぐっと気を引き締めた。ノルンのことを考えないように努めて、抱いた決意だけを確かめた。人界の再興。そのためにディオンが必要なのだ。幾重にも言い聞かせ、自分の心の操舵を握る。
(ノルン、ごめんなさい)
今は魔王を恐れている時ではない。憎しみに心を奪われている場合でもない。
「もうディオン様を恐れることも、憎むこともいたしません」
ルシアはまっすぐにディオンを見た。彼が何かに気づいたように瞠目する。右目の金細工に触れていた指先が離れた。
「――心を偽って、私に何を望む?」
「どうか人界の再興のために、お力をお貸しください」
その場に膝をついて平伏する。心に刻まれたあらゆる軋轢を殺して、ひたすら彼に敬意を払った。
ディオンが低く笑う声が聞こえる。
「その覚悟、気の強さ。従順なレイアの真似事をしていても、変わらないものだな」
衣擦れの音の後で気配が近づく。黒く長い爪が、ルシアに触れた。
彼の爪と指先に、切り裂かれた頬から滲む血が移る。労わるような眼差しが、ルシアを捉えた。
「レイアを失ったことは私も悔やんでいる。だが、私はおまえの哀しみに寄り添うことは出来ない」
ルシアは彼の左眼に映る自分の影を見ていた。
「だから、おまえが全てを忘れてしまったとしても、責めはしない」
魔王の描く筋書きだった。ルシアにはわからない。彼はただ自嘲的に微笑み、指先を濡らすルシアの血を舐めた。
「ーーディオン様」
狂気を感じない穏やかな気配だった。邪悪に囚われていないのなら、魔王を恐れることはない。自分に暗示をかけるように心に刻みながら、ルシアはディオンの赤い眼を見つめ続けた。
「やはりおまえは美しいな。だが、人界の再興は私も望んでいる。今さら改まって願うこともない」
「では、私を最果てにお連れください」
「見せてやりたいが、それはできない」
「なぜでしょうか」
「おまえがアウズンブラの女神だからだ」
「アウズンブラの女神……?」
「残念ながら、私にはおまえを守る術がない。今は古き者の加護に縋るしかない」
ルシアはそっと視線を伏せた。最果てが本当にあるのなら、一目見ることが出来ればディオンへの印象は大きく覆るだろう。けれど、やはりそれは叶わない。
何かを信じるための証が与えられないのだ。描かれた筋書きは絵空事のままだった。
(でも……)
ルシアは少し柔軟さを取り戻す。頑なにノルンに与えられた情報だけに縋っているのも良くない。自分の眼を曇らせる一端になる。
ノルンが教えてくれた成り行きにも、どこかに行き違いがあったのかもしれない。
ーーレイア!
確かなのは、刻まれたトールの最期の声。焼けつくような愛しさと絶望。
そして。
ーー私はこの世の平和を望む。人界の自由な世を。
胸に刻まれた、愛した人の願い。
翻る美しく癖のない金髪の面影。長い白金の髪が、光を弾く眩い光景。
心を占める愛しい気配。
何が事実なのかはわからないまま、心に刻まれたトールへの想いだけが、今もはっきりと浮かび上がっている。ルシアには、それだけが真実だった。
「私はおまえを切り裂きたくない。今日はムギンが助けてくれたが、次はどうなるかわからない」
ルシアは自分の予感が間違えていないことを悟った。邪悪に囚われていないディオンになら、取り入ることができそうだった。
ルシアは魔王の丘で平穏に過ごしていたいわけではない。
胸に抱いた決意がある。
「邪悪のせいであるのなら、私にも心の持ちようがございます。ディオン様が望むのなら、これまでの仕打ちを白紙に戻しましょう。あなたに恐れや憎悪を向けなければ、お側に寄ることが許されるのでしょうか」
「私への憎しみを白紙に戻す? 今もこれほどに憎悪を感じているのにか」
ルシアはぐっと気を引き締めた。ノルンのことを考えないように努めて、抱いた決意だけを確かめた。人界の再興。そのためにディオンが必要なのだ。幾重にも言い聞かせ、自分の心の操舵を握る。
(ノルン、ごめんなさい)
今は魔王を恐れている時ではない。憎しみに心を奪われている場合でもない。
「もうディオン様を恐れることも、憎むこともいたしません」
ルシアはまっすぐにディオンを見た。彼が何かに気づいたように瞠目する。右目の金細工に触れていた指先が離れた。
「――心を偽って、私に何を望む?」
「どうか人界の再興のために、お力をお貸しください」
その場に膝をついて平伏する。心に刻まれたあらゆる軋轢を殺して、ひたすら彼に敬意を払った。
ディオンが低く笑う声が聞こえる。
「その覚悟、気の強さ。従順なレイアの真似事をしていても、変わらないものだな」
衣擦れの音の後で気配が近づく。黒く長い爪が、ルシアに触れた。
彼の爪と指先に、切り裂かれた頬から滲む血が移る。労わるような眼差しが、ルシアを捉えた。
「レイアを失ったことは私も悔やんでいる。だが、私はおまえの哀しみに寄り添うことは出来ない」
ルシアは彼の左眼に映る自分の影を見ていた。
「だから、おまえが全てを忘れてしまったとしても、責めはしない」
魔王の描く筋書きだった。ルシアにはわからない。彼はただ自嘲的に微笑み、指先を濡らすルシアの血を舐めた。
「ーーディオン様」
狂気を感じない穏やかな気配だった。邪悪に囚われていないのなら、魔王を恐れることはない。自分に暗示をかけるように心に刻みながら、ルシアはディオンの赤い眼を見つめ続けた。
「やはりおまえは美しいな。だが、人界の再興は私も望んでいる。今さら改まって願うこともない」
「では、私を最果てにお連れください」
「見せてやりたいが、それはできない」
「なぜでしょうか」
「おまえがアウズンブラの女神だからだ」
「アウズンブラの女神……?」
「残念ながら、私にはおまえを守る術がない。今は古き者の加護に縋るしかない」
ルシアはそっと視線を伏せた。最果てが本当にあるのなら、一目見ることが出来ればディオンへの印象は大きく覆るだろう。けれど、やはりそれは叶わない。
何かを信じるための証が与えられないのだ。描かれた筋書きは絵空事のままだった。
(でも……)
ルシアは少し柔軟さを取り戻す。頑なにノルンに与えられた情報だけに縋っているのも良くない。自分の眼を曇らせる一端になる。
ノルンが教えてくれた成り行きにも、どこかに行き違いがあったのかもしれない。
ーーレイア!
確かなのは、刻まれたトールの最期の声。焼けつくような愛しさと絶望。
そして。
ーー私はこの世の平和を望む。人界の自由な世を。
胸に刻まれた、愛した人の願い。
翻る美しく癖のない金髪の面影。長い白金の髪が、光を弾く眩い光景。
心を占める愛しい気配。
何が事実なのかはわからないまま、心に刻まれたトールへの想いだけが、今もはっきりと浮かび上がっている。ルシアには、それだけが真実だった。
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