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第十三章 愚かな嫉妬

6:別れの予告

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 椅子が飛んでくるのか、机が飛んでくるのか。シルファは王宮の離れの通路を歩きながら、そんなことを考えていた。セラフィから、無事にミアが正気を取り戻したことは聞いている。

 我に返った彼女が、昨夜の出来事をどのように捉えたのかは想像がついた。
 あのセラフィがどこか戸惑った顔をしていたので、相当荒れ狂ったのかもしれない。

 いっそうの事、喪失を施してしまった方が良いのかもしれないと、本末転倒なことまで考えたくなるが、すでにアラディアの影は掴んでいる。ミアと過ごせる時間も、あとわずかだろう。

 シルファは覚悟を決めて、魔鏡のある自室へ入った。

「ミア?」

 奥の寝台で休んでいるのかと思っていたが、ミアは魔鏡の近くの長椅子に掛けていた。シルファの気配に気づくと、まるで螺子を巻かれた人形のように不自然に立ち上がる。

 嵐のような激怒を覚悟したが、ミアはこちらを見ないまま立ち尽くし、動かない
 念のためしばらく距離を保っていたが、ミアが一向に動かないので、シルファはゆっくりと歩み寄った。

「具合はどうだ? セラフィに聞いたと思うが、少しやっかいな暗示にかかっていたからーー」

「ごめんなさい!」

 振り返ったかと思えば、ミアがすごい勢いでがばりと体を折る。深く頭を下げたまま、「本当にごめんなさい!」と繰り返した。

「え?」

 シルファは反応が遅れる。ミアは顔を上げず、深くお辞儀をしたまま続けた。

「昨夜は見苦しいものを見せてしまい、本当にごめんなさい!」

「見苦しいもの……?」

 シルファは呆気にとられる。

(――どんな発想でそうなるんだ?)

 とにかくかなり戸惑っているようだ。無理もないが、謝罪されるのは予想外だった。

「暗示にかかっていたとはいえ、本当にごめんなさい! 昨夜のことは、犬に噛まれたとでも思って、きれいさっぱり忘れてもらって大丈夫なので!」

「ミア、――とりあえず頭をあげて、座ろうか」

 シルファは笑いをかみ殺してミアを長椅子に促す。ようやく顔を上げたミアは、顔を耳まで真っ赤に染めて、居たたまれないという顔をしていた。

(……これは、予想の上を行く反応だな)

 ミアは荒れ狂うこともなく、ひたすら大人しく項垂れている。どうやら目を合わせることも出来ない位、恥じらっているらしい。

(まぁ、すべて覚えているならそうなるか)

 色香で捕らえて高めた欲望には、それなりに応えた。彼女が経験したことのない触れ方をしたはずだった。

 所作だけではなく、愛しているという自分の言葉も刻まれたのだろうか。
 シルファは目を合わせないミアを眺めながら、昨夜の浅はかさを振り返るが、後悔はしていなかった。

「昨夜のことなら、私は気にしてない。崇高な一族サクリードの色香に囚われたら誰でもああなる。いちいち気にしていたら血を求められないからな」

「う、……そう、ですか」

 全くいつもの調子に戻らないミアは、借りてきた猫のようになっている。

「それに見苦しくはなかった」

「へ?」

「私としては、いいものを見せてもらったよ。だから謝ることはない」

「う……」

 鬱血しそうな勢いで、ミアの顔がさらに染まる。

「いや、でも、その、ほんとに、犬に噛まれたと思って忘れてくれれば……」

 シルファが何を言っても、ミアは恥じらいと罪悪感に苛まれている。覇気の戻らない様子を見かねて、シルファは荒療治に出る。

「おまえは私好みの身体をしていたよ。素直な反応で、あそこで抑えるのは正直きつかったぐらいだ。そんなに罪悪感を抱えるなら、今から続きを――」

「ふざけるな!」

 ようやく視線が合った。ミアは瞳を潤ませて仁王立ちしている。

「人が心から反省しているのに! 最低!」

「そう、私は最低だ。だから気にしなくて良いって言ってるだろ?」

 むっと口を閉ざして、ミアがぷいとそっぽを向く。まだ恥じらいは拭い去れないようだが、少しだけいつもの調子に戻ったようだ。

「それに、私は昨夜のことを忘れない」

「まだ言う!?」

 シルファは笑いながら、何気ないことのように続ける。

「私にとっては聖女との大切な思い出になる」

「え?」

 何かを感じたのか、ミアがじっとシルファを見つめた。

「――ミア、ようやくお前を元の世界に帰すことができそうだ」

「じゃあ、大魔女を見つけたの?」

「そう。ようやくアラディアに届いた。今夜、教会の旧聖堂で決着をつける。ミアも帰れるよ」

「今夜?」

 突然の朗報に戸惑っているのか、ミアが息を呑んだのがわかった。

「そんなに急に?」

「急? 遅すぎたくらいだろ。おまえとの約束を果たすのに時間がかかりすぎた」

「……そんなことは」

 もっと喜ぶかと思っていたが、ミアは信じられないという顔で真っすぐにこちらを見ている。笑ってくれるかと期待していたが、戸惑いだけが伝わってきた。

 元世界への帰還を素直に喜べなくなる位には、マスティアでの生活にも思い入れが生まれていたのだろう。こちらの世界に長く置きすぎたのだ。

 結局、彼女を悲しませることになる。出来るだけミアが嘆くのを見たくはないが、こればかりは仕方がない。避けて通れない結末だった。

「元の世界に帰ったら、きっと味覚も戻る。美味いものをたくさん食べろよ」

「……うん」

 一緒にいるとミアが別れを惜しんで泣く予感がした。いつまでも彼女の気配を感じていたかったが、シルファは立ち上がった。今夜の予定だけを伝えて、長椅子を離れる。

「あの、シルファ」

 ミアの声が追いかけて来る。シルファはわざと振り返ることをせずに、大きな扉に手をかけたまま「どうした?」と聞き返した。

 本当は聞こえないふりをして、一刻も早く立ち去りたい。心が揺れるような言葉は聞きたくない。この世界には、もう自分が望むものはない。そう言い聞かせた。

「わたし――」

 シルファは振り返らずに背を向けたまま立ち尽くす。ミアの声はそこで途切れた。言いかけたことを呑み込むような沈黙が満ちる。

「――ありがとう、シルファ」

 何かを求めることはなく、ミアはそれだけを言った。

「……礼を言うのは私の方だよ。ありがとう、ミア」

 シルファは振り返ることができないまま、部屋を出た。
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