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第十章:手掛かり

1:飢餓の爪痕

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 これほど満たされた気分で目覚めたのは、いつぶりだろう。シルファは寝台に届く光にまで穏やかな温もりを感じた。どうやら影の一族シャドウは、期待に応えてくれたようである。

 舌先にまだ甘さが残っていた。これまで飢餓状態に陥って正気を保てたことはない。聖女ーーミアを召喚した時は、あらかじめ聖女の犠牲を拒んでおいたので、影の一族シャドウもその命に従い、数多の人をあてがった。

 けれど、今回はさすがにミアの血を求める事態になっただろう。シルファはひどく投げやりな気持ちで覚悟を決める。きっともう憎まれることを恐れる必要もない。

 色香で捉えて凌辱するのなら、せめて記憶に留めておきたかったが仕方がない。
 色欲に犯されて、彼女がどんなふうに求めてきたのか、全ては飢餓の闇に沈んでいる。

 身体は嘘のように軽くなっていたが、ミアとの関係を思うと心が重い。
 彼女は生贄の役目を、嫌というほど理解したはずだった。

(――ようやく、聖なる光アウルへの希望を断ちきれたか)

 これで良かったのだと強く心に刻む。
 シルファは気持ちを切り替えて身を起こした。おそらくベルゼは何かを掴んだはずなのだ。やるべきことで思考を埋めた。

 室内の光景を閉ざす天蓋からの幕に手をかけて、シルファは素早く寝台を出た。

「セラフィ?」

 呼びかけると、室内の長椅子で動く影があった。

「シルファ! 目が覚めーー」

 見慣れた人影が弾かれたようにこちらを見て、すぐに「ぎゃー」という絶叫と共に、脱兎のごとく部屋の
隅に身を隠す。

「き、着替えは、そこに。セラフィが用意してくれてる」

「ミア?」

 思わず歩み寄ろうとすると、気配を感じたのか背中を向けたまま彼女が再び悲鳴をあげる。

「とにかく早く服を着てください!」

 彼女の奇怪な行動の意味を理解して、シルファは用意されていたものを身に着ける。どう考えても、この爽快な身体は聖女の血の恩恵を受けたはずである。

 力にも余裕があり、今なら魔術を行使できそうだった。
 シルファが着替えを終えると、ミアが居心地の悪そうな顔をして部屋の中ほどに据えられた大きな長椅子に戻ってきた。

「シルファ、大丈夫?」

 倒れる前と全く変わらないミアの様子が、シルファには理解できない。

「おまえはどうして、ここに?」

「どうしてって、何も覚えてないの?」

「――残念ながら」

 ミアがほっとしたように吐息をついた。何らかの経緯はあったようだが、一線を越えた雰囲気ではない。もしかすると聖女への畏敬の念で、無意識に喪失を放ったのかと、シルファはあらゆる可能性を考える。

「でも、ミアから聖女の恩恵を受けたことは想像がつく」

「――うん。おかげさまで少し貧血気味」

 たしかにいつもより彼女の顔色を白く感じる。

 やはり血を求めたのだとわかったが、シルファには成り行きが繋がらない。ミアの記憶を改竄するとしても、吸血の記憶を残したまま辻褄を合わせるようなことはできないはずだ。

 あるいは、自分が考えているほどミアの貞操観念は重くなかったのだろうか。

「ミア、その――」

 言い淀んでいると、彼女がさっと顔を曇らせた。

「どうしたの? 具合が悪くなった? やっぱりまだ休んでいた方が良いんじゃない?」

「いや、そうじゃなくて――」

「とにかく横になっていよう? わたし、すぐにセラフィを呼んでくるから」

 ミアがぐいぐいとシルファの腕を引いて寝台へ引き戻す。ふいに自分よりも貧血気味のミアが休むべきではないかと、シルファはミアの細い腕を掴んだ。

「何?」

「顔色が悪いのは、ミアの方だろ。おまえが休んでいた方が良い。おかげ様で私は好調だ」

「わたしも、べつに横になるほどでは――、わ!」

 膝裏に腕を通して横抱きにすると、彼女は胸に身を寄せて来ることもなく、ひたすら慌てふためいているのが伝わってくる。抱き上げるだけでこの反応である。やはり貞操観念が軽いとは、到底思えない。

「ほんとに! わたし大丈夫なので!」

 ゆっくりと寝台に身体を横たえるようにおろすと、ミアはすぐに上体を起こした。けれど、その勢いに眩暈でも感じたのか、目元を抑えて俯く。シルファはトンと彼女の肩を押した。

「わ!」

 容易く倒れ込んだ彼女を挟むように、寝台に両手をついて起き上がることを防ぐ。シルファがミアの顔をのぞき込むと、彼女の蒼白い顔色が熟れた果実のように赤く染まった。
 どうやら血の巡りは悪くないらしい。

「本当に大丈夫なので、退いてください」

「貧血でふらついてる」

「そ、そんなことありません!」

 戸惑った時に出るミアの口調で、シルファはますますわからなくなる。これだけのことで焦るミアに、どうやって吸血を果たしたのか本気で謎だった。
 その時背後で慌てた声がした。

「わー! ちょっと待った! 待って下さい! まだ酔っているんですか? シルファ様!」

「セラフィ?」

 ミアを寝台に押し倒したまま振り返ると、セラフィが焦った顔をして駆け寄って来た。

「駄目ですよ! ミアは貧血気味だし! 心の準備的にも、まだシルファ様の相手は無理ですって!」

 シルファはミアから離れて、セラフィと向き合う。どうやら影の一族シャドウがこの不可解な謎の鍵を握っているようだ。

「どうなっている?」

 率直に問いかけると、セラフィはきょとんとした顔をした。

「まさか、何も覚えていないんですか?」

「覚えてない」

 素直に答えると、セラフィは含みのある微笑みを浮かべる。何かを面白がっているのが分かるが、シルファはあえて気が付かないふりをした。

「シルファ様、ミアに抱きたいって迫っていましたよ」

「……あり得ない」

「愛してるって言ってました」

「――っ!」

 さすがにシルファは言葉を失う。寝台の上に座っているミアを振り返ると、あたふたと焦りながら、顔を真っ赤に染めていた。
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