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第九章:甘い香り
7:聖女の血
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考えるだけで、ミアはかあっと全身に熱が巡る。頬が染まるのがわかった。
はっとセラフィの存在を思い出して視線を向けると、さっきまでの位置に彼女がいない。シルファ撃退用に彼女が握っていた置物が、すでに元の位置に飾られている。
セラフィは何を考えているのか、真剣な顔をして大きな鏡の染みを拭っていた。
(え? もう大丈夫ってこと?)
ミアがそう考えると同時に、再びシルファの腕に掴まってしまう。彼に背後から抱きすくめられて、ミアは焦る。力で征服するような恐れは感じないが、このまま同じ寝台にいるのは、絶対によろしくない。
「ミア」
囁くような声に、甘さが滲んでいる。耳元に彼の吐息が触れてミアは身体を強張らせた。
「ーー甘い。おまえは、柔らかくて甘いな」
「あ、甘くないです!――離してください!」
戸惑いのあまり、またしてもおかしな口調になってしまう。自分の鼓動が全身に響き渡っていた。聖女の恩恵で回復したとはいえ、シルファは病み上がりのようなものだ。照れ隠しに暴れることも出来ない。
何とか逃れようと、じたばたともがいていると、ふいにシルファの肩に引っ掻き傷があることに気づいた。白い肌に血が滲んでいる。
ミアは即座に自分の爪を見る。どうやら痛みのあまり爪が食い込んでいたようだ。
「シルファ、ごめん。それ」
背後から自分を抱いているシルファに咄嗟に謝ってしまう。
「ああ、爪痕か。――残しておきたい気もするが……」
「え?」
眺めていると、すうっとひっかいた痕が消失する。
ミアはふと噛みつかれた首筋を確かめてみたが、指先に傷痕が触れない。嚙み痕は残らないのだろうか。あれほどの激痛が、今となってはまるで幻のようだった。
崇高な一族の生き残り。
(もしかして、これが魔力?)
ミアが考え込んでいると、その隙を狙ったかのように、身体を引き倒すような圧力があった。あっと思った時には押し倒されていた。再び大きな寝台でシルファを仰ぐ。
「え? な、何?」
シルファの長い指が、ふいに引き裂かれたままの襟元から、鎖骨をたどる。ミアは咄嗟に身を固くした。
「――抱きたい」
「へ?」
「おまえの血に酔ってる。これ以上は理性が持ちそうにない」
はっきりと言われてミアは目を剥いた。いつもの冗談かと思ったが、シルファは笑っていない。
血のように赤い瞳に、思いつめた暗い光が宿っている。自分の影が見えるほどの至近距離に、彼の眼差しが迫っていた。
「ミア」
「む、無理です」
思い切り怖気づいてしまい、声が震える。
鎖骨から首筋をたどっていた彼の指先が、唇に触れてゆっくりとなぞった。ミアは身をよじろうとして気づく。仕草は穏やかだが、決して逃れられないように組み敷かれている。太刀打ちできない強い力。
シルファの手が、身体に触れた。
「はなして!」
「ミア、――……してる」
「え?」
「はーい! そこまでです!」
聞きなれた陽気な声と共に、ゴツっと鈍い音が響く。唐突に意識が断たれたシルファの身体が、ずしりとミアにのしかかって来た。セラフィの一撃を受けて、完全に気を失っている。
「これは、まだ正気じゃなかったかな?」
セラフィがふうっと大きく息をついて、手に持っていた置物を元の位置に飾る。
「シルファ様、完全に血に酔ってましたね。自制心まで破るなんて、ミアはやっぱり特別ですよ。さすがにちょっと焦りました」
「嘘ばっかり! 暢気に鏡を磨いていたくせに!」
ミアが抗議すると、セラフィはあっけらかんと答えた。
「いえ、本当ですよ。渇望だけはどうしようもないですけど、ああ見えてシルファ様は欲望よりはるかに自制心の方が強いです。その気じゃない相手に手を出したりしません。だから、渇望を満たして正気に戻ったかなって、少し油断しちゃいました」
「セラフィの言うことは信じられない!」
「いやいや、本当ですって。聖女の血の威力って凄いですね。崇高な一族を酔わせるなんて、本当に焦りました」
「聖女の血の威力?」
「ええ、めちゃくちゃ酔ってましたよ。色香に囚われていない相手に、まさか抱きたいなんて、記念に記録しておきたい位の台詞です」
「――……」
「ミアはやっぱり特別だから、シルファ様も色々とお手上げですね」
セラフィは可笑しそうに笑う。
(――特別……)
ミアには否定も肯定もできない。
「とにかく、シルファ様はそのまま少し眠らせておきましょう」
「あ、――うん」
セラフィは室外で待機している影の一族に指示を出すと、鼻歌を歌いながら、再び鏡を磨き始めた。
ミアは自分にのしかかったまま瞳を閉じているシルファを見る。さらりと彼の細い銀髪に触れた。温もりを取りもどした身体の逞しさを意識して、恥ずかしくなる。
とにかく良かったという気持ちを素直に噛み締めた。彼の下から這い出るようにして、ミアはようやく寝台からおりる。
(「――愛してる」)
かすれた声で、告げられた想い。
あれは聞き間違いだろうか。あるいは聖女の血に酔っていただけだろうか。どんなふうに受け止めれば良いのかわからないまま、ミアは横たわるシルファを見つめる。
(でも、聖女の血に酔えば、色気のない私相手でも、シルファはその気になれるんだ)
だから、きっと聞き間違いなのだろう。あるいは意味のない言葉だ。
(わたしは、シルファに何を望んでいるんだろう)
胸のうちに、甘い激流が渦巻いている。自分の心を占める気持ち。
切なくて、苦しい。
ミアはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
はっとセラフィの存在を思い出して視線を向けると、さっきまでの位置に彼女がいない。シルファ撃退用に彼女が握っていた置物が、すでに元の位置に飾られている。
セラフィは何を考えているのか、真剣な顔をして大きな鏡の染みを拭っていた。
(え? もう大丈夫ってこと?)
ミアがそう考えると同時に、再びシルファの腕に掴まってしまう。彼に背後から抱きすくめられて、ミアは焦る。力で征服するような恐れは感じないが、このまま同じ寝台にいるのは、絶対によろしくない。
「ミア」
囁くような声に、甘さが滲んでいる。耳元に彼の吐息が触れてミアは身体を強張らせた。
「ーー甘い。おまえは、柔らかくて甘いな」
「あ、甘くないです!――離してください!」
戸惑いのあまり、またしてもおかしな口調になってしまう。自分の鼓動が全身に響き渡っていた。聖女の恩恵で回復したとはいえ、シルファは病み上がりのようなものだ。照れ隠しに暴れることも出来ない。
何とか逃れようと、じたばたともがいていると、ふいにシルファの肩に引っ掻き傷があることに気づいた。白い肌に血が滲んでいる。
ミアは即座に自分の爪を見る。どうやら痛みのあまり爪が食い込んでいたようだ。
「シルファ、ごめん。それ」
背後から自分を抱いているシルファに咄嗟に謝ってしまう。
「ああ、爪痕か。――残しておきたい気もするが……」
「え?」
眺めていると、すうっとひっかいた痕が消失する。
ミアはふと噛みつかれた首筋を確かめてみたが、指先に傷痕が触れない。嚙み痕は残らないのだろうか。あれほどの激痛が、今となってはまるで幻のようだった。
崇高な一族の生き残り。
(もしかして、これが魔力?)
ミアが考え込んでいると、その隙を狙ったかのように、身体を引き倒すような圧力があった。あっと思った時には押し倒されていた。再び大きな寝台でシルファを仰ぐ。
「え? な、何?」
シルファの長い指が、ふいに引き裂かれたままの襟元から、鎖骨をたどる。ミアは咄嗟に身を固くした。
「――抱きたい」
「へ?」
「おまえの血に酔ってる。これ以上は理性が持ちそうにない」
はっきりと言われてミアは目を剥いた。いつもの冗談かと思ったが、シルファは笑っていない。
血のように赤い瞳に、思いつめた暗い光が宿っている。自分の影が見えるほどの至近距離に、彼の眼差しが迫っていた。
「ミア」
「む、無理です」
思い切り怖気づいてしまい、声が震える。
鎖骨から首筋をたどっていた彼の指先が、唇に触れてゆっくりとなぞった。ミアは身をよじろうとして気づく。仕草は穏やかだが、決して逃れられないように組み敷かれている。太刀打ちできない強い力。
シルファの手が、身体に触れた。
「はなして!」
「ミア、――……してる」
「え?」
「はーい! そこまでです!」
聞きなれた陽気な声と共に、ゴツっと鈍い音が響く。唐突に意識が断たれたシルファの身体が、ずしりとミアにのしかかって来た。セラフィの一撃を受けて、完全に気を失っている。
「これは、まだ正気じゃなかったかな?」
セラフィがふうっと大きく息をついて、手に持っていた置物を元の位置に飾る。
「シルファ様、完全に血に酔ってましたね。自制心まで破るなんて、ミアはやっぱり特別ですよ。さすがにちょっと焦りました」
「嘘ばっかり! 暢気に鏡を磨いていたくせに!」
ミアが抗議すると、セラフィはあっけらかんと答えた。
「いえ、本当ですよ。渇望だけはどうしようもないですけど、ああ見えてシルファ様は欲望よりはるかに自制心の方が強いです。その気じゃない相手に手を出したりしません。だから、渇望を満たして正気に戻ったかなって、少し油断しちゃいました」
「セラフィの言うことは信じられない!」
「いやいや、本当ですって。聖女の血の威力って凄いですね。崇高な一族を酔わせるなんて、本当に焦りました」
「聖女の血の威力?」
「ええ、めちゃくちゃ酔ってましたよ。色香に囚われていない相手に、まさか抱きたいなんて、記念に記録しておきたい位の台詞です」
「――……」
「ミアはやっぱり特別だから、シルファ様も色々とお手上げですね」
セラフィは可笑しそうに笑う。
(――特別……)
ミアには否定も肯定もできない。
「とにかく、シルファ様はそのまま少し眠らせておきましょう」
「あ、――うん」
セラフィは室外で待機している影の一族に指示を出すと、鼻歌を歌いながら、再び鏡を磨き始めた。
ミアは自分にのしかかったまま瞳を閉じているシルファを見る。さらりと彼の細い銀髪に触れた。温もりを取りもどした身体の逞しさを意識して、恥ずかしくなる。
とにかく良かったという気持ちを素直に噛み締めた。彼の下から這い出るようにして、ミアはようやく寝台からおりる。
(「――愛してる」)
かすれた声で、告げられた想い。
あれは聞き間違いだろうか。あるいは聖女の血に酔っていただけだろうか。どんなふうに受け止めれば良いのかわからないまま、ミアは横たわるシルファを見つめる。
(でも、聖女の血に酔えば、色気のない私相手でも、シルファはその気になれるんだ)
だから、きっと聞き間違いなのだろう。あるいは意味のない言葉だ。
(わたしは、シルファに何を望んでいるんだろう)
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