上 下
41 / 83
第九章:甘い香り

6:激痛

しおりを挟む
 まるで人形に口づけをしているかのように、冷たい唇だった。深く探ってみても、どこにも温もりが感じられない。ただ味覚は彼の甘さに反応する。

 効率良く唾液を与えるために、本能的にそう仕掛けられているのだろうか。
 まさに瀕死の人に救命措置を行うように、ミアは必死で励みながら無駄なことを考えてしまう。いつもなら既にふわりとした浮遊感に襲われ、意識が背徳的な波に囚われるが、今日は色香避けが効いているのか、思考が明瞭だった。

 何にも囚われず、頭がはっきりしているからこそ恥ずかしくもなるが、今は使命感が上回っていた。人形のように微動だにしないシルファは冷たく、すでに屍のようだった。彼に死んでほしくない。シルファがいなくなることなど考えられない。

 自分の熱が移っていくのか、少しずつ彼に温もりが戻っている気がして、ミアはいったん聖女の恩恵を中断する。

 頰に触れて体温をたしかめる。まだひやりと冷たい。何か変化がないかと彼の顔をじっと眺めていると、瞬きそうに、長いまつ毛がかすかに震えた。
 途端に、辺りに一気に甘い芳香が広がって、ミアを捉えるように充満する。

「シルファ?」

 放たれた色香。芳醇な香りがどこまでも密度を増していく。意識が戻ったのかと期待した瞬間、ミアは強い力に腕を掴まれた。どっと寝台に引き倒される。

「――っ」

 突然の衝撃に何が起きたのか分からない。一瞬で天地が逆転して、自分を見下ろすシルファの真紅の瞳を見つけた。

 彼に組み敷かれていると考える間もなく、ブラウスの襟元を引き裂くような力が加わる。思わず悲鳴をあげたが、シルファは動じない。まるで獲物を狙う肉食獣のようにミアを力で征服する。赤い眼光に恐ろしい本能が宿っていた。正気からは程遠いのが、一目でわかる。

(――怖いっ!)

 ミアが身を固くしても、シルファは力を緩めない。あらわになった首筋にためらわず歯を当てる。ぶつりと皮膚を破る嫌な音がした瞬間、ミアは強烈な痛みに襲われた。

「いっ!」

 シルファへの恐れも吹き飛ぶほど、痛みの事しか考えられない。脳裏に星が飛ぶほどの衝撃だった。頸動脈が激しく波打っているリズムに合わせて、首筋に千切れそうな痛みが刻まれる。歯を食いしばっていても、あまりの激痛に涙が滲む。

「痛いっ! いっ! いたい、いたい――っ!」

「ミア! 耐えてください!」

 チカチカと痛みで視界が明滅しているが、セラフィの声は聞き取れた。

「こんなに痛いなんて聞いてないっ!」

「え? 私ちゃんと説明しましたよね」

「いっ! 痛っ――! 痛い!」

「だから、めちゃくちゃ痛いですって言ったじゃないですか」

「もう! 痛い――っ!」

 不思議と他人事のようなセラフィの声は頭に入ってくる。ミアは彼女の能天気な声に殺意を覚えながら、とにかく早くこの痛みから逃れたいとひたすらそれだけを願う。泣きながら痛いと悲鳴をあげて耐えていると、ふいに痛みが遠ざかった。

 さっきまでの激痛が嘘のように、ふうっと消失する。何とか耐え切れたと体の力を抜くと同時に、シルファが嚙み痕に舌を這わせた。ミアがびくりと反応すると、のしかかっていた身体が少し離れる。自分を抑え込んでいた力が緩んだ。

「……ミア……?」

 聞きなれた声に獰猛さはない。癖のない髪をかき上げながら、シルファが驚いたようにこちらを見ている。依然として瞳は赤いが、正気を取り戻したようだった。

「う……」

 ミアは痛みからの解放と、目覚めたシルファへの安堵で、いっきに気持ちが緩んだ。言葉にできない感情がこみ上げて、すぐに視界が滲む。涙が溢れて止まらない。

「う、良かった。――っ、シルファが、死んじゃうんじゃないかって……」

 シルファはいつもの労わるような眼差しで、寝台に横たわったまま嗚咽するミアを見下ろしている。

「すごく、怖かったし、――っ、痛かった……」

 胎児のように丸くなって、ミアは声を上げて泣いた。緩んだ気持ちに歯止めが効かない。
 シルファは状況を察したのか、寝台で子供のように泣くミアを抱き起こす。さっきまでの乱暴な力が嘘のように、優しく抱き締めてくれた。

「――悪かった。ありがとう」

「う……」

 ミアはぼろぼろと涙で顔を濡らす。しゃくりあげるようにして泣いていると、シルファの大きな手が、涙に濡れたミアの手をそっと握った。頬を伝う涙をついばむように唇を寄せる。ミアの涙に触れながら、やがてシルファが唇を重ねた。
 味覚に甘さが宿ると、ミアは少し落ち着きを取り戻す。辺りはまだ甘い香りで満ちていた。

(――ん? んん?)

 混乱した気持ちが落ち着くと、色香に囚われることがない意識は、迷わず羞恥心を叩き起こす。正気を取り戻したシルファには、既に聖女の恩恵は足りているはずなのだ。

 何のために唇を重ねているのか、はっきり言って理由がない。加えて自分を抱いている彼から伝わる、生身の体温。無我夢中で気が付かなかったが、シルファは寝台の肌掛け以外は、何も纏っていなかったのだ。

 ミアはべりっと引きはがれるように、瞬時にシルファから距離を取った。
 こちらを見る彼の瞳は、怖いくらいに美しい真紅に染まっている。まだ渇望しているのだろうか。それとも――。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

帝国の花嫁は夢を見る 〜政略結婚ですが、絶対におしどり夫婦になってみせます〜

長月京子
恋愛
辺境の小国サイオンの王女スーは、ある日父親から「おまえは明日、帝国に嫁入りをする」と告げられる。 幼い頃から帝国クラウディアとの政略結婚には覚悟を決めていたが、「明日!?」という、あまりにも突然の知らせだった。 ろくな支度もできずに帝国へ旅立ったスーだったが、お相手である帝国の皇太子ルカに一目惚れしてしまう。 絶対におしどり夫婦になって見せると意気込むスーとは裏腹に、皇太子であるルカには何か思惑があるようで……?

【完結】神から貰ったスキルが強すぎなので、異世界で楽しく生活します!

桜もふ
恋愛
神の『ある行動』のせいで死んだらしい。私の人生を奪った神様に便利なスキルを貰い、転生した異世界で使えるチートの魔法が強すぎて楽しくて便利なの。でもね、ここは異世界。地球のように安全で自由な世界ではない、魔物やモンスターが襲って来る危険な世界……。 「生きたければ魔物やモンスターを倒せ!!」倒さなければ自分が死ぬ世界だからだ。 異世界で過ごす中で仲間ができ、時には可愛がられながら魔物を倒し、食料確保をし、この世界での生活を楽しく生き抜いて行こうと思います。 初めはファンタジー要素が多いが、中盤あたりから恋愛に入ります!!

[完結]貴方なんか、要りません

シマ
恋愛
私、ロゼッタ・チャールストン15歳には婚約者がいる。 バカで女にだらしなくて、ギャンブル好きのクズだ。公爵家当主に土下座する勢いで頼まれた婚約だったから断われなかった。 だから、条件を付けて学園を卒業するまでに、全てクリアする事を約束した筈なのに…… 一つもクリア出来ない貴方なんか要りません。絶対に婚約破棄します。

愛を知らない「頭巾被り」の令嬢は最強の騎士、「氷の辺境伯」に溺愛される

守次 奏
恋愛
「わたしは、このお方に出会えて、初めてこの世に産まれることができた」  貴族の間では忌み子の象徴である赤銅色の髪を持って生まれてきた少女、リリアーヌは常に家族から、妹であるマリアンヌからすらも蔑まれ、その髪を隠すように頭巾を被って生きてきた。  そんなリリアーヌは十五歳を迎えた折に、辺境領を収める「氷の辺境伯」「血まみれ辺境伯」の二つ名で呼ばれる、スターク・フォン・ピースレイヤーの元に嫁がされてしまう。  厄介払いのような結婚だったが、それは幸せという言葉を知らない、「頭巾被り」のリリアーヌの運命を変える、そして世界の運命をも揺るがしていく出会いの始まりに過ぎなかった。  これは、一人の少女が生まれた意味を探すために駆け抜けた日々の記録であり、とある幸せな夫婦の物語である。 ※この作品は「小説家になろう」「カクヨム」様にも短編という形で掲載しています。

処理中です...