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第六章:教会の菜園
2:聖なる双書
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シルファが食卓を離れると、ミアも教会へ向かう支度を始めた。楽しく過ごせるならそれで良いが、存在を公にした以上、彼女から完全に目を離すことはできない。
教会に用向きがあるという理由をつけて、ミアの行き先にはいつも偶然を装ってセラフィを同行させている。
セラフィは影の一族の中でも比類のない情報網を持っている。ひとえに人懐こい性格にも起因しているが、ミアもセラフィには心を許しているようだった。
シルファは事務所の窓から、二人が前の通りを歩いていくところを見送った。自分やベルゼにはない華やかな空気。楽しそうに話しながら歩いていく様子は、仲の良い友人同士にしか見えない。
姿が追えなくなると、シルファはベルゼを含む数人の部下を振り返る。
「それで? ――やはり、魔力の気配はないか」
先日、王宮で催された晩餐会で堂々と行われた殺人。犠牲となったのは王宮の世話係の女で、発見された時には周りは血の海だった。抉り出された心臓が、これまでの事件をなぞるように潰され、遺体の傍らにあった。シルファも最初に発見した者の悲鳴ですぐに駆けつけたので、その惨状を間近で確認できた。
犯人は事件当夜、すぐに捕まった。夥しい返り血を美しい衣装に浴びたまま、子爵令嬢が名乗り出たのだ。動機は「魔女であることを確信したから」という、要領を得ない内容だった。
現在は犯罪対策庁が被害者と加害者の間に何らかの確執がなかったかを、慎重に探っている。
シルファも犯行に及んだ女と面会をしたが、魔力や呪術の関わりは感じなかった。
「今回の件では、呪術の疑似的な痕跡もありません」
ベルゼの言葉に、周りの部下も一様に頷いた。
「そうか。――にしても、正気の沙汰ではないがな」
女がわかりやすく狂気に囚われている方が、シルファには救いがあるように感じられた。
なぜ魔女だと確信したのか。なぜ自ら裁く必要があったのか。
女の答えはなかった。
取り乱すこともない様子に、シルファは女と対峙しながら得体の知れない不気味さを感じた。
「どうにも納得がいかないな。発作的な感情があった訳でもなく、強い恨みもない。すぐに犯行が明らかになるような王宮で、計画性もあるとは言えない。理由もよくわからない」
シルファはお手上げだと言いたげに、部下の前でわかりやすく肩をすくめた。
魔力も呪術も関わらないとすると、シルファの出る幕はない。自分はひどく見当違いなことをしているのではないかと思えてくる。
「これまでには、何件か模様を描いた者があったな」
呪術の擬似的な痕跡、――魔法陣のことを示している。
「はい。と言っても、全てが聖なる黒の書の記述にも添わないような、いい加減なものでしたが」
「――人が黒の書に触れることはできないしな。ただ、不完全な疑似魔力が、偶然厄災をもたらすことはあるが」
「とはいえ、一連の事件で発見されたものは、何かを可能にするようなものではありません」
「まぁ、結局は魔力がなければ、もし忠実に再現できたとしても、ほぼ模様でしかないからな」
浅く笑って見せてから、シルファは顎に手を乗せて、黙り込む。
一連の事件が、聖なる黒の書に魅せられた者達の仕業かとも考えたが、全ての事件に通じる情報でもない。けれど、一時期にそんな偶然が重なるのも変だというのが、素直な感想だった。
マスティア王国に存在する教会は、聖なる黒の書と聖なる白の書をもたらしたとされる聖者を神格化して崇拝している。
聖なる双書は、元は崇高な一族が著した物だ。
黒魔術を記した、聖なる黒の書。
白魔術を記した、聖なる白の書。
遡れば、本来であれば王家が受け継ぐはずの書物であるが、皮肉なことに聖者と王家の関わりはないものとして、教会の教えは広がっている。
王家の始祖がヴァンパイアとなった経緯には、神格化した聖者を王家から切り離す教会の意図が働いていた。
教会は聖者を崇拝し、聖なる白の書を聖典としているのだ。
時折、聖なる黒の書を崇拝する者達が現れるが、たいていは碌な活動内容ではない。教会は黒の書については、白の書の対として在るという存在だけを認めている。内容を認めることはなく、触れることは禁忌とされていた。
「アラディアの気配もない、か」
「――はい。残念ながら」
シルファはこの一連の事件から大魔女を追うのは、潮時かと考え始めていた。どんなに影の一族を使役しても、大魔女の気配は浮かび上がってこない。
魔力も呪術の片鱗すらもない。やはり人の犯した過ちが、偶然連鎖しているだけなのだろうか。
それとも圧倒的な魔力差によって、見えなくされているのだろうか。
魔力の痕跡を絶つことが可能ならば、シルファには敗北しかない。
自分の計画も、ミアとの約束も、何も果たせない。
これ以上事件を詮索し続けても意味がないと考える反面、やはり偶然で片付けるのは腑に落ちない。
アラディアの介入がなくても、事件の背後には、人々を動かす何らかの力があるような気がしていた。それを洗脳と片付けるのか、あるいは信仰と仮定するのかはわからない。
けれど魔女と言う幻を利用して、操っている何かがあるような気がしている。
「アラディアが加担していなかったとしても、やはり不自然なのは否めないな。魔力の痕跡ばかりに囚われていたが、黒幕が人である可能性を考えて、そろそろ視点を変えてみようか」
「あなたらしい考え方ですね」
自分の目的とは関係がなくても、シルファには放っておくことはできない。
人のために尽くすこと。シルファが彼女――アラディアと相いれなかった最大の理由。思えばもう少し歩み寄ることも出来たのかもしれないが、どう考えても彼女の振る舞いを見過ごすことはできなかった。
一族の総意として、断罪を架した結果――。
シルファは意味のない後悔だと、固く目を閉じて頭を切り替える。
「一連の事件も追い続けるが、ミアの存在で大魔女が釣れる可能性もある。ベルゼ、しばらく変幻してみるか」
「変幻に魔力が必要であることはご存知ですか?」
「なんだ? いきなり皮肉か?」
「心臓を失ったあなたの消耗を心配しているだけです。果たして、聖女の唾液だけで補えますか?」
優秀な部下はどうやら全てを見通しているらしい。シルファが軽く睨んでも、ベルゼは無表情のままこち
らを見つめている。
「私には崇高な一族が聖女に抱く畏敬の念をうかがい知ることはできません。しかし、聖女を慈しむあまり、シルファ様に負担が生じるのは看過できません。影の一族にとっては、聖女は崇高な一族の糧でしかありません」
シルファはベルゼにひらひらと手を振って見せる。
「おまえと不毛な議論をするつもりはないよ」
「――喪失を施せば、何の問題もないのでは?」
ベルゼの言いたいことはわかる。事実として渇望を癒す為に、これまでは社交場を利用して後腐れなくやり遂げてきた。ミアにも同じ振る舞いが可能だが、唾液を貪るだけでも呵責がのしかかってくるのだ。シルファとしては、今以上に罪悪感を強くすることは避けたい。
それに。
聖女の血に酔って、自分は今のままでいられるだろうか。理性を手放し暴走しないとも限らない。
そんなことになったら目も当てられない惨状になるだろう。
欲望の限りミアを犯し尽くし、もし心臓を望んでしまったら。
自分の思い描く未来が、全て台無しになってしまう。
「おまえには悪いが、私はデリケートなんだ」
苦悩や葛藤を悟られないように、シルファは軽口でごまかした。ベルゼは全く表情を動かさない。
「もともと、あなたは人に優しい。聖女ともなれば、筆舌に尽くしがたい思いがあるのでしょうね」
これ以上は無駄な会話だと考えたのか、珍しくベルゼがすぐに引いた。
「私の心中を前向きに察してくれて、嬉しいよ」
さらに軽口を重ねると、ベルゼからは冷ややかな視線だけが返ってきた。
教会に用向きがあるという理由をつけて、ミアの行き先にはいつも偶然を装ってセラフィを同行させている。
セラフィは影の一族の中でも比類のない情報網を持っている。ひとえに人懐こい性格にも起因しているが、ミアもセラフィには心を許しているようだった。
シルファは事務所の窓から、二人が前の通りを歩いていくところを見送った。自分やベルゼにはない華やかな空気。楽しそうに話しながら歩いていく様子は、仲の良い友人同士にしか見えない。
姿が追えなくなると、シルファはベルゼを含む数人の部下を振り返る。
「それで? ――やはり、魔力の気配はないか」
先日、王宮で催された晩餐会で堂々と行われた殺人。犠牲となったのは王宮の世話係の女で、発見された時には周りは血の海だった。抉り出された心臓が、これまでの事件をなぞるように潰され、遺体の傍らにあった。シルファも最初に発見した者の悲鳴ですぐに駆けつけたので、その惨状を間近で確認できた。
犯人は事件当夜、すぐに捕まった。夥しい返り血を美しい衣装に浴びたまま、子爵令嬢が名乗り出たのだ。動機は「魔女であることを確信したから」という、要領を得ない内容だった。
現在は犯罪対策庁が被害者と加害者の間に何らかの確執がなかったかを、慎重に探っている。
シルファも犯行に及んだ女と面会をしたが、魔力や呪術の関わりは感じなかった。
「今回の件では、呪術の疑似的な痕跡もありません」
ベルゼの言葉に、周りの部下も一様に頷いた。
「そうか。――にしても、正気の沙汰ではないがな」
女がわかりやすく狂気に囚われている方が、シルファには救いがあるように感じられた。
なぜ魔女だと確信したのか。なぜ自ら裁く必要があったのか。
女の答えはなかった。
取り乱すこともない様子に、シルファは女と対峙しながら得体の知れない不気味さを感じた。
「どうにも納得がいかないな。発作的な感情があった訳でもなく、強い恨みもない。すぐに犯行が明らかになるような王宮で、計画性もあるとは言えない。理由もよくわからない」
シルファはお手上げだと言いたげに、部下の前でわかりやすく肩をすくめた。
魔力も呪術も関わらないとすると、シルファの出る幕はない。自分はひどく見当違いなことをしているのではないかと思えてくる。
「これまでには、何件か模様を描いた者があったな」
呪術の擬似的な痕跡、――魔法陣のことを示している。
「はい。と言っても、全てが聖なる黒の書の記述にも添わないような、いい加減なものでしたが」
「――人が黒の書に触れることはできないしな。ただ、不完全な疑似魔力が、偶然厄災をもたらすことはあるが」
「とはいえ、一連の事件で発見されたものは、何かを可能にするようなものではありません」
「まぁ、結局は魔力がなければ、もし忠実に再現できたとしても、ほぼ模様でしかないからな」
浅く笑って見せてから、シルファは顎に手を乗せて、黙り込む。
一連の事件が、聖なる黒の書に魅せられた者達の仕業かとも考えたが、全ての事件に通じる情報でもない。けれど、一時期にそんな偶然が重なるのも変だというのが、素直な感想だった。
マスティア王国に存在する教会は、聖なる黒の書と聖なる白の書をもたらしたとされる聖者を神格化して崇拝している。
聖なる双書は、元は崇高な一族が著した物だ。
黒魔術を記した、聖なる黒の書。
白魔術を記した、聖なる白の書。
遡れば、本来であれば王家が受け継ぐはずの書物であるが、皮肉なことに聖者と王家の関わりはないものとして、教会の教えは広がっている。
王家の始祖がヴァンパイアとなった経緯には、神格化した聖者を王家から切り離す教会の意図が働いていた。
教会は聖者を崇拝し、聖なる白の書を聖典としているのだ。
時折、聖なる黒の書を崇拝する者達が現れるが、たいていは碌な活動内容ではない。教会は黒の書については、白の書の対として在るという存在だけを認めている。内容を認めることはなく、触れることは禁忌とされていた。
「アラディアの気配もない、か」
「――はい。残念ながら」
シルファはこの一連の事件から大魔女を追うのは、潮時かと考え始めていた。どんなに影の一族を使役しても、大魔女の気配は浮かび上がってこない。
魔力も呪術の片鱗すらもない。やはり人の犯した過ちが、偶然連鎖しているだけなのだろうか。
それとも圧倒的な魔力差によって、見えなくされているのだろうか。
魔力の痕跡を絶つことが可能ならば、シルファには敗北しかない。
自分の計画も、ミアとの約束も、何も果たせない。
これ以上事件を詮索し続けても意味がないと考える反面、やはり偶然で片付けるのは腑に落ちない。
アラディアの介入がなくても、事件の背後には、人々を動かす何らかの力があるような気がしていた。それを洗脳と片付けるのか、あるいは信仰と仮定するのかはわからない。
けれど魔女と言う幻を利用して、操っている何かがあるような気がしている。
「アラディアが加担していなかったとしても、やはり不自然なのは否めないな。魔力の痕跡ばかりに囚われていたが、黒幕が人である可能性を考えて、そろそろ視点を変えてみようか」
「あなたらしい考え方ですね」
自分の目的とは関係がなくても、シルファには放っておくことはできない。
人のために尽くすこと。シルファが彼女――アラディアと相いれなかった最大の理由。思えばもう少し歩み寄ることも出来たのかもしれないが、どう考えても彼女の振る舞いを見過ごすことはできなかった。
一族の総意として、断罪を架した結果――。
シルファは意味のない後悔だと、固く目を閉じて頭を切り替える。
「一連の事件も追い続けるが、ミアの存在で大魔女が釣れる可能性もある。ベルゼ、しばらく変幻してみるか」
「変幻に魔力が必要であることはご存知ですか?」
「なんだ? いきなり皮肉か?」
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優秀な部下はどうやら全てを見通しているらしい。シルファが軽く睨んでも、ベルゼは無表情のままこち
らを見つめている。
「私には崇高な一族が聖女に抱く畏敬の念をうかがい知ることはできません。しかし、聖女を慈しむあまり、シルファ様に負担が生じるのは看過できません。影の一族にとっては、聖女は崇高な一族の糧でしかありません」
シルファはベルゼにひらひらと手を振って見せる。
「おまえと不毛な議論をするつもりはないよ」
「――喪失を施せば、何の問題もないのでは?」
ベルゼの言いたいことはわかる。事実として渇望を癒す為に、これまでは社交場を利用して後腐れなくやり遂げてきた。ミアにも同じ振る舞いが可能だが、唾液を貪るだけでも呵責がのしかかってくるのだ。シルファとしては、今以上に罪悪感を強くすることは避けたい。
それに。
聖女の血に酔って、自分は今のままでいられるだろうか。理性を手放し暴走しないとも限らない。
そんなことになったら目も当てられない惨状になるだろう。
欲望の限りミアを犯し尽くし、もし心臓を望んでしまったら。
自分の思い描く未来が、全て台無しになってしまう。
「おまえには悪いが、私はデリケートなんだ」
苦悩や葛藤を悟られないように、シルファは軽口でごまかした。ベルゼは全く表情を動かさない。
「もともと、あなたは人に優しい。聖女ともなれば、筆舌に尽くしがたい思いがあるのでしょうね」
これ以上は無駄な会話だと考えたのか、珍しくベルゼがすぐに引いた。
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