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第七章:花嫁の記憶と夜叉

32:花嫁の記憶

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 暮れなずむ空の下での情景がみえる。
 祖母と暮らした家屋の影で、葛葉くずはの首を押さえようと伸びてきた、痩せた女の手。

 骨と皮だけの腕は、力がこめられる前にはなれた。
 突風にあおられるように、鮮やかな炎が目の前ではじける。

 とつぜん発火した女は、舞い踊るようにくるくると体をよじらせた。今思えば、あれは苦痛にのたうち回っていたのだ。

 断末魔の悲鳴はながく続かず、女はすぐに声を失った。
 赤い炎の向こう側で、着物はすぐに燃え落ち、皮膚と肌を焼いて、肉も燃え尽きた。

 一瞬のことで、幼い葛葉くずはには何が起きたのかわからなかった。
 そして人の死を理解するには、まだ幼すぎたのだ。

 赤くゆらめく炎。

 全てを燃やし尽くすと、火は何事もなかったかのように消失した。後に残ったのは、白い骨。
 夕日に照らされて赫灼かくしゃくとしたススキ野原から、緩やかな風が吹いてくる。
 まるで石ころが散らばるように、白い骨が土の上に転がっていた。

 呆然と立ち尽くす葛葉くずはの耳に、地面をこするような音が触れる。はっとして振り返ると、さっきまで一緒に遊んでいた童女が、腰を抜かしてじりじりと後ずさっていた。顔色は蒼白で、表情が固くこわばっている。

 恐ろしいものを見たという恐怖が、童女の黒目がちの目に現れていた。

(――ちゃん?)

 まだ事態が把握できないまま、葛葉くずはは童女に呼びかけた。何が起きたのか教えてほしかったのだ。

(燃やしたの?)

 童女は信じられないものを見るような引きつった表情で、まっすぐに葛葉くずはをみていた。

(そんな――)

(え?)

 声がかすれていて、葛葉くずはにはよく聞き取れない。

(――ちゃん?)

(近寄るな!)

 一緒にいると自分まで同じ目に合うと言いたげに、童女が慌てふためいた様子で立ち上がると踵をかえす。

(待って! ――ちゃん?)

(くるな! くるな!)

 童女が転げそうな勢いで、脱兎のごとくススキ野原へ飛び込んだ。ススキの背丈がすぐに彼女の姿を隠して、葛葉くずはは見失ってしまう。

(待って! 待って!)

 心細さとともに、じわじわと心が現実を咀嚼しはじめた。

 発火した女。炎に包まれたまま舞い踊り、かき消えた悲鳴。思い出すと、ひたすら恐ろしかった。どうしたら良いのかもわからない。家の前に独りで残され、恐ろしさと不安で押しつぶされそうになって泣きだすと、しばらくしてから祖母が帰宅した。

葛葉くずは、もう大丈夫)

 祖母はいつも優しい。何があっても、葛葉くずはを責めることはない。
 泣きじゃくる葛葉くずはを抱きしめて、とんとんと背中を叩いてあやしてくれる。

(もう大丈夫だよ)

 祖母の穏やかな声。いつもの温もり。祖母の気配で、恐怖と不安が拭われていった。
 だから、葛葉くずはは気づかなかったのだ。あの炎を自分が放ったのだということを。
 自分が女を燃やし、焼き殺してしまったのだと。

 ずっと知らずに過ごしていた。
 祖母と暮らした家が焼失する、あの火災が起きるまで。





 目覚めると、葛葉くずははすべてを悟っていた。思い出したのだ。
 夢が気持ちの緩衝材になったのか、不思議と落ち着いていた。

 自分に迫ってきた千代の母親が、忘れていた過去の情景と重なった。蘇った記憶に心が恐慌し、葛葉くずはの意識は即座に遮断された。

(でも、よかった。あの時のように火を放たずにすんだ)

 気を失ったことが幸いした。
 幼い葛葉くずはの前で炎に包まれた人影。千代の母親を同じように燃やしてしまわなかったことだけが、救いだった。

(あの女性はどうなったんだろう。千代ちゃんも)

 本当に親子であったのかは怪しい。二人のその後が気になったが、葛葉くずははその場から動けない。
 自分の犯した罪が、心の深淵から蘇ったのだ。もう特務隊の一員でいられるはずもない。

(どうして忘れていたんだろう)

 記憶の引き金となった、千代を迎えにきた母親。自分に伸びてきた、骨と皮だけのような痩せた腕。まるで昔の状況を再現するように、葛葉くずはの記憶をゆさぶった。

(わたしの異能は、人を焼く)

 祖母との思い出の向こう側にしまい込まれていた、赤くゆらめく炎。

 葛葉くずははゆっくりと身を起こした。特務第三隊の集う屋敷の奥に用意された上段の間だった。気を失った自分を、誰かがここまで運んで休ませてくれたのだろう。

(特務部に入って身を立てるなんて……)

 ひどく自虐的な気持ちで、自分のことを嗤いたくなる。

(わたしには、なにひとつ資格などなかったのに)

 人を助ける前に、まず罪を贖わねばならない。
 葛葉くずはの罪は、夢に見た情景だけではないのだ。あれからも何度か同じようなことがあった。
 繰り返されていたのだ。

 幼い葛葉くずはの目の前にあらわれる、様子のおかしい大人。それも異能の一端なのだろうか。

(わたしの目を見ると、よくないことが起きる……)

 刻みこまれていた思い込みは、正しかったのだ。
 自分を捉えようとする手。骨と皮だけの腕は、まるでがしゃ髑髏のように見えた。

 逃れたい。ただその一心があるだけで。
 けれど。

 火の犠牲になったのは、いつも友だちの家族だった。
 千代の黒目がちの瞳に心がざわついたのは、幼い子どもによく見られる眼だったからだ。
 今となっては、幼い頃の友達の顔形はよく覚えていない。千代に似た子も、似ていない子もいたのだろう。
 ただ幼くつぶらな瞳が、恐怖で引き攣るのを何度も見ていた。

 葛葉くずはが人の目を見つめることが恐ろしくなった本当の理由。

(わたしの前から友だちがいなくなったのは……)

 神隠しでもなんでもない。友だちの姿が見えなくなったのは、親を亡くし住まいを移したからだ。

(いま思い返すと、心当たりがいくつもある)

 祖母が葛葉くずはを連れて、集落へ赴いていた理由が明らかになる。身を焼かれた後にのこった遺骨の行方。祖母は遺骨を納めた箱を抱いて、葛葉くずはを連れて集落にある寺院を訪れていた。
 葛葉くずはの放った炎で、亡くなった者を弔うために。

(おばあちゃんは、ずっと私の罪を知っていた)

 知っていて、何も語らなかった。叱ることも責めることもなかった。
 そして、あの火災の日がやってきた。
 葛葉くずはが自分の罪を理解した日。罪の意識で異能が暴走し、炎が全てを焼き尽くした。
 記憶も、罪も。
 あとに残ったのは、炎の向こう側に消えた祖母の姿と、赤い炎の記憶だけ。

御門みかど様に、全てを告白しなければ)

 途端に、葛葉くずははやりきれない気持ちになる。

(わたしの異能が人を救うと信じてくれたのに)

 目を逸らすなと叱咤し、進むべき道を教えてくれた。けれど、やはり葛葉くずはには輝いた道を行く資格がなかった。どんな顔をすれば良いのかもわからない。

「どうして、こんなことに」

 やりきれない。悲しい。そして悔しい。

(――おまえも、ある意味逸材だがな)

 称えてくれた可畏かいの声を、はっきりと思い描くことができる。

(――力のこともあるが。私が言っているのは、その前向きさだ)

「う……」

 じわりと目頭に熱がこもる。熱はあっという間に視界を包んで、葛葉くずはの世界を涙で歪ませた。

(お役に立ちたかったのに)

 さっきまで当たり前だった意欲が、今はもう許されない。葛葉くずはは歯を食いしばって、泣き声をおし殺す。

(わたしの異能は、期待に応えられない)

 自分を守るために、異形ではなく人を殺めてきた力なのだ。
 羅刹らせつの花嫁と謳われるような、神聖な力ではなかった。
 帝の妖である玉藻も、夢見について完璧ではないと言っていた。すべて間違いだったのだ。

(わたしはただの人殺しだ)

 何もかも忘れて、のうのうと生きてきたことすら忌まわしい。

(申し訳ありません)

 溢れる涙を何度も拭いながら、葛葉くずはは心のうちで繰り返し詫びた。

(申し訳ありません、……御門みかど様)
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