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第二章:花嫁の数奇な事情
8:異形の出現
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「道がちがうな」
独り言のような可畏の呟きを聞いて、葛葉はほころんでいた気持ちがふたたび張りつめる。斬新な自己紹介を面白がっていたのが嘘のように、彼の表情に厳しい気配がよみがえっていた。
この世のものとは思えない赤い眼が、禍々しいほどに美しくゆがむ。
皮肉げに口角をあげて嗤う横顔。影をひそめていた威圧感がみなぎり、葛葉は背筋にひやりとした刃を押しつけられたように、ぶるりと身震いした。
可畏の眇められた眼は、背を向けたまま一心に車を引く俥夫にそそがれている。
いつのまにか人通りの多い通りをそれて、二人をのせた人力車は寂れた街道を走っていた。
「どこへいくつもりだ」
可畏の問いにも答えず、俥夫は駆けつづける。葛葉は車を引く速度があがっていることに気づいた。踏み固めただけの道は、レンガで舗装された道とはことなり、細かな砂利や盛り上がりで座席が激しく上下する。
(尋常じゃないわ)
今まで経験したことのないような猛烈な速度感だった。手綱を失った暴れ馬を連想させる勢いで、人力車が走る。葛葉が勢いで放り出されるのではないかと危機感をおぼえたとき、可畏に腕をつかまれた。
「葛葉、とびおりるぞ」
「ええ!?」
驚くのも束の間だった。即座に強い力で引き寄せられ、体が高く宙に放りだされた。視界いっぱいに蒼穹がひろがり、自分の悲鳴がたかく響く。
(落ちる!)
浮遊感が失われ、重力の支配に切り替わる。地面に叩きつけられる痛みを覚悟して固く目を閉じると、ふたたび強い力に引き寄せられた。
痛みとは無縁の柔らかな衝撃。ふわりと爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。線香のような幽玄な香りとは異なった、果物を連想させる、瑞々しい芳香。
可畏に肩を抱かれ、彼の懐に身を預けているのだと理解した瞬間、恍惚とした香りが弾けて失せる。
息がつまるような、強い振動があった。
「大丈夫か?」
彼は葛葉を抱いたまま見事に着地を果たした。
「は、はい! 御門様は?」
「問題ない」
可畏は葛葉をはなすと、前に立ちはだかるように街道へ向きなおる。乗客をうしなった人力車は、二人を置き去りにそのまま疾走を続けていた。やがて不自然に蛇行すると、荒屋に激突して横倒しになった。車輪が虚しく空回りし、ようやく停止する。
遠目にも土煙があがっているのが見えた。
「来るぞ。おまえは退がっていろ」
彼の言葉が終わらないうちに、横転した人力車から何かがこちらに駆けてくる。
不自然な輪郭。人とは思えない長い手足で地を這い、まるで蜘蛛のように動いている。
「ひっ」
あまりの奇怪さに葛葉の身がこわばる。
(あれは、もしかして……)
恐ろしかったが、目を逸らすことはできない。対峙した異形を迎え討とうとする可畏の背中を追うと、彼が葛葉をふりかえった。
「退がれ、葛葉」
「み、御門様も危ないです!」
「あんなものは雑魚だ」
「わたしにも何かできることがあれば、お役に立てます!」
「邪魔だ」
彼は容赦無く葛葉とつきはなす。
「仕方がないな。夜叉、どうせなら役に立て」
可畏が左腕を振ると、ぼうっと赤い炎が袖のように舞う。
「うあっち!」
炎にあぶり出されるように、とつぜん葛葉の前に少年が転げでた。
「燃やすなんて、ひどいよ!」
「え? え?」
「話はあとだ」
葛葉は少年の登場に仰天したが、目前には奇怪な蜘蛛男が迫っている。
「御門様、前!」
「わかっている。夜叉、葛葉をたのむ」
言いおいて、可畏がひらりと身をひるがえす。
「あ! 御門様!」
葛葉が追いすがろうとすると、行手をふさぐように現れた少年が立ちふさがる。
「ダメダメ。可畏の邪魔になる」
「でも、あれはわたしのせいかもしれない!」
突如現れた少年の素性も気になるが、葛葉は蜘蛛男から目がはなせない。
「車を引いていた人は、わたしの目を見てしまったのかも」
「すぐに終わるから! とにかくここでじっとしていて!」
少年に一喝されて、葛葉は可畏を追いかけることをあきらめた。軍の特務部を率いる可畏は百戦錬磨の能力者だ。彼が雑魚だと語るなら、結果を案じることはないのだろう。
異形については特務科で多くを学んでいるが、葛葉にはまだ実戦の経験がない。
携えている異能も、気休め程度のものなのだ。
成す術がなく葛葉は腕の数珠をなでる。
幼い頃から、周りで神隠しや失踪が後をたたなかった。
そして。
葛葉がもっとも心に刻んでいる光景は奇怪でおぞましい。今となっては、細部の記憶は失われているが、強烈な嫌悪感と恐怖だけは覚えていた。
めきめきと何かが生え変わるような、奇怪な人影。
祖母に数珠を授けてもらうまで、時折、目の前で異形化する人と出会った。
それは、ようやく物心がついた頃の体験。
朧げな記憶は、いつも途中で途切れている。異形化した人がどうなったのかは知らない。ただ、記憶の片鱗にはいつも祖母の影があった。
葛葉のもとへ駆けつけてくれる気配。祖母が登場すると、葛葉はそこで安堵して気を失ってしまう。
次に目覚めた時には、彼女の優しい声が慰めてくれた。
(異形化する人がいる)
幼い頃の悪夢が現実だったのだと、葛葉はあらためて心に刻んだ。
現在、特務科で多くを学んでも、そんな学説や事実が語られたことはない。
葛葉も数珠を手にしてからは遭遇することがなくなっていた。だから、ごく幼い頃の体験であり、最近では、奇怪な悪夢だったのではないかと思うこともあった。
(夢じゃなかったんだ)
葛葉は目の前の蜘蛛男を見て、朧げな幼い頃の記憶を重ねていた。
見届けたことのない異形の顛末を、はじめて可畏が見せてくれるのだろうか。
独り言のような可畏の呟きを聞いて、葛葉はほころんでいた気持ちがふたたび張りつめる。斬新な自己紹介を面白がっていたのが嘘のように、彼の表情に厳しい気配がよみがえっていた。
この世のものとは思えない赤い眼が、禍々しいほどに美しくゆがむ。
皮肉げに口角をあげて嗤う横顔。影をひそめていた威圧感がみなぎり、葛葉は背筋にひやりとした刃を押しつけられたように、ぶるりと身震いした。
可畏の眇められた眼は、背を向けたまま一心に車を引く俥夫にそそがれている。
いつのまにか人通りの多い通りをそれて、二人をのせた人力車は寂れた街道を走っていた。
「どこへいくつもりだ」
可畏の問いにも答えず、俥夫は駆けつづける。葛葉は車を引く速度があがっていることに気づいた。踏み固めただけの道は、レンガで舗装された道とはことなり、細かな砂利や盛り上がりで座席が激しく上下する。
(尋常じゃないわ)
今まで経験したことのないような猛烈な速度感だった。手綱を失った暴れ馬を連想させる勢いで、人力車が走る。葛葉が勢いで放り出されるのではないかと危機感をおぼえたとき、可畏に腕をつかまれた。
「葛葉、とびおりるぞ」
「ええ!?」
驚くのも束の間だった。即座に強い力で引き寄せられ、体が高く宙に放りだされた。視界いっぱいに蒼穹がひろがり、自分の悲鳴がたかく響く。
(落ちる!)
浮遊感が失われ、重力の支配に切り替わる。地面に叩きつけられる痛みを覚悟して固く目を閉じると、ふたたび強い力に引き寄せられた。
痛みとは無縁の柔らかな衝撃。ふわりと爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。線香のような幽玄な香りとは異なった、果物を連想させる、瑞々しい芳香。
可畏に肩を抱かれ、彼の懐に身を預けているのだと理解した瞬間、恍惚とした香りが弾けて失せる。
息がつまるような、強い振動があった。
「大丈夫か?」
彼は葛葉を抱いたまま見事に着地を果たした。
「は、はい! 御門様は?」
「問題ない」
可畏は葛葉をはなすと、前に立ちはだかるように街道へ向きなおる。乗客をうしなった人力車は、二人を置き去りにそのまま疾走を続けていた。やがて不自然に蛇行すると、荒屋に激突して横倒しになった。車輪が虚しく空回りし、ようやく停止する。
遠目にも土煙があがっているのが見えた。
「来るぞ。おまえは退がっていろ」
彼の言葉が終わらないうちに、横転した人力車から何かがこちらに駆けてくる。
不自然な輪郭。人とは思えない長い手足で地を這い、まるで蜘蛛のように動いている。
「ひっ」
あまりの奇怪さに葛葉の身がこわばる。
(あれは、もしかして……)
恐ろしかったが、目を逸らすことはできない。対峙した異形を迎え討とうとする可畏の背中を追うと、彼が葛葉をふりかえった。
「退がれ、葛葉」
「み、御門様も危ないです!」
「あんなものは雑魚だ」
「わたしにも何かできることがあれば、お役に立てます!」
「邪魔だ」
彼は容赦無く葛葉とつきはなす。
「仕方がないな。夜叉、どうせなら役に立て」
可畏が左腕を振ると、ぼうっと赤い炎が袖のように舞う。
「うあっち!」
炎にあぶり出されるように、とつぜん葛葉の前に少年が転げでた。
「燃やすなんて、ひどいよ!」
「え? え?」
「話はあとだ」
葛葉は少年の登場に仰天したが、目前には奇怪な蜘蛛男が迫っている。
「御門様、前!」
「わかっている。夜叉、葛葉をたのむ」
言いおいて、可畏がひらりと身をひるがえす。
「あ! 御門様!」
葛葉が追いすがろうとすると、行手をふさぐように現れた少年が立ちふさがる。
「ダメダメ。可畏の邪魔になる」
「でも、あれはわたしのせいかもしれない!」
突如現れた少年の素性も気になるが、葛葉は蜘蛛男から目がはなせない。
「車を引いていた人は、わたしの目を見てしまったのかも」
「すぐに終わるから! とにかくここでじっとしていて!」
少年に一喝されて、葛葉は可畏を追いかけることをあきらめた。軍の特務部を率いる可畏は百戦錬磨の能力者だ。彼が雑魚だと語るなら、結果を案じることはないのだろう。
異形については特務科で多くを学んでいるが、葛葉にはまだ実戦の経験がない。
携えている異能も、気休め程度のものなのだ。
成す術がなく葛葉は腕の数珠をなでる。
幼い頃から、周りで神隠しや失踪が後をたたなかった。
そして。
葛葉がもっとも心に刻んでいる光景は奇怪でおぞましい。今となっては、細部の記憶は失われているが、強烈な嫌悪感と恐怖だけは覚えていた。
めきめきと何かが生え変わるような、奇怪な人影。
祖母に数珠を授けてもらうまで、時折、目の前で異形化する人と出会った。
それは、ようやく物心がついた頃の体験。
朧げな記憶は、いつも途中で途切れている。異形化した人がどうなったのかは知らない。ただ、記憶の片鱗にはいつも祖母の影があった。
葛葉のもとへ駆けつけてくれる気配。祖母が登場すると、葛葉はそこで安堵して気を失ってしまう。
次に目覚めた時には、彼女の優しい声が慰めてくれた。
(異形化する人がいる)
幼い頃の悪夢が現実だったのだと、葛葉はあらためて心に刻んだ。
現在、特務科で多くを学んでも、そんな学説や事実が語られたことはない。
葛葉も数珠を手にしてからは遭遇することがなくなっていた。だから、ごく幼い頃の体験であり、最近では、奇怪な悪夢だったのではないかと思うこともあった。
(夢じゃなかったんだ)
葛葉は目の前の蜘蛛男を見て、朧げな幼い頃の記憶を重ねていた。
見届けたことのない異形の顛末を、はじめて可畏が見せてくれるのだろうか。
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