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第一章:当主と花嫁の出会い
3:夢と現実
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(大丈夫だよ、葛葉)
泣きじゃくる葛葉の頭をなでて、優しげにさとす声。
(――おまえは羅刹の花嫁だから、特別なんだよ)
懐かしい祖母の声。葛葉は夢を見ているのだと自覚する。
人里はなれた古い家屋。囲炉裏には火が入っていない。土間からぐつぐつと何かを煮炊きしている音が聞こえる。戸外からは、ひっきりなしに虫の鳴き声がしていた。
(おばあちゃん、ラセツって、なに?)
幼い自分がひくひくとしゃくりあげながら、声を震わせている。
(羅刹は……、そうだね。神様だよ)
(神様? じゃあ、神隠しにあったお友だちは、神様に連れて行かれたっていうこと?)
祖母は困ったようにほほ笑む。ゆっくりと首をふるだけだった。
(葛葉、これをやろう。この石が悪いものからおまえを守ってくれる)
差し出された数珠の美しさに目を奪われ、葛葉の涙がとまる。
(……きれい)
子どもは残酷だ。目の前の刺激にすぐに心がかたむく。
美しい石への興味に満たされ、葛葉はさっきまでの悲しみを見失う。
(ありがとう、おばあちゃん)
光を乱反射してかがやく石が、あまりにも美しくて。
神隠しにあっていなくなってしまった友達のことから、葛葉の意識はそらされてしまった。
懐かしい情景が、遠ざかる。
そして。
(あ……)
ごうっと、目の前に赤い炎が広がった。舐めるように家屋の柱を包んだ紅蓮の炎。
葛葉は咄嗟に「おばあちゃん!」と叫んだ。その自分の叫びで、目がさめた。
ハッと目を見開くと、視界に見慣れない白髪がよぎる。
「目が覚めたか?」
寝起きの頭にひびく、艶やかな低い声。
「起きられるか?」
(良い声だな)
聞いたことがあるような、ないような。
ぼんやりとした心地で、葛葉はふにゃりと挨拶をする。
「はい、おはようございます」
でも、自分の寝床で男性の声を聞くはずがない。
葛葉はまだ夢のつづきなのかと呑気な気持ちで、布団をかぶりなおした。懐かしい夢をみていた気がする。目を閉じれば、また夢が見られそうだと寝返りを打つと、再び艶やかな声がひびく。
「おまえ! 寝直すな。起きろ」
良い声だとうっとりしているわけにもいかない怒声だった。葛葉がびくっと体を震わせると、ばさりと投げ飛ばしそうな勢いで掛け布団が捲りあげられた。
「ひょ!」
驚きすぎて変な声がでる。自分を覗き込むように見下ろしている眉目秀麗な顔と、印象的な赤眼。
(あ……)
御門家の当主、可畏が仁王立ちしている。
ことの成り行きを思い出して、葛葉は「ひぇっ」っとふたたび小さな悲鳴をあげる。
「も、申し訳ございません!」
飛び起きた勢いのまま、その場に平伏しようとしてがくりと重心を崩す。下についたはずの手を支えるものがない。
「あ!」
室内が畳敷ではない。欧化の影響をうけた洋室である。葛葉が寝床に高さがあることに気づいた時には、遅かった。
見事に寝台からおちて、派手に顔面を打ちつける。
「う、イタ……」
顔をあげようとすると、つっと鼻を伝うものがあった。ぼたぼたと鼻血が流れでて、着ている特務科の制服を汚す。洋室に敷き詰められた鮮やかな絨毯にも落ちて、じわりと染みをつくった。
「わっ! 絨毯が! 申し訳ございませ……」
鼻をおさえてさらに慌てふためいていると、すっと目の前に白い布が差しだされた。手ぬぐいとは違う、真っ白なハンカチーフ。
「これをつかえ」
「そんな恐れ多い! 血で汚してしまいます!」
「かまわない。すこし落ち着け。べつに取って食ったりはしない」
声に苛立ちを感じない。穏やかな調子だった。ふたたび怒声がとんでくることを予想していた緊張が、すこし緩む。
「ありがとうございます」
そっと差しだされたハンカチに手を伸ばす。それでも可畏の顔を見ることはできない。
身に染み付いた、知らない人と目を合わせてはいけないという教訓。同時に、ひたすら自分の失態が恥ずかしい。
ぐいぐいと鼻血を拭いながら、とてつもなく居たたまれない気持ちになる。
自分は昔からこんな調子なのだ。要領が悪い。お世辞にも器量が良いとは、口が裂けても言えない。
祖母が失踪してからは、天涯孤独の身だ。そんな自分が筆頭華族に嫁ぐなどあり得ない。
あまりにも身の上が不釣り合いだ。
そして。
何よりも、葛葉はときおり関わった人をひどく不幸にすることがある。
偶々だったと片付けることが不自然なくらい繰り返してきた。
神隠し。失踪。
親しかった人たちが、ある日突然いなくなる。
葛葉自身、これまでの巡り合わせや体験を、偶然だとはとうてい思えない。
「あの、このハンカチは綺麗にしてから、必ずお返しいたします。この度は色々とご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
ようやく鼻血が止まってその場に平伏する。
深く頭をさげた瞬間。
――ぐるぐるぐる、きゅう、ぎゅぎゅぎゅ。
葛葉の殊勝な気持ちをあざ笑うように、まったく空気をよまない腹の虫が、盛大に空腹を訴えた。
泣きじゃくる葛葉の頭をなでて、優しげにさとす声。
(――おまえは羅刹の花嫁だから、特別なんだよ)
懐かしい祖母の声。葛葉は夢を見ているのだと自覚する。
人里はなれた古い家屋。囲炉裏には火が入っていない。土間からぐつぐつと何かを煮炊きしている音が聞こえる。戸外からは、ひっきりなしに虫の鳴き声がしていた。
(おばあちゃん、ラセツって、なに?)
幼い自分がひくひくとしゃくりあげながら、声を震わせている。
(羅刹は……、そうだね。神様だよ)
(神様? じゃあ、神隠しにあったお友だちは、神様に連れて行かれたっていうこと?)
祖母は困ったようにほほ笑む。ゆっくりと首をふるだけだった。
(葛葉、これをやろう。この石が悪いものからおまえを守ってくれる)
差し出された数珠の美しさに目を奪われ、葛葉の涙がとまる。
(……きれい)
子どもは残酷だ。目の前の刺激にすぐに心がかたむく。
美しい石への興味に満たされ、葛葉はさっきまでの悲しみを見失う。
(ありがとう、おばあちゃん)
光を乱反射してかがやく石が、あまりにも美しくて。
神隠しにあっていなくなってしまった友達のことから、葛葉の意識はそらされてしまった。
懐かしい情景が、遠ざかる。
そして。
(あ……)
ごうっと、目の前に赤い炎が広がった。舐めるように家屋の柱を包んだ紅蓮の炎。
葛葉は咄嗟に「おばあちゃん!」と叫んだ。その自分の叫びで、目がさめた。
ハッと目を見開くと、視界に見慣れない白髪がよぎる。
「目が覚めたか?」
寝起きの頭にひびく、艶やかな低い声。
「起きられるか?」
(良い声だな)
聞いたことがあるような、ないような。
ぼんやりとした心地で、葛葉はふにゃりと挨拶をする。
「はい、おはようございます」
でも、自分の寝床で男性の声を聞くはずがない。
葛葉はまだ夢のつづきなのかと呑気な気持ちで、布団をかぶりなおした。懐かしい夢をみていた気がする。目を閉じれば、また夢が見られそうだと寝返りを打つと、再び艶やかな声がひびく。
「おまえ! 寝直すな。起きろ」
良い声だとうっとりしているわけにもいかない怒声だった。葛葉がびくっと体を震わせると、ばさりと投げ飛ばしそうな勢いで掛け布団が捲りあげられた。
「ひょ!」
驚きすぎて変な声がでる。自分を覗き込むように見下ろしている眉目秀麗な顔と、印象的な赤眼。
(あ……)
御門家の当主、可畏が仁王立ちしている。
ことの成り行きを思い出して、葛葉は「ひぇっ」っとふたたび小さな悲鳴をあげる。
「も、申し訳ございません!」
飛び起きた勢いのまま、その場に平伏しようとしてがくりと重心を崩す。下についたはずの手を支えるものがない。
「あ!」
室内が畳敷ではない。欧化の影響をうけた洋室である。葛葉が寝床に高さがあることに気づいた時には、遅かった。
見事に寝台からおちて、派手に顔面を打ちつける。
「う、イタ……」
顔をあげようとすると、つっと鼻を伝うものがあった。ぼたぼたと鼻血が流れでて、着ている特務科の制服を汚す。洋室に敷き詰められた鮮やかな絨毯にも落ちて、じわりと染みをつくった。
「わっ! 絨毯が! 申し訳ございませ……」
鼻をおさえてさらに慌てふためいていると、すっと目の前に白い布が差しだされた。手ぬぐいとは違う、真っ白なハンカチーフ。
「これをつかえ」
「そんな恐れ多い! 血で汚してしまいます!」
「かまわない。すこし落ち着け。べつに取って食ったりはしない」
声に苛立ちを感じない。穏やかな調子だった。ふたたび怒声がとんでくることを予想していた緊張が、すこし緩む。
「ありがとうございます」
そっと差しだされたハンカチに手を伸ばす。それでも可畏の顔を見ることはできない。
身に染み付いた、知らない人と目を合わせてはいけないという教訓。同時に、ひたすら自分の失態が恥ずかしい。
ぐいぐいと鼻血を拭いながら、とてつもなく居たたまれない気持ちになる。
自分は昔からこんな調子なのだ。要領が悪い。お世辞にも器量が良いとは、口が裂けても言えない。
祖母が失踪してからは、天涯孤独の身だ。そんな自分が筆頭華族に嫁ぐなどあり得ない。
あまりにも身の上が不釣り合いだ。
そして。
何よりも、葛葉はときおり関わった人をひどく不幸にすることがある。
偶々だったと片付けることが不自然なくらい繰り返してきた。
神隠し。失踪。
親しかった人たちが、ある日突然いなくなる。
葛葉自身、これまでの巡り合わせや体験を、偶然だとはとうてい思えない。
「あの、このハンカチは綺麗にしてから、必ずお返しいたします。この度は色々とご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
ようやく鼻血が止まってその場に平伏する。
深く頭をさげた瞬間。
――ぐるぐるぐる、きゅう、ぎゅぎゅぎゅ。
葛葉の殊勝な気持ちをあざ笑うように、まったく空気をよまない腹の虫が、盛大に空腹を訴えた。
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