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後日譚:金木犀の咲く頃に
164:妃殿下のテラス
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ゆったりと過ぎていく昼下がりの午後。スーは部屋からつながる屋外のテラスで刺繍を楽しんでいたが、ふんわりと甘い香りを感じて手を止めた。
流れてくる香りの方へ視線を向けると、テラスから臨める庭に植えられた金木犀が、こぼれ落ちそうなほど花を咲かせている。
(金木犀は、ルカ様のお母様が好んでおられた香り……)
先日、ヘレナが開花をはじめた金木犀を見て教えてくれたのだ。
ルカの私邸には庭園がいくつかあるが、金木犀はスーの部屋からつながる庭でしか見られない。
秋になると可憐な花を咲かせ、辺りに甘い香りをふりまく常緑樹。
庭木として人気のある樹木であり、スーも大好きだった。けれど私邸の敷地内で見られるのは、わずかに一本だけである。
(もしかして、ルカ様は金木犀があまりお好きではないのかしら)
この時期はあちこちで甘い香りを感じることができる。香りが苦手だという人もいるが、ルカの場合は両親を失った記憶が思い起こされるのかもしれない。
「ルカ様は今年もお独りで過ごされるのかしら? ユエンはどう思う?」
「なんのお話をされているのでしょうか、妃殿下」
ユエンから妃殿下と言われるようになったことに、スーはようやく馴染みはじめていた。
彼女は刺繍に励んでいたスーのかたわらで、お茶の支度をはじめている。
「ご両親の命日の話よ」
「そういえばもうすぐですね」
「ええ。……わたしはルカ様のお傍にいたいけど」
「では、そのようにお願いしてみればよろしいのでは?」
「そ! そんなことできるわけないでしょ! これはとてつもなく繊細な話題なのよ!」
スーが立ち上がりそうな勢いになると、ユエンは呆れた様子で落ち着いてくださいと手で示す。
「あまり興奮されると、お腹の御子にさわります。それにしても、今さら何をそんなに遠慮されるのか理解に苦しみますね」
「わたしはルカ様に嫌われたくないの!」
「もう夫婦なのですし、踏み込んでもよろしいのではありませんか?」
「寵姫の座を死守するために、油断はできないわ!」
「殿下はそんなにほいほいと気持ちが移ろうような方ではないと思いますよ」
「う、――それは、そうなのだけど」
ルカと出会ってから今に至るまで、彼の誠実さはどれだけ褒め称えてもきりがないくらいに素晴らしい。天使のような金髪碧眼で見目麗しく、彼が本気で女性を口説けば、数多の女性を侍らすことなど造作もないだろう。
けれど、ルカはまったくそんな性分ではない。完璧な白馬の王子様なのだ。
「わたしにとってはルカ様はすべてにおいて理想的な男性よ。でも、ルカ様にとって、わたしはそうではないと思うの」
「殿下のお気持ちを疑っておられると?」
「違うわ! ルカ様の気持ちは信じているわよ! でも、こう、あるでしょう! 男性が思い描く理想の女性像みたいなものが!」
ユエンはくすりと笑いながら、茶器をスーの前のテーブルに用意してティーポットを傾けた。
白い器に注がれた紅茶から、心地の良い香りがたちのぼる。
「妃殿下は、ルカ殿下の理想の女性になりたいのですね」
「さすがに理想の女性はおこがましいけれど。努力はしたいという話よ」
スーはユエンが用意した紅茶のカップに手を伸ばして一口含んだ。飲み頃の温度に調整されていて、舌先にほどよく甘みが広がった。
「怠惰になってしまうよりは良い心掛けだと思いますが、もっと殿下のことを信じても良いと思いますよ」
「だから、ルカ様のことは信じているわ」
信じているが、甘えていてはいけない。クラウディア皇家が多妻を許されている限り、スーは励まなければならないのだ。
自分は運良く皇子を授かったようだが、だからこそ気を引き締めるのだ。
妃が子を産めば、ルカの皇太子としての責務は果たされる。
後継を得るという最大の目標を達成したあとが、スーにとっての正念場である。スーがこれからも公私にわたってルカに求められる皇太子妃になるためには、自分を磨かねばならない。
「わたしにとっては、子を授かってからが勝負よ」
「……はぁ」
意気込むスーに、ユエンが目に見えて気の無い返事をする。
「わたしは、ルカ様に寄り添って、支えられるような女性になりたいけれど」
スーは去年の命日に、海で垣間見たルカの様子が忘れられない。
独りきりで花をたむけ、過去を振り返って懺悔する。思い出すと、今でも胸がしめつけられるように切なくなる。
そして。
これからもルカの抱える罪の意識が失われることはない。彼は心に刻んで背負い続けていくだろう。
そんな彼を、スーは心の底から愛しいと思う。
だからこそ、どんな辛苦もわかちあえるような妃になりたいのだ。
「わたしはまだ頼りない皇太子妃だわ」
「妃殿下はたくましいと思いますが」
ユエンの感想には、聞き覚えがあった。
「それ、ルカ様も仰られたことがあるわ」
「では妃殿下の努力は実っているのではありませんか?」
スーは複雑な気持ちになる。たくましいというのは、本当に褒め言葉なのだろうか。
ルカとユエンが皮肉をこめて言っているわけではないのはわかる。
彼らにとっては、純粋な褒め言葉なのだ。
けれど、スーにとっては理想の女性像からすこし外れている気もする。
「わたしには女性の色気が足りないのかしら」
「たくましいというのは、妃殿下の内面のことです。ルカ殿下もそういう意味でしょう」
「でも、ユエン。ルカ様はとても大人で色気があるわ」
「そうですね」
「わたしも、いずれはルカ様にそう思ってもらえるようになりたいのだけど……」
「ルカ殿下は妃殿下について十分そう感じておられるのでは?」
「でも、たくましいというのは、まずくないかしら」
「ですから内面のお話です」
「そうとは限らないわ。子を授かっても、きっとわたしはまだまだ未熟で幼稚なのよ」
「ルカ殿下は妃殿下のことを子ども扱いしてはおられないでしょう」
ユエンの目が、産月を二月後に控えて膨らみをましているスーのお腹に向けられる。
「こんなに早く御子を授かったのが何よりの証拠ではありませんか」
「それは皇太子の責任を果たすためよ。そもそもルカ様の場合は、帝室では異例なほど結婚が遅かったのだもの」
「皇太子の責任だなどと……」
これ見よがしに、ユエンがはぁっとため息をついた。
「私はルカ殿下に同情いたします」
「え? どうして?」
スーが会話の行方を見失うと、ユエンはふたたびはぁっと大袈裟にため息をついた。
「たしかに妃殿下は子どもなのかもしれませんね」
いきなりユエンから痛烈な一撃がとんでくる。スーが「うぐっ」と声を詰まらせていると、さらなる追撃があった。
「だから、妃殿下にはおわかりにならないのです」
ぴしゃりと言い切られて、スーの胸にずぼっと刃がめりこんだ。
流れてくる香りの方へ視線を向けると、テラスから臨める庭に植えられた金木犀が、こぼれ落ちそうなほど花を咲かせている。
(金木犀は、ルカ様のお母様が好んでおられた香り……)
先日、ヘレナが開花をはじめた金木犀を見て教えてくれたのだ。
ルカの私邸には庭園がいくつかあるが、金木犀はスーの部屋からつながる庭でしか見られない。
秋になると可憐な花を咲かせ、辺りに甘い香りをふりまく常緑樹。
庭木として人気のある樹木であり、スーも大好きだった。けれど私邸の敷地内で見られるのは、わずかに一本だけである。
(もしかして、ルカ様は金木犀があまりお好きではないのかしら)
この時期はあちこちで甘い香りを感じることができる。香りが苦手だという人もいるが、ルカの場合は両親を失った記憶が思い起こされるのかもしれない。
「ルカ様は今年もお独りで過ごされるのかしら? ユエンはどう思う?」
「なんのお話をされているのでしょうか、妃殿下」
ユエンから妃殿下と言われるようになったことに、スーはようやく馴染みはじめていた。
彼女は刺繍に励んでいたスーのかたわらで、お茶の支度をはじめている。
「ご両親の命日の話よ」
「そういえばもうすぐですね」
「ええ。……わたしはルカ様のお傍にいたいけど」
「では、そのようにお願いしてみればよろしいのでは?」
「そ! そんなことできるわけないでしょ! これはとてつもなく繊細な話題なのよ!」
スーが立ち上がりそうな勢いになると、ユエンは呆れた様子で落ち着いてくださいと手で示す。
「あまり興奮されると、お腹の御子にさわります。それにしても、今さら何をそんなに遠慮されるのか理解に苦しみますね」
「わたしはルカ様に嫌われたくないの!」
「もう夫婦なのですし、踏み込んでもよろしいのではありませんか?」
「寵姫の座を死守するために、油断はできないわ!」
「殿下はそんなにほいほいと気持ちが移ろうような方ではないと思いますよ」
「う、――それは、そうなのだけど」
ルカと出会ってから今に至るまで、彼の誠実さはどれだけ褒め称えてもきりがないくらいに素晴らしい。天使のような金髪碧眼で見目麗しく、彼が本気で女性を口説けば、数多の女性を侍らすことなど造作もないだろう。
けれど、ルカはまったくそんな性分ではない。完璧な白馬の王子様なのだ。
「わたしにとってはルカ様はすべてにおいて理想的な男性よ。でも、ルカ様にとって、わたしはそうではないと思うの」
「殿下のお気持ちを疑っておられると?」
「違うわ! ルカ様の気持ちは信じているわよ! でも、こう、あるでしょう! 男性が思い描く理想の女性像みたいなものが!」
ユエンはくすりと笑いながら、茶器をスーの前のテーブルに用意してティーポットを傾けた。
白い器に注がれた紅茶から、心地の良い香りがたちのぼる。
「妃殿下は、ルカ殿下の理想の女性になりたいのですね」
「さすがに理想の女性はおこがましいけれど。努力はしたいという話よ」
スーはユエンが用意した紅茶のカップに手を伸ばして一口含んだ。飲み頃の温度に調整されていて、舌先にほどよく甘みが広がった。
「怠惰になってしまうよりは良い心掛けだと思いますが、もっと殿下のことを信じても良いと思いますよ」
「だから、ルカ様のことは信じているわ」
信じているが、甘えていてはいけない。クラウディア皇家が多妻を許されている限り、スーは励まなければならないのだ。
自分は運良く皇子を授かったようだが、だからこそ気を引き締めるのだ。
妃が子を産めば、ルカの皇太子としての責務は果たされる。
後継を得るという最大の目標を達成したあとが、スーにとっての正念場である。スーがこれからも公私にわたってルカに求められる皇太子妃になるためには、自分を磨かねばならない。
「わたしにとっては、子を授かってからが勝負よ」
「……はぁ」
意気込むスーに、ユエンが目に見えて気の無い返事をする。
「わたしは、ルカ様に寄り添って、支えられるような女性になりたいけれど」
スーは去年の命日に、海で垣間見たルカの様子が忘れられない。
独りきりで花をたむけ、過去を振り返って懺悔する。思い出すと、今でも胸がしめつけられるように切なくなる。
そして。
これからもルカの抱える罪の意識が失われることはない。彼は心に刻んで背負い続けていくだろう。
そんな彼を、スーは心の底から愛しいと思う。
だからこそ、どんな辛苦もわかちあえるような妃になりたいのだ。
「わたしはまだ頼りない皇太子妃だわ」
「妃殿下はたくましいと思いますが」
ユエンの感想には、聞き覚えがあった。
「それ、ルカ様も仰られたことがあるわ」
「では妃殿下の努力は実っているのではありませんか?」
スーは複雑な気持ちになる。たくましいというのは、本当に褒め言葉なのだろうか。
ルカとユエンが皮肉をこめて言っているわけではないのはわかる。
彼らにとっては、純粋な褒め言葉なのだ。
けれど、スーにとっては理想の女性像からすこし外れている気もする。
「わたしには女性の色気が足りないのかしら」
「たくましいというのは、妃殿下の内面のことです。ルカ殿下もそういう意味でしょう」
「でも、ユエン。ルカ様はとても大人で色気があるわ」
「そうですね」
「わたしも、いずれはルカ様にそう思ってもらえるようになりたいのだけど……」
「ルカ殿下は妃殿下について十分そう感じておられるのでは?」
「でも、たくましいというのは、まずくないかしら」
「ですから内面のお話です」
「そうとは限らないわ。子を授かっても、きっとわたしはまだまだ未熟で幼稚なのよ」
「ルカ殿下は妃殿下のことを子ども扱いしてはおられないでしょう」
ユエンの目が、産月を二月後に控えて膨らみをましているスーのお腹に向けられる。
「こんなに早く御子を授かったのが何よりの証拠ではありませんか」
「それは皇太子の責任を果たすためよ。そもそもルカ様の場合は、帝室では異例なほど結婚が遅かったのだもの」
「皇太子の責任だなどと……」
これ見よがしに、ユエンがはぁっとため息をついた。
「私はルカ殿下に同情いたします」
「え? どうして?」
スーが会話の行方を見失うと、ユエンはふたたびはぁっと大袈裟にため息をついた。
「たしかに妃殿下は子どもなのかもしれませんね」
いきなりユエンから痛烈な一撃がとんでくる。スーが「うぐっ」と声を詰まらせていると、さらなる追撃があった。
「だから、妃殿下にはおわかりにならないのです」
ぴしゃりと言い切られて、スーの胸にずぼっと刃がめりこんだ。
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