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第十七章:古代王朝サイオンと天女
98:皇太子の決意
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こみあげた思いを吐きだすように口にしてから、ルカは皇帝ユリウスの視線にふたたび深い憐憫の情がにじんでいるのを感じた。静かな湖面を思わせる瞳は、痛々しい告白をしたルカの気持ちを包みこむような穏やかさをたたえている。
何も言わず自分を見つめるユリウスの顔を見て、ルカは自分が取り乱していたことに気づく。
「申し訳ありません、陛下」
ルカの激情を責めることもなく、ユリウスは卓上のグラスを持ちあげるとそっと差しだした。
「ありがとうございます」
受けとって、ルカは一息にあおる。
どうしようもないほど落胆しているのに、不思議とワインに甘みを感じた。渋みのない後味を感じながら瓶のラベルに目を向ける。見たことのない銘柄だった。
「いつもそつがないおまえの本心を聞けて良かった」
「申し訳ありません」
「おまえが詫びることはない。何も語らずにいた私を責めてもかまわない。カリグラとともに、おまえの母であるユリアを断罪したときのように」
「陛下、それは」
「ついでにはっきりと言っておくが、おまえの父親は正真正銘カリグラであり私ではない。ユリアはカリグラを愛していた、とても」
空になったグラスに、ユリウスがワインを注ぐ。
「だから彼女はカリグラとともに殉じた。私はおまえのことを頼むと強く頼まれた」
ユリウスは当時に思いを馳せるように浅く笑う。
「ルカ、おまえのその気性はユリアゆずりなのだろう」
ルカには意図がわからない。何も言えずにいるとユリウスが端的にしめす。
「愛に殉じる」
「お言葉ですが、私は母が父を愛していたとは思えません」
「たしかにカリグラのおまえに対する仕打ちを憎んだことはあっただろう。しかしユリアは理解していた。カリグラの苦悩を。私はルクスの報告がもたらした鉱石とパルミラが拠点となりそうなこの映像で、全てがつながったと思った」
「どういうことでしょうか」
「おまえの父親についての詮索で一番心を病んだのはカリグラだった。加えてカリグラには第零都の天女もおぞましかっただろう。いまだ天女に隷属しているようなサイオンの民を哀れにも思ったはずだ。カリグラはディオクレアがつけ込む最適の標的と化していた」
ユリウスは労るようにルカに微笑む。
「私の力が足りなかった。カリグラを死に追いやったのは私だ。おまえを利用して手を下したようなものだ」
「私の目にも父は狂っていました」
「……そうだな。だが、すでに遅かったらしい」
「遅いというのは?」
「カリグラはディオクレアにサイオン王朝の機密を語っていたに違いない」
「ーーまさか」
「ルクスの情報をうけて、「クラウディアの粛清」をはなった国がパルミラであったことを偶然だと考えられるほど、私は楽観主義ではない」
ユリウスの中で導かれた道筋はルカも思い描いたことだった。
「それは私も考えましたが……」
認めたくはなかったが皇帝ユリウスが確信するには、それに足る理由があるのだろう。
理由。
ディオクレアの策略に落ちた父、カリグラ。
機密を打ち明けていないと考えるほうが無理がある。
「ルクスのもたらした映像がいかに大きな意味を持つのか、もうおまえにもわかるだろう」
ユリウスに促されてルカは思い至る。
「はい。サイオンの王女が天女の複製であるのなら」
スーに瓜二つの人影。そこから導かれるのは。
「ここに映る者も」
「そう、天女の複製である可能性が高い」
「陛下の懸念は理解できます。サイオンの王女が抱える意味は大きい。もし新たな複製であれば、見過ごすことはできないでしょう」
「もちろんそれもあるが……」
ユリウスはワイングラスの淵に指先をすべらせる。何かを考えているようだった。
「私には信じられない」
「この映像が作られたモノであるということですか?」
「今の段階ではあらゆる可能性を孕んでいるが、ここに映っていることが事実であれば、サイオンが関わっているということになる」
ルカはうなずく。サイオンの人間には天女の設計による思想抑制が働いているのだ。是非もない。
「王女の代替えが用意されているということなのではありませんか?」
ユリウスはじっとワイングラスに目を向けたまま、自身の思考をたどっている。
「ーー聞いたことがない」
「陛下?」
「サイオンの拠点がパルミラにもあるという話を、私は聞いたことがない」
「サイオンが秘匿しているのではありませんか?」
「それも否定はできないが……」
やはりユリウスには何か思うことがあるようだった。ルカは彼が語りだすのを待つだけである。所在なく手元にあったワインを少し口に含んだ。
甘いとは思ったが、くすぶる絶望に味覚が鈍っている。良し悪しを判断できるほど味わえない。
ルカがゆっくりと飲み込むとユリウスの声がした。
「秘匿している可能性もあるが、--もしこのことをサイオンが把握していない場合はどうなる?」
「そんなことはあり得ないでしょう」
天女の設計により送り出される王女が、サイオンによって徹底的に管理されているのはルカにも容易に想像がついた。
ユリウスは自身のグラスをあおると真っ直ぐにルカを見た。憐憫の情に染まった青い輝きは消え失せている。深く強い眼だった。
「そう。本来であればあり得ない。なぜなら、もしサイオンが把握していなければ、天女の設計の外に存在することになる」
ルカはユリウスが導こうとしている道筋を感じた。
なす術がない絶望に、あるかなしかのわずかな糸口。
「そう考えると、パルミラにはサイオンの思想抑制から逃れた者がいると仮定できる」
「陛下」
自分を労わっての仮説なのかもしれない。けれど、その気遣いはルカにとっては一条の光となる。
「ルカ、サイオンを見捨てなければならないと悲観するのはまだ早い。そう思わないか」
「都合の良い仮定にすぎません」
「だが、可能性はゼロではない」
公の場で見るに等しく、目の前にあるのは皇帝の力強い眼差しだった。
「サイオンを見捨てることは、私にとっても本意ではないのだ」
ユリウスの声が奈落の深淵に落ちてくる。ほとりと。震える光のしずくのように。
ほのかな輝きは深淵にしずみ、柔らかな波紋を広げて世界を揺るがせていく。
ルカの出口のなかった暗闇が明度を取り戻す。
いまだ見えていない世界を見るために。
「私も陛下と同じ気持ちです」
答えると、ユリウスは微笑んだ。
「おまえがあんなふうに取り乱すのだから、正直驚いた」
冗談を言うようにユリウスが笑う。
「私はおまえがスー王女を愛しいと打ち明けた時から予感を抱いている。もちろん今の段階では何の根拠もないが」
「予感ですか」
「そうだ」
迷いもなくユリウスが言葉にした。
「おまえはきっと成し遂げる」
「ーー陛下」
これ以上はない心強い言葉だった。ルカはぐっと奥歯を噛みしめる。
「ありがとうございます」
ユリウスには悟られているのだ。
今までの自分には覚悟が足りなかったこと。
そして。
スーの末路につながる絶望の淵で、自分が気づいてしまったこと。
なす術がないという絶望の中で、ようやくたどりついたことに。
(私は……)
人はいつでも失ってから気づく。けれど、自分はまだ何も失ってはいないのだ。
(スーを愛している)
自分で思っていたよりもずっと、彼女に心を奪われている。
失う前に気づけたことは幸運だった。
変えがたい本心であり、それがこれからの行き先を決める。
諦めることなどできるはずがない。まだわずかに希望が残っているのだ。
何もできなかったと悔いるだけの未来など望まない。
途方もない夢に挑むためらいは消え失せていた。挑まなければ絶対に後悔するだろう。
(私は彼女を失いたくない)
絶望の中で明かされたのは、偽りのない思いだった。
ルカの心はすでに決まっていた。
何も言わず自分を見つめるユリウスの顔を見て、ルカは自分が取り乱していたことに気づく。
「申し訳ありません、陛下」
ルカの激情を責めることもなく、ユリウスは卓上のグラスを持ちあげるとそっと差しだした。
「ありがとうございます」
受けとって、ルカは一息にあおる。
どうしようもないほど落胆しているのに、不思議とワインに甘みを感じた。渋みのない後味を感じながら瓶のラベルに目を向ける。見たことのない銘柄だった。
「いつもそつがないおまえの本心を聞けて良かった」
「申し訳ありません」
「おまえが詫びることはない。何も語らずにいた私を責めてもかまわない。カリグラとともに、おまえの母であるユリアを断罪したときのように」
「陛下、それは」
「ついでにはっきりと言っておくが、おまえの父親は正真正銘カリグラであり私ではない。ユリアはカリグラを愛していた、とても」
空になったグラスに、ユリウスがワインを注ぐ。
「だから彼女はカリグラとともに殉じた。私はおまえのことを頼むと強く頼まれた」
ユリウスは当時に思いを馳せるように浅く笑う。
「ルカ、おまえのその気性はユリアゆずりなのだろう」
ルカには意図がわからない。何も言えずにいるとユリウスが端的にしめす。
「愛に殉じる」
「お言葉ですが、私は母が父を愛していたとは思えません」
「たしかにカリグラのおまえに対する仕打ちを憎んだことはあっただろう。しかしユリアは理解していた。カリグラの苦悩を。私はルクスの報告がもたらした鉱石とパルミラが拠点となりそうなこの映像で、全てがつながったと思った」
「どういうことでしょうか」
「おまえの父親についての詮索で一番心を病んだのはカリグラだった。加えてカリグラには第零都の天女もおぞましかっただろう。いまだ天女に隷属しているようなサイオンの民を哀れにも思ったはずだ。カリグラはディオクレアがつけ込む最適の標的と化していた」
ユリウスは労るようにルカに微笑む。
「私の力が足りなかった。カリグラを死に追いやったのは私だ。おまえを利用して手を下したようなものだ」
「私の目にも父は狂っていました」
「……そうだな。だが、すでに遅かったらしい」
「遅いというのは?」
「カリグラはディオクレアにサイオン王朝の機密を語っていたに違いない」
「ーーまさか」
「ルクスの情報をうけて、「クラウディアの粛清」をはなった国がパルミラであったことを偶然だと考えられるほど、私は楽観主義ではない」
ユリウスの中で導かれた道筋はルカも思い描いたことだった。
「それは私も考えましたが……」
認めたくはなかったが皇帝ユリウスが確信するには、それに足る理由があるのだろう。
理由。
ディオクレアの策略に落ちた父、カリグラ。
機密を打ち明けていないと考えるほうが無理がある。
「ルクスのもたらした映像がいかに大きな意味を持つのか、もうおまえにもわかるだろう」
ユリウスに促されてルカは思い至る。
「はい。サイオンの王女が天女の複製であるのなら」
スーに瓜二つの人影。そこから導かれるのは。
「ここに映る者も」
「そう、天女の複製である可能性が高い」
「陛下の懸念は理解できます。サイオンの王女が抱える意味は大きい。もし新たな複製であれば、見過ごすことはできないでしょう」
「もちろんそれもあるが……」
ユリウスはワイングラスの淵に指先をすべらせる。何かを考えているようだった。
「私には信じられない」
「この映像が作られたモノであるということですか?」
「今の段階ではあらゆる可能性を孕んでいるが、ここに映っていることが事実であれば、サイオンが関わっているということになる」
ルカはうなずく。サイオンの人間には天女の設計による思想抑制が働いているのだ。是非もない。
「王女の代替えが用意されているということなのではありませんか?」
ユリウスはじっとワイングラスに目を向けたまま、自身の思考をたどっている。
「ーー聞いたことがない」
「陛下?」
「サイオンの拠点がパルミラにもあるという話を、私は聞いたことがない」
「サイオンが秘匿しているのではありませんか?」
「それも否定はできないが……」
やはりユリウスには何か思うことがあるようだった。ルカは彼が語りだすのを待つだけである。所在なく手元にあったワインを少し口に含んだ。
甘いとは思ったが、くすぶる絶望に味覚が鈍っている。良し悪しを判断できるほど味わえない。
ルカがゆっくりと飲み込むとユリウスの声がした。
「秘匿している可能性もあるが、--もしこのことをサイオンが把握していない場合はどうなる?」
「そんなことはあり得ないでしょう」
天女の設計により送り出される王女が、サイオンによって徹底的に管理されているのはルカにも容易に想像がついた。
ユリウスは自身のグラスをあおると真っ直ぐにルカを見た。憐憫の情に染まった青い輝きは消え失せている。深く強い眼だった。
「そう。本来であればあり得ない。なぜなら、もしサイオンが把握していなければ、天女の設計の外に存在することになる」
ルカはユリウスが導こうとしている道筋を感じた。
なす術がない絶望に、あるかなしかのわずかな糸口。
「そう考えると、パルミラにはサイオンの思想抑制から逃れた者がいると仮定できる」
「陛下」
自分を労わっての仮説なのかもしれない。けれど、その気遣いはルカにとっては一条の光となる。
「ルカ、サイオンを見捨てなければならないと悲観するのはまだ早い。そう思わないか」
「都合の良い仮定にすぎません」
「だが、可能性はゼロではない」
公の場で見るに等しく、目の前にあるのは皇帝の力強い眼差しだった。
「サイオンを見捨てることは、私にとっても本意ではないのだ」
ユリウスの声が奈落の深淵に落ちてくる。ほとりと。震える光のしずくのように。
ほのかな輝きは深淵にしずみ、柔らかな波紋を広げて世界を揺るがせていく。
ルカの出口のなかった暗闇が明度を取り戻す。
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「私はおまえがスー王女を愛しいと打ち明けた時から予感を抱いている。もちろん今の段階では何の根拠もないが」
「予感ですか」
「そうだ」
迷いもなくユリウスが言葉にした。
「おまえはきっと成し遂げる」
「ーー陛下」
これ以上はない心強い言葉だった。ルカはぐっと奥歯を噛みしめる。
「ありがとうございます」
ユリウスには悟られているのだ。
今までの自分には覚悟が足りなかったこと。
そして。
スーの末路につながる絶望の淵で、自分が気づいてしまったこと。
なす術がないという絶望の中で、ようやくたどりついたことに。
(私は……)
人はいつでも失ってから気づく。けれど、自分はまだ何も失ってはいないのだ。
(スーを愛している)
自分で思っていたよりもずっと、彼女に心を奪われている。
失う前に気づけたことは幸運だった。
変えがたい本心であり、それがこれからの行き先を決める。
諦めることなどできるはずがない。まだわずかに希望が残っているのだ。
何もできなかったと悔いるだけの未来など望まない。
途方もない夢に挑むためらいは消え失せていた。挑まなければ絶対に後悔するだろう。
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