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第十五章 皇太子の罪と王女の恥
86:何もみえていなかった
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彼はそのまま甲板を進んで、さらに近づいてくる。
自然な様子から、どうやらガラスに反射する光景を眺めているのだと気づいた。
スーが肩の力をぬくと、ルカは甲板の柵のまえで歩みをとめた。客室の壁面ガラスに遮断されているだけで、彼はすぐそこにたたずんでいた。
遠くで動力の稼働音がひびいている。わずかな振動が触れるだけで、外界の音は客室にはとどかない。
波の音も海鳥の泣き声もきこえない。船室の防音効果をかんじているのに、スーはなぜか声をだしてはいけないような気がして黙っていた。
何かを呟くと、ルカに聞こえてしまうのではないかと思ったのだ。
それほどに彼との距離はちかい。
ヘレナとルキアも、じっとルカの様子を見守っていた。
ブリッジの甲板をかこむ柵に手をおき、ルカは彼方の水平線を眺めているようだった。気持ちをおしはかることを拒むような無表情な横顔に、するりと一筋の感傷がよぎる。あっと思った時には、スーの心も押しよせたさざ波に浸食されていた。
スーは思わず立ちあがって、窓ぎわへと身をよせる。
水平線から上空へと視線をなげ、空を仰ぐルカの端正な横顔。
スーの視界の中で、見たこともない絶望が、みるみるうちにルカの美しい顔を犯していく。
手に持っていた花束を、ルカは高く投げはなった。花束はいくばくかの花弁を散らしながら、放物線をえがくように舞いあがり、波間へと消えた。
(――申し訳ありません……)
聞こえるはずのないルカの声が、スーには聞こえた。聞こえた気がした。
目の前にたたずむルカの横顔。かすかに動いた唇が、なんども繰り返す。
申し訳ありませんと。
じかに触れることのできない呟き。声は何もとどかない。とどかないのに、スーは自分の視界が揺らめくのをかんじた。
ルカの抱えている後悔と罪悪のすべてが伝わってくる。
(ルカ様……)
飛びだしていって、彼をだきしめたい。
こみあげた感情のやり場がなく、スーはぎゅうっと強く手を拳に握りしめて立ちつくす。
(わたしはいったい何をみてきたの?)
帝国にきてからの月日、ルカの隣にたてるような皇太子妃をめざしていた。彼のそばに寄りそいたいと励んできたつもりである。
出会ったばかりの頃よりも、少しずつ彼に打ちとけはじめている気がして、有頂天になっていた。
(……ルカ様のことを、何もわかっていない。わかろうとしていなかった)
美しく気高いだけの、幻の虚像をみていたに等しい。
優しく素敵な、非のうちどころのない皇太子。
心をときめかせて憧れるだけの対象。
(ルカ様が強いなんて――)
スーはうつむいて固く目をとじる。哀しくて、悔しくて、涙がこぼれた。
(恥ずかしい!)
何も見えていなかった。
帝国のためにすべてを割りきって立つ皇太子としの姿勢。時として人々が畏怖するほどの決意をもって、成しとげてきた功績。最善を望むための冷酷な顔。
皇太子としてのルカのふるまいのすべて。それが仮面であることをスーも理解していなかったのだ。これでは彼に悪評を立てる者たちと何も変わらない。
ルカは何も割りきってなどいない。犯した罪悪の全てが胸の内に残りつづけているのだ。
後悔や悲嘆を、幾重もの仮面をかぶってかくし、みえなくしてきただけ。
決して強くはない。特別でもない。彼も一人の人間なのだ。
(そんなことにも気づかず、ルカ様を支えたいなんて)
自分に怒りがわく。なんて中身のない目標を掲げていたのか。
ルカの強さは、スーの思い込みが形作っていた強靭な精神ではない。
自身の弱さを認めて、なお強くあろうとする意志にある。
悔いても歩みを止めない、茨の道をいく覚悟。
「……スー様」
唇をかみしめて悔しさに涙していると、ヘレナに肩をだかれた。
スーはヘレナとルキアの意図を理解した。
恋に恋する少女のように、今まではルカへの憧れだけしか持っていなかった。
おとぎ話に出てくる白馬の王子様を愛でるように。
きれいな上澄みだけをすくっていたのだ。底に沈んでいる真実を、何もみていなかった。
今となっては、恥ずかしくてたまらない。
「ルキア様とヘレナ様には、見えていらっしゃったのですね」
ヘレナのさしだした美しい意匠のハンカチを手にとり、スーは涙をふいた。
「ルカ様の本当の姿が。……そして、何も見えていないわたしに、それを伝えるために、今日は見せてくださったのですね」
真っすぐに前をむいて甲板にたたずむルカをみると、綺麗な横顔は無表情にもどっていた。もう何の感傷もうつさず、感情を読みとることもできない。
潮風にあおられて、きらきらと金髪がたなびくように踊っている。
もし、今スーが声をかけても、ルカはいつものように優し気にほほ笑んでくれるだけなのだろう。
「がっかりなさいましたか?」
ヘレナの問いかけに、スーは激しく首をふった。
悲嘆と後悔、そして罪悪に苛まれたルカの切なげな表情を、スーは決して忘れない。
悔しさと一緒にこみあげた感情は、憧れをつき破って、新たに胸を満たし、いっぱいにした。
駆けよることができれば、スーはルカを抱きしめていた。
「わたしはルカ様が大好きです」
独りでたたずむ彼をみて、愛しいと思ったのだ。
とても愛しい人だと。
身が焦げつきそうなほど切なく、愛しい。
ときめきよりも熱をはらんだ甘い激情が、怒涛のいきおいでスーの心を埋めてしまった。
「とても愛しい方だと思いました。わたしはこれまで以上に、ルカ様をささえる皇太子妃になりたいと願います」
罪も悲嘆も後悔も、下される罰さえも、すべてをわかちあえるような伴侶になりたい。たとえ茨の道であっても、くじけることなくルカとともに歩み、いつまでも寄りそえるように。
彼がくつろぎ、ほほ笑むことができる場所を守りたいと、スーはつよく思った。
自然な様子から、どうやらガラスに反射する光景を眺めているのだと気づいた。
スーが肩の力をぬくと、ルカは甲板の柵のまえで歩みをとめた。客室の壁面ガラスに遮断されているだけで、彼はすぐそこにたたずんでいた。
遠くで動力の稼働音がひびいている。わずかな振動が触れるだけで、外界の音は客室にはとどかない。
波の音も海鳥の泣き声もきこえない。船室の防音効果をかんじているのに、スーはなぜか声をだしてはいけないような気がして黙っていた。
何かを呟くと、ルカに聞こえてしまうのではないかと思ったのだ。
それほどに彼との距離はちかい。
ヘレナとルキアも、じっとルカの様子を見守っていた。
ブリッジの甲板をかこむ柵に手をおき、ルカは彼方の水平線を眺めているようだった。気持ちをおしはかることを拒むような無表情な横顔に、するりと一筋の感傷がよぎる。あっと思った時には、スーの心も押しよせたさざ波に浸食されていた。
スーは思わず立ちあがって、窓ぎわへと身をよせる。
水平線から上空へと視線をなげ、空を仰ぐルカの端正な横顔。
スーの視界の中で、見たこともない絶望が、みるみるうちにルカの美しい顔を犯していく。
手に持っていた花束を、ルカは高く投げはなった。花束はいくばくかの花弁を散らしながら、放物線をえがくように舞いあがり、波間へと消えた。
(――申し訳ありません……)
聞こえるはずのないルカの声が、スーには聞こえた。聞こえた気がした。
目の前にたたずむルカの横顔。かすかに動いた唇が、なんども繰り返す。
申し訳ありませんと。
じかに触れることのできない呟き。声は何もとどかない。とどかないのに、スーは自分の視界が揺らめくのをかんじた。
ルカの抱えている後悔と罪悪のすべてが伝わってくる。
(ルカ様……)
飛びだしていって、彼をだきしめたい。
こみあげた感情のやり場がなく、スーはぎゅうっと強く手を拳に握りしめて立ちつくす。
(わたしはいったい何をみてきたの?)
帝国にきてからの月日、ルカの隣にたてるような皇太子妃をめざしていた。彼のそばに寄りそいたいと励んできたつもりである。
出会ったばかりの頃よりも、少しずつ彼に打ちとけはじめている気がして、有頂天になっていた。
(……ルカ様のことを、何もわかっていない。わかろうとしていなかった)
美しく気高いだけの、幻の虚像をみていたに等しい。
優しく素敵な、非のうちどころのない皇太子。
心をときめかせて憧れるだけの対象。
(ルカ様が強いなんて――)
スーはうつむいて固く目をとじる。哀しくて、悔しくて、涙がこぼれた。
(恥ずかしい!)
何も見えていなかった。
帝国のためにすべてを割りきって立つ皇太子としの姿勢。時として人々が畏怖するほどの決意をもって、成しとげてきた功績。最善を望むための冷酷な顔。
皇太子としてのルカのふるまいのすべて。それが仮面であることをスーも理解していなかったのだ。これでは彼に悪評を立てる者たちと何も変わらない。
ルカは何も割りきってなどいない。犯した罪悪の全てが胸の内に残りつづけているのだ。
後悔や悲嘆を、幾重もの仮面をかぶってかくし、みえなくしてきただけ。
決して強くはない。特別でもない。彼も一人の人間なのだ。
(そんなことにも気づかず、ルカ様を支えたいなんて)
自分に怒りがわく。なんて中身のない目標を掲げていたのか。
ルカの強さは、スーの思い込みが形作っていた強靭な精神ではない。
自身の弱さを認めて、なお強くあろうとする意志にある。
悔いても歩みを止めない、茨の道をいく覚悟。
「……スー様」
唇をかみしめて悔しさに涙していると、ヘレナに肩をだかれた。
スーはヘレナとルキアの意図を理解した。
恋に恋する少女のように、今まではルカへの憧れだけしか持っていなかった。
おとぎ話に出てくる白馬の王子様を愛でるように。
きれいな上澄みだけをすくっていたのだ。底に沈んでいる真実を、何もみていなかった。
今となっては、恥ずかしくてたまらない。
「ルキア様とヘレナ様には、見えていらっしゃったのですね」
ヘレナのさしだした美しい意匠のハンカチを手にとり、スーは涙をふいた。
「ルカ様の本当の姿が。……そして、何も見えていないわたしに、それを伝えるために、今日は見せてくださったのですね」
真っすぐに前をむいて甲板にたたずむルカをみると、綺麗な横顔は無表情にもどっていた。もう何の感傷もうつさず、感情を読みとることもできない。
潮風にあおられて、きらきらと金髪がたなびくように踊っている。
もし、今スーが声をかけても、ルカはいつものように優し気にほほ笑んでくれるだけなのだろう。
「がっかりなさいましたか?」
ヘレナの問いかけに、スーは激しく首をふった。
悲嘆と後悔、そして罪悪に苛まれたルカの切なげな表情を、スーは決して忘れない。
悔しさと一緒にこみあげた感情は、憧れをつき破って、新たに胸を満たし、いっぱいにした。
駆けよることができれば、スーはルカを抱きしめていた。
「わたしはルカ様が大好きです」
独りでたたずむ彼をみて、愛しいと思ったのだ。
とても愛しい人だと。
身が焦げつきそうなほど切なく、愛しい。
ときめきよりも熱をはらんだ甘い激情が、怒涛のいきおいでスーの心を埋めてしまった。
「とても愛しい方だと思いました。わたしはこれまで以上に、ルカ様をささえる皇太子妃になりたいと願います」
罪も悲嘆も後悔も、下される罰さえも、すべてをわかちあえるような伴侶になりたい。たとえ茨の道であっても、くじけることなくルカとともに歩み、いつまでも寄りそえるように。
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