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第九章:離宮で過ごす王女と皇太子
51:愛しい王女
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「実はルキア様に誘われた時、すこし戸惑いました」
以前と同じようにスーを前に乗せて、ピテルで草原の散策をはじめると、しばらくして彼女が打ち明けた。
理由についてはルカにも予想がつく。誤魔化しても仕方ないので素直に伝えた。
「そうですね。ピテルに同乗すると、後ろからスーを抱きしめることになる」
「え?」
スーが前を向いたまま頬を染めているのがわかる。一瞬で耳と首筋が紅潮するのだ。
「ルカ様もそんなふうに思っていたのですか?」
「思わない男がいたら、……いろいろと問題でしょうね」
だからこそルキアもあんなことを言い出したのだ。彼の思惑通り、自分の狭量さを自覚してしまい、ルカは胸の内で舌打ちしたくなる。
たとえ相手がルキアでも、スーと身を寄せ合って騎乗する誰かに無関心ではいられなかった。
「では、わたしのことも、少しは女性として意識して下さっていますか?」
どう答えるべきかと迷ったが、ルカは飾らず認めた。
「もちろんです」
「え?」
自分で話を振っておきながら、スーが戸惑っているのがわかる。華奢な体が、緊張を取り戻したようにぎこちなくなるのを感じた。相変わらずの初心さだなと、ルカは可笑しくなる。
「スーは? 私のことを意識していますか?」
「はい! もちろんです!」
細い首筋から、さらに全身に血がめぐったように、彼女の白い肌がほんのりと淡く血色を滲ませる。袖のない涼しげな装いから覗く、細い肩と二の腕がほのかに染まっていた。
「唇のお手入れも頑張っています!」
ここ数日は、スーが唇をこすっているところを見なくなった。先日ユエンからも感謝されたので、ルカの挨拶のようなキスは効果的だったのだろう。
「ルカ様は約束を覚えていますか?」
約束。間違いなく、弾みでからかってしまった大人のキスの話をしているに違いない。
「覚えていますが……」
ルカは嫌な予感がして、先手を打っておこうと決めた。
「スーは大人のキスがどういうものか、わかっていますか?」
「もちろんです!」
はりきった様子で声が弾んでいる。絶対にわかってないだろうとルカは突っ込みたくなるが、今となっては先にきっかけを作った自分を呪うしかなかった。
「スー、申し訳ないですが、私は妃として迎える前に、あなたに手を出すつもりはありません」
貞操観念の希薄な帝国貴族がきけば一笑にふしそうな建前だったが、スーには効くはずだった。
「それは、どういう……?」
やはりスーには大人のキスから、そこまでは繋がらないらしい。
「私も普通の男なので、そんなキスをしたら、そのままあなたを抱いてしまう。それは避けたい」
「はい!?」
馬上で飛び上がりそうな勢いで、スーが動揺している。ルカは笑いをかみ殺して続けた。
「きっとスーが思っているほど、簡単には終わらないです」
「それは、もしかしなくても、ルカ様が狼に……?」
「私も男なので」
スーの白い肌が、ますます血色を反映している。
(あまりからかうと、自分の首を絞めるだけだな)
「この話はここまでにしましょう」
自分の腕に抱かれるように、無防備に身をあずけて恥じらっているスーの様子が、ルカには耐えがたい。
すぐに色づく白い肌すらも扇情的に感じる。
日中は汗ばむほどの時期である。互いの装いも薄く、身を寄せ合っていると、直に体温が触れるに等しい艶かしさがあった。
(……なぜ、今まで彼女を意識せずにいられたのか)
答えはわかっている気がしたが、掘り下げることに恐れを感じる。
認めたくはなかったが、目を背けてみてもごまかせない。押し殺したはずの心が訴えている。
はじめは義務感と好奇心だった。
サイオンの王女という肩書が、彼女の印象を形作っていた。
心は無彩色のまま、特別な色をまとわず彼女を眺めていられた。予想外のおかしさも、珍獣を愛でるような距離感でやりすごし、彼女との日々に気をつかっていた。
一定に保つはずだった距離感。スーと共にいると、狂いだすのに時間はかからなかった。
彼女の気持ちがあまりにも無垢で綺麗だったから、歩みよってしまったのだ。
もっと近くで眺めていたいと思った。
(スーと一緒にいるとよく笑っている、か)
出会ってから、それほど長く時を過ごしたわけでもないのに、なぜこれほど彼女に心を許してしまうのか。
サイオンの王女への義務感はとうに超えていた。いつのまにかルカはスーを見ていたのだ。
前向きで意欲的な姿勢。皇太子妃としての出来事の捉えかた。真っ直ぐに向けられた、献身にも似た思い。
純粋な好意。
振り絞るような泣き声。
少しずつスーがルカの心を彩っていく。彼女と過ごす日々を、今は愛しく感じる。
殺伐とした日々に舞いこんだ鮮やかな世界。
彼女が傍にいると、屈託なく笑うことができた。
幼い頃の美しい思い出に負けないほど愉快で、切ない。
そして、愛しいのだ。
彼女が愛しい。
甘い痛みをともなって、ルカの気持ちを満たしていく。
決して告げることを許されない思いが、胸の底に堆積するように募りはじめていた。
(スーは、小さいな……)
ピテルに跨り、自分に身をあずけているスーを、強く引き寄せたい衝動に駆られてしまう。
庇護欲をそそる、細く小柄な体。
自分にはない柔らかな熱。
スーを背後から抱きすくめるような二人騎乗は、今のルカには酷だった。触れ合っているだけで、たやすく欲望が刺激される。
珍獣を愛でるような愉快さだけには留まらない。
彼女が比類なき美姫であることを、思い知らされている。
決して手を出すことがきない相手に、不毛な欲を募らせたくない。そんな思いからスーとピテルに同乗することを避けていたが、ルキアはすぐにルカの葛藤を見抜いたのだろう。
ここぞとばかりに仕掛けてくる。ひたすら忌々しい従兄弟だった。
「あの、ルカ様」
「はい」
スーが体を捻るようにしてこちらを向いたが、すぐに何を思ったのか、進行方向とは反対を向くように、くるりとピテルの背中に跨り直した。
馬に慣れたのだなと、微笑ましく思えたのは一瞬だった。
「こちら向きに乗ると、ルカ様のお顔を見ながらお話ができます」
「……そう、ですね」
スーは上目遣いにこちらを仰いで、はにかんだように笑っている。
ぐらりとルカの理性がガタつく。
「スー、でも危険です」
なんとか気を持ち直して諭すが、スーは「大丈夫です」と笑う。
「こうしてルカ様につかまっていたら絶対に落ちません」
「…………」
ぎゅっとスーがルカにしがみついてくる。彼の強靭な理性が、倒れそうなほど軋んで傾いた。
愛しく思っている相手にぴったりとすがりつかれて、無関心を装うのは至難の技に近い。
(いったい、スーの恥じらいはどこで区別されているんだ)
彼女は心を許した者に飛びつく癖がある。今の攻撃もその延長にあるのかと考えていると、スーが突然あたふたと腕の力を緩めて身を離した。顔がさらに真っ赤になっている。
自分の振舞いに、いまさら恥じらっているようだった。
「ルカ様の胸は、やっぱり女性とは全然違いますね」
「それはまぁ、男ですから」
「はい。とても逞しくて、恥ずかしくなってしまいました」
「――……」
ぶつりと焼き切れそうになった理性の糸を、ルカは気力でつなぎとめた。
彼はこの時になってはじめて危惧した。もしかすると、これからは全く別の方向からとんでもない爆弾が飛んでくるのかもしれない。
こんなに扇情的な美貌を持った王女に、優し気な振る舞いをして懐かれてしまったこと。
自分は途轍もない間違いを犯したのではないか。
(このままでは、道を誤るかもしれない)
蠱惑的なのにいじらしい。最悪の組み合わせだった。
傾国の美女。という言葉が脳裏をよぎる。
もっと彼女を突き放しておくべきだったのではないか。
「あ、ルカ様。ルキア様が手を振っておられます」
スーの無邪気な声が空へ弾ける。
ぐるぐると嫌な予感に蝕まれているルカとは対照的に、今日も青空は澄み渡っていた。
以前と同じようにスーを前に乗せて、ピテルで草原の散策をはじめると、しばらくして彼女が打ち明けた。
理由についてはルカにも予想がつく。誤魔化しても仕方ないので素直に伝えた。
「そうですね。ピテルに同乗すると、後ろからスーを抱きしめることになる」
「え?」
スーが前を向いたまま頬を染めているのがわかる。一瞬で耳と首筋が紅潮するのだ。
「ルカ様もそんなふうに思っていたのですか?」
「思わない男がいたら、……いろいろと問題でしょうね」
だからこそルキアもあんなことを言い出したのだ。彼の思惑通り、自分の狭量さを自覚してしまい、ルカは胸の内で舌打ちしたくなる。
たとえ相手がルキアでも、スーと身を寄せ合って騎乗する誰かに無関心ではいられなかった。
「では、わたしのことも、少しは女性として意識して下さっていますか?」
どう答えるべきかと迷ったが、ルカは飾らず認めた。
「もちろんです」
「え?」
自分で話を振っておきながら、スーが戸惑っているのがわかる。華奢な体が、緊張を取り戻したようにぎこちなくなるのを感じた。相変わらずの初心さだなと、ルカは可笑しくなる。
「スーは? 私のことを意識していますか?」
「はい! もちろんです!」
細い首筋から、さらに全身に血がめぐったように、彼女の白い肌がほんのりと淡く血色を滲ませる。袖のない涼しげな装いから覗く、細い肩と二の腕がほのかに染まっていた。
「唇のお手入れも頑張っています!」
ここ数日は、スーが唇をこすっているところを見なくなった。先日ユエンからも感謝されたので、ルカの挨拶のようなキスは効果的だったのだろう。
「ルカ様は約束を覚えていますか?」
約束。間違いなく、弾みでからかってしまった大人のキスの話をしているに違いない。
「覚えていますが……」
ルカは嫌な予感がして、先手を打っておこうと決めた。
「スーは大人のキスがどういうものか、わかっていますか?」
「もちろんです!」
はりきった様子で声が弾んでいる。絶対にわかってないだろうとルカは突っ込みたくなるが、今となっては先にきっかけを作った自分を呪うしかなかった。
「スー、申し訳ないですが、私は妃として迎える前に、あなたに手を出すつもりはありません」
貞操観念の希薄な帝国貴族がきけば一笑にふしそうな建前だったが、スーには効くはずだった。
「それは、どういう……?」
やはりスーには大人のキスから、そこまでは繋がらないらしい。
「私も普通の男なので、そんなキスをしたら、そのままあなたを抱いてしまう。それは避けたい」
「はい!?」
馬上で飛び上がりそうな勢いで、スーが動揺している。ルカは笑いをかみ殺して続けた。
「きっとスーが思っているほど、簡単には終わらないです」
「それは、もしかしなくても、ルカ様が狼に……?」
「私も男なので」
スーの白い肌が、ますます血色を反映している。
(あまりからかうと、自分の首を絞めるだけだな)
「この話はここまでにしましょう」
自分の腕に抱かれるように、無防備に身をあずけて恥じらっているスーの様子が、ルカには耐えがたい。
すぐに色づく白い肌すらも扇情的に感じる。
日中は汗ばむほどの時期である。互いの装いも薄く、身を寄せ合っていると、直に体温が触れるに等しい艶かしさがあった。
(……なぜ、今まで彼女を意識せずにいられたのか)
答えはわかっている気がしたが、掘り下げることに恐れを感じる。
認めたくはなかったが、目を背けてみてもごまかせない。押し殺したはずの心が訴えている。
はじめは義務感と好奇心だった。
サイオンの王女という肩書が、彼女の印象を形作っていた。
心は無彩色のまま、特別な色をまとわず彼女を眺めていられた。予想外のおかしさも、珍獣を愛でるような距離感でやりすごし、彼女との日々に気をつかっていた。
一定に保つはずだった距離感。スーと共にいると、狂いだすのに時間はかからなかった。
彼女の気持ちがあまりにも無垢で綺麗だったから、歩みよってしまったのだ。
もっと近くで眺めていたいと思った。
(スーと一緒にいるとよく笑っている、か)
出会ってから、それほど長く時を過ごしたわけでもないのに、なぜこれほど彼女に心を許してしまうのか。
サイオンの王女への義務感はとうに超えていた。いつのまにかルカはスーを見ていたのだ。
前向きで意欲的な姿勢。皇太子妃としての出来事の捉えかた。真っ直ぐに向けられた、献身にも似た思い。
純粋な好意。
振り絞るような泣き声。
少しずつスーがルカの心を彩っていく。彼女と過ごす日々を、今は愛しく感じる。
殺伐とした日々に舞いこんだ鮮やかな世界。
彼女が傍にいると、屈託なく笑うことができた。
幼い頃の美しい思い出に負けないほど愉快で、切ない。
そして、愛しいのだ。
彼女が愛しい。
甘い痛みをともなって、ルカの気持ちを満たしていく。
決して告げることを許されない思いが、胸の底に堆積するように募りはじめていた。
(スーは、小さいな……)
ピテルに跨り、自分に身をあずけているスーを、強く引き寄せたい衝動に駆られてしまう。
庇護欲をそそる、細く小柄な体。
自分にはない柔らかな熱。
スーを背後から抱きすくめるような二人騎乗は、今のルカには酷だった。触れ合っているだけで、たやすく欲望が刺激される。
珍獣を愛でるような愉快さだけには留まらない。
彼女が比類なき美姫であることを、思い知らされている。
決して手を出すことがきない相手に、不毛な欲を募らせたくない。そんな思いからスーとピテルに同乗することを避けていたが、ルキアはすぐにルカの葛藤を見抜いたのだろう。
ここぞとばかりに仕掛けてくる。ひたすら忌々しい従兄弟だった。
「あの、ルカ様」
「はい」
スーが体を捻るようにしてこちらを向いたが、すぐに何を思ったのか、進行方向とは反対を向くように、くるりとピテルの背中に跨り直した。
馬に慣れたのだなと、微笑ましく思えたのは一瞬だった。
「こちら向きに乗ると、ルカ様のお顔を見ながらお話ができます」
「……そう、ですね」
スーは上目遣いにこちらを仰いで、はにかんだように笑っている。
ぐらりとルカの理性がガタつく。
「スー、でも危険です」
なんとか気を持ち直して諭すが、スーは「大丈夫です」と笑う。
「こうしてルカ様につかまっていたら絶対に落ちません」
「…………」
ぎゅっとスーがルカにしがみついてくる。彼の強靭な理性が、倒れそうなほど軋んで傾いた。
愛しく思っている相手にぴったりとすがりつかれて、無関心を装うのは至難の技に近い。
(いったい、スーの恥じらいはどこで区別されているんだ)
彼女は心を許した者に飛びつく癖がある。今の攻撃もその延長にあるのかと考えていると、スーが突然あたふたと腕の力を緩めて身を離した。顔がさらに真っ赤になっている。
自分の振舞いに、いまさら恥じらっているようだった。
「ルカ様の胸は、やっぱり女性とは全然違いますね」
「それはまぁ、男ですから」
「はい。とても逞しくて、恥ずかしくなってしまいました」
「――……」
ぶつりと焼き切れそうになった理性の糸を、ルカは気力でつなぎとめた。
彼はこの時になってはじめて危惧した。もしかすると、これからは全く別の方向からとんでもない爆弾が飛んでくるのかもしれない。
こんなに扇情的な美貌を持った王女に、優し気な振る舞いをして懐かれてしまったこと。
自分は途轍もない間違いを犯したのではないか。
(このままでは、道を誤るかもしれない)
蠱惑的なのにいじらしい。最悪の組み合わせだった。
傾国の美女。という言葉が脳裏をよぎる。
もっと彼女を突き放しておくべきだったのではないか。
「あ、ルカ様。ルキア様が手を振っておられます」
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