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第八章:婚約披露の代償
45:誘拐劇の痕
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「帝国のことは聞きたくないって、よく怒っていたのに?」
「それは、色々と思い悩むのが嫌だっただけで」
「恋は盲目って本当にあるんだね」
「叔父様!」
「あのスーがねぇ」
「いったい何が仰りたいんですか?」
「いや、思ったよりずっと幸せそうで驚いただけだよ。スーのことだから悲壮な顔はしていないだろうと思っていたけど、まさか、こんな恋する乙女になったスーを見る日がくるとは」
帝国に来てからは、ルカを中心に世界が回っている自覚があった。彼に首っ丈になっていることは、リンにはすぐに見抜かれたようだ。
「たしかに殿下は綺麗な顔をしているけど……」
リンが臆面もなく隣のルカの顔をまじまじと眺めている。
「叔父様、ルカ様に失礼です」
「殿下は、スーの大好きな白馬の王子様みたいな方だよね」
「叔父様!」
スーがリンを睨んでいると、彼は笑いながらポンとスーの頭を叩いた。幼いころからよくある仕草だった。
「僕からは二人に白馬を一頭贈るよ」
「白馬? 突然何を言い出すの?」
「殿下は馬くらい飼えるよね」
ルカもリンの真意がわからないらしく、戸惑った顔をしている。
「はい。……乗馬用の厩舎がありますが」
「そう、じゃあ殿下は馬も乗れるんだ。さすがだね、良かった」
「叔父様?」
「婚約祝いに贈るよ。おとぎ話に出てきそうな飛び切り美しいやつをね」
リンが何を考えているのか、スーには全くわからない。怪訝な顔していると、寝台のスーと同じ目線になるように、リンが身を屈めた。
「僕はもう行くけど、元気でね、スー。またね」
「叔父様は、次はどこへ行くの?」
「さぁ、秘密」
せっかく会えたのに、束の間の再会である。でも、それがとてもリンらしい。いつも不思議な人だなと思うが、スーは目覚めた時にリンがいてくれて良かったと思う。あんな出来事の後なのだ。動揺していないと言えば嘘になる。
サイオンの雰囲気をまとう叔父に、少し支えてもらえた気がした。スーにとっては昔も今も、気心の知れた心強い叔父である。
「顔を見せてくれてありがとう、叔父様」
「うん。僕もスーに会えて良かった。……ユエン、あとは頼むよ」
「はい、リン様」
寝台の傍らに控えているユエンが、リンに深く頭を下げた。
「じゃあ、ルカ殿下。ちょっといいかな。厩舎を見せてもらいたいんだけど」
「?――はい」
リンがルカを誘って部屋から出ていく。オトが「失礼します」と、柔和な笑顔を残して二人の案内のために退出した。
スーは再びユエンと二人きりになった。室内に賑やかさがなくなると、再びごしごしと唇を拭ってしまう。
「姫様、そんなに口元を擦っては、唇が荒れてしまいますよ?」
「え? あ、そうね」
「少し横になられますか?」
「いいえ、大丈夫よ」
答えると、ユエンがそっとスーの肩に薄めの上着を羽織らせてくれる。
「立派でした、姫様」
「ユエン?」
「でも、もう大丈夫です。今は姫様の傍には私しかおりません」
ユエンの温かい手が、労るようにスーの手を握った。
「今なら、怖かったと泣いても誰にもわかりません」
「――……」
的確に見抜かれて、スーの視界がじわじわと滲み始める。
ルカの世界を知るための経験だったと、そう割り切ると決めているのに、込み上げる恐れと嫌悪感を拭いきれない。唇を拭ってみても、消えない。
気持ち悪い。そして、苦しくて、とても恐ろしかったのだ。
「っ……」
「大丈夫だとルカ殿下に笑えた姫様は立派でした。きっと殿下を支える強く逞しい皇太子妃になられます」
ユエンが認めてくれるなら、自分は目指した道を見失わず歩いている。
ルカの隣に寄り添える皇太子妃になるために。
「でも、今は怖かったと泣いても良いのですよ」
「……な、内緒よ」
「はい。私は何も見ておりません」
ユエンの言葉が免罪符だった。
試練を糧として受け止める前に、スーは少しだけ自分の弱さを見つめなおす。
(本当は、大丈夫じゃない)
堪えきれず、スーはぼろぼろと涙をこぼして泣いた。声を上げないように嗚咽を我慢していたが、すぐに抑えきれなくなる。
まだ鮮明に思い出せるのだ。
じわじわと広間の床に広がった血溜まり。目の前で絶命した護衛の顔。壁に飛び散った血飛沫。
肩を外された激痛も、みぞおちにめり込んだ拳の悶絶するほどの痛みも。
窒息するように口を塞がれた苦しみも、にがく気持ちの悪い味も、全て克明に覚えている。
(――怖かった……)
刺すような冷酷な光を宿した目。救いのない話。
絶望しながら、意識が引き込まれていく感覚。
もしあのまま連れ去られていたら、きっとルカの元には戻れなかった。
いったい、どんな末路を辿ることになったのか。考えるだけで、スーの心の奥底が凍りつく。
「う、……」
ぎゅうっと血が止まりそうな強さで、スーは重ねた両手を握りしめた。ぽつぽつと手の甲に涙が落ちる。
「姫様」
「ユエン。……これは、涙じゃ、……ないわ」
「はい」
ユエンが慰めるように、スーの小さな背中に手を添えた。
(弱音を吐くのは、今だけよ……)
スーは声をあげて泣きじゃくる。
遮られることのない嗚咽が響き、小さな肩が震えた。
悲しみと恐れを吐き出すような、何かを振り絞るような泣き声が、しばらく室内を満たしていた。
「それは、色々と思い悩むのが嫌だっただけで」
「恋は盲目って本当にあるんだね」
「叔父様!」
「あのスーがねぇ」
「いったい何が仰りたいんですか?」
「いや、思ったよりずっと幸せそうで驚いただけだよ。スーのことだから悲壮な顔はしていないだろうと思っていたけど、まさか、こんな恋する乙女になったスーを見る日がくるとは」
帝国に来てからは、ルカを中心に世界が回っている自覚があった。彼に首っ丈になっていることは、リンにはすぐに見抜かれたようだ。
「たしかに殿下は綺麗な顔をしているけど……」
リンが臆面もなく隣のルカの顔をまじまじと眺めている。
「叔父様、ルカ様に失礼です」
「殿下は、スーの大好きな白馬の王子様みたいな方だよね」
「叔父様!」
スーがリンを睨んでいると、彼は笑いながらポンとスーの頭を叩いた。幼いころからよくある仕草だった。
「僕からは二人に白馬を一頭贈るよ」
「白馬? 突然何を言い出すの?」
「殿下は馬くらい飼えるよね」
ルカもリンの真意がわからないらしく、戸惑った顔をしている。
「はい。……乗馬用の厩舎がありますが」
「そう、じゃあ殿下は馬も乗れるんだ。さすがだね、良かった」
「叔父様?」
「婚約祝いに贈るよ。おとぎ話に出てきそうな飛び切り美しいやつをね」
リンが何を考えているのか、スーには全くわからない。怪訝な顔していると、寝台のスーと同じ目線になるように、リンが身を屈めた。
「僕はもう行くけど、元気でね、スー。またね」
「叔父様は、次はどこへ行くの?」
「さぁ、秘密」
せっかく会えたのに、束の間の再会である。でも、それがとてもリンらしい。いつも不思議な人だなと思うが、スーは目覚めた時にリンがいてくれて良かったと思う。あんな出来事の後なのだ。動揺していないと言えば嘘になる。
サイオンの雰囲気をまとう叔父に、少し支えてもらえた気がした。スーにとっては昔も今も、気心の知れた心強い叔父である。
「顔を見せてくれてありがとう、叔父様」
「うん。僕もスーに会えて良かった。……ユエン、あとは頼むよ」
「はい、リン様」
寝台の傍らに控えているユエンが、リンに深く頭を下げた。
「じゃあ、ルカ殿下。ちょっといいかな。厩舎を見せてもらいたいんだけど」
「?――はい」
リンがルカを誘って部屋から出ていく。オトが「失礼します」と、柔和な笑顔を残して二人の案内のために退出した。
スーは再びユエンと二人きりになった。室内に賑やかさがなくなると、再びごしごしと唇を拭ってしまう。
「姫様、そんなに口元を擦っては、唇が荒れてしまいますよ?」
「え? あ、そうね」
「少し横になられますか?」
「いいえ、大丈夫よ」
答えると、ユエンがそっとスーの肩に薄めの上着を羽織らせてくれる。
「立派でした、姫様」
「ユエン?」
「でも、もう大丈夫です。今は姫様の傍には私しかおりません」
ユエンの温かい手が、労るようにスーの手を握った。
「今なら、怖かったと泣いても誰にもわかりません」
「――……」
的確に見抜かれて、スーの視界がじわじわと滲み始める。
ルカの世界を知るための経験だったと、そう割り切ると決めているのに、込み上げる恐れと嫌悪感を拭いきれない。唇を拭ってみても、消えない。
気持ち悪い。そして、苦しくて、とても恐ろしかったのだ。
「っ……」
「大丈夫だとルカ殿下に笑えた姫様は立派でした。きっと殿下を支える強く逞しい皇太子妃になられます」
ユエンが認めてくれるなら、自分は目指した道を見失わず歩いている。
ルカの隣に寄り添える皇太子妃になるために。
「でも、今は怖かったと泣いても良いのですよ」
「……な、内緒よ」
「はい。私は何も見ておりません」
ユエンの言葉が免罪符だった。
試練を糧として受け止める前に、スーは少しだけ自分の弱さを見つめなおす。
(本当は、大丈夫じゃない)
堪えきれず、スーはぼろぼろと涙をこぼして泣いた。声を上げないように嗚咽を我慢していたが、すぐに抑えきれなくなる。
まだ鮮明に思い出せるのだ。
じわじわと広間の床に広がった血溜まり。目の前で絶命した護衛の顔。壁に飛び散った血飛沫。
肩を外された激痛も、みぞおちにめり込んだ拳の悶絶するほどの痛みも。
窒息するように口を塞がれた苦しみも、にがく気持ちの悪い味も、全て克明に覚えている。
(――怖かった……)
刺すような冷酷な光を宿した目。救いのない話。
絶望しながら、意識が引き込まれていく感覚。
もしあのまま連れ去られていたら、きっとルカの元には戻れなかった。
いったい、どんな末路を辿ることになったのか。考えるだけで、スーの心の奥底が凍りつく。
「う、……」
ぎゅうっと血が止まりそうな強さで、スーは重ねた両手を握りしめた。ぽつぽつと手の甲に涙が落ちる。
「姫様」
「ユエン。……これは、涙じゃ、……ないわ」
「はい」
ユエンが慰めるように、スーの小さな背中に手を添えた。
(弱音を吐くのは、今だけよ……)
スーは声をあげて泣きじゃくる。
遮られることのない嗚咽が響き、小さな肩が震えた。
悲しみと恐れを吐き出すような、何かを振り絞るような泣き声が、しばらく室内を満たしていた。
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