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第八章:婚約披露の代償
39:諦めない王女
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赤毛の令嬢に支えられながら、スーは待機部屋へと繋がる細い通路へ入った。
広間に広がっていた甘い香りから遠ざかったせいだろうか。さっきまでの朦朧とした気怠さから、少しずつ正気が戻っていくような気がする。
ぐったりと重たかった体も動く。スーは令嬢に寄りかかっていた重心を戻すように姿勢を正した。
「スー王女、足は痛みますか?」
すぐ隣から聞こえてくる令嬢の声も明瞭だった。
「……はい。ご迷惑をおかけして――申し訳、ありません」
まだ万全ではないのか、言葉を語ると呂律がうまく回らない。
(香りに酔っているのかしら……)
漠然と原因を考えていた時、ふいに「あ!」とスーを支えていた令嬢が小さく悲鳴をあげて、よろめいた。労りのある行動力に任せて頼っていたが、やはりか弱い女性なのだ。傾いた不安定な勢いを支えきれず、二人で通路の床に崩れるように膝をついてしまう。
「うっ……」
通路の床は絨毯が敷き詰めらているが、捻った足に衝撃がつたわり、スーは思わず痛みにうめいた。
「スー王女、申し訳ありません」
令嬢の戸惑った声が聞こえたが、何かが心に引っかかる。
見守るように周りについていた護衛が、二人に駆け寄ってきた。
スーが護衛の手を借りて立ちあがろうとした時、するりと目の前を影がよぎった。
令嬢のドレスの裾がひるがえったのだと理解した時、スーの顔に生暖かいものが降りかかる。
「え?」
視界に赤いものが飛び散り、護衛がドタッと鈍い音を響かせて倒れるのを、まるで劇舞台の演出のように見ていた。
――ドタ、ドタリ。
付き従っていた三人の護衛が動く暇もない。スーに手を差し出していた者が、カッと目を見開いたまま床に倒れる。壁面の白いレリーフが、飛び散った血で不規則に彩られた。倒れたまま動かない護衛の見開かれた目と視線が合い、スーはぞっと背筋が凍った。
恐ろしさで一気に現実感がよみがえり、喉が震える。
「っ!」
叫びは甲高い悲鳴にはならず、通路にはスーのくぐもった呻きが響くだけだった。背後からがっちりと口元を押さえられて、声が出ない。身動きがとれない。
女性とは思えない剛力ではがいじめにされている。
「お静かに、サイオンの王女」
鮮明さを取り戻しつつある意識が、ようやく違和感にたどり着く。
(――この女性は、誰?)
誰だったのか思い出せなかったのではない。元から違うのだ。
広間で会話をしていた赤毛の令嬢とは、声が違う。同じ身なりをしている別人。どうして気づかなかったのかと、スーは心の中で地団駄を踏んだ。
「んんっ!」
自分をとらえる女から逃れようと、必死にもがく。
「鎮静剤の効果が切れてきたようですね。でも、動かないでください。できるなら手荒な真似をしたくない」
女性だと信じて疑わなかった声が、正体を表すかのように低く男性的なものに変化する。護衛はたやすく葬ったのに、未だ自分を殺さないということは、殺してはならない理由があるのだろうか。
スーはサイオンで身につけていた武道を思い出し、令嬢に化けた小柄な男に手刀を繰り出す。
「――おっと、どうやら美しいだけの姫君ではないようだ」
突き出した手はすぐに捕まれ、捻りあげられる。
「あうっ!」
右肩に激痛が走り、ゴキっと関節が外れる音がする。すばやく容赦のない動きだった。
痛みを堪えながら、スーは絶望的な気持ちになる。護衛の不意をついたとは言え、一瞬で三人を葬った能力者相手に、自分が太刀打ちできるはずもない。
「誰かっ――!」
圧倒的に不利だと認めても、諦めることはできない。助けを求めて声をあげようとしたが、またすぐに男の手で口を塞がれる。
「あまりに物分かりが悪いと、損をしますよ」
男がスーを荷物のように抱えあげた。肩から外された右腕は動かせない。捻った足では素早く走ることもできない。
屍となった護衛が横たわる通路を、男は向かっていた部屋とは反対に走り出す。
スーを抱えているにも関わらず、俊足で足音がしない。
「離して!だれか――っ」
声を出すなと言いたげに、男の拳がスーのみぞおちにめり込む。強烈な痛みと衝撃で吐き気を催し、声が出なくなる。
スーが一撃に悶絶している間にも、男はスーを担ぎ上げたまま、どんどん王宮の見知らぬ場所へと進んでいく。入り組んだ通路は、まるで隠れた抜け道のように続いている。
婚約披露の会場となった大広間の喧噪が嘘のような静寂。はじめから逃走経路が決まっていたのか、護衛どころか誰にも会えない。
このまま連れ去られたらどうなるのか。
殺されるのか。あるいはルカに迷惑をかける事態になるのか。
(どっちもごめんだわ)
スーは自分を抱えている男の肩に、思い切り噛み付く。令嬢仕様のドレスはデコルテが開いていて、男の生身に歯を立てられた。自力で逃げきれなくても、時間稼ぎをすれば助けが来てくれるかもしれない。一縷の希望にすがって、肩の肉を引きちぎる勢いで顎に力を込めると、男が叩きつけるようにスーの体を床に放り出した。
「くっ……!」
肩と足に激痛が走り、叩きつけられた衝撃で脳震盪を起こしそうになる。気を失いそうな痛みで目の前が暗転しかけたが、スーはギリっと歯を食いしばった。
(ダメ! 絶対に気を失わない)
広間に広がっていた甘い香りから遠ざかったせいだろうか。さっきまでの朦朧とした気怠さから、少しずつ正気が戻っていくような気がする。
ぐったりと重たかった体も動く。スーは令嬢に寄りかかっていた重心を戻すように姿勢を正した。
「スー王女、足は痛みますか?」
すぐ隣から聞こえてくる令嬢の声も明瞭だった。
「……はい。ご迷惑をおかけして――申し訳、ありません」
まだ万全ではないのか、言葉を語ると呂律がうまく回らない。
(香りに酔っているのかしら……)
漠然と原因を考えていた時、ふいに「あ!」とスーを支えていた令嬢が小さく悲鳴をあげて、よろめいた。労りのある行動力に任せて頼っていたが、やはりか弱い女性なのだ。傾いた不安定な勢いを支えきれず、二人で通路の床に崩れるように膝をついてしまう。
「うっ……」
通路の床は絨毯が敷き詰めらているが、捻った足に衝撃がつたわり、スーは思わず痛みにうめいた。
「スー王女、申し訳ありません」
令嬢の戸惑った声が聞こえたが、何かが心に引っかかる。
見守るように周りについていた護衛が、二人に駆け寄ってきた。
スーが護衛の手を借りて立ちあがろうとした時、するりと目の前を影がよぎった。
令嬢のドレスの裾がひるがえったのだと理解した時、スーの顔に生暖かいものが降りかかる。
「え?」
視界に赤いものが飛び散り、護衛がドタッと鈍い音を響かせて倒れるのを、まるで劇舞台の演出のように見ていた。
――ドタ、ドタリ。
付き従っていた三人の護衛が動く暇もない。スーに手を差し出していた者が、カッと目を見開いたまま床に倒れる。壁面の白いレリーフが、飛び散った血で不規則に彩られた。倒れたまま動かない護衛の見開かれた目と視線が合い、スーはぞっと背筋が凍った。
恐ろしさで一気に現実感がよみがえり、喉が震える。
「っ!」
叫びは甲高い悲鳴にはならず、通路にはスーのくぐもった呻きが響くだけだった。背後からがっちりと口元を押さえられて、声が出ない。身動きがとれない。
女性とは思えない剛力ではがいじめにされている。
「お静かに、サイオンの王女」
鮮明さを取り戻しつつある意識が、ようやく違和感にたどり着く。
(――この女性は、誰?)
誰だったのか思い出せなかったのではない。元から違うのだ。
広間で会話をしていた赤毛の令嬢とは、声が違う。同じ身なりをしている別人。どうして気づかなかったのかと、スーは心の中で地団駄を踏んだ。
「んんっ!」
自分をとらえる女から逃れようと、必死にもがく。
「鎮静剤の効果が切れてきたようですね。でも、動かないでください。できるなら手荒な真似をしたくない」
女性だと信じて疑わなかった声が、正体を表すかのように低く男性的なものに変化する。護衛はたやすく葬ったのに、未だ自分を殺さないということは、殺してはならない理由があるのだろうか。
スーはサイオンで身につけていた武道を思い出し、令嬢に化けた小柄な男に手刀を繰り出す。
「――おっと、どうやら美しいだけの姫君ではないようだ」
突き出した手はすぐに捕まれ、捻りあげられる。
「あうっ!」
右肩に激痛が走り、ゴキっと関節が外れる音がする。すばやく容赦のない動きだった。
痛みを堪えながら、スーは絶望的な気持ちになる。護衛の不意をついたとは言え、一瞬で三人を葬った能力者相手に、自分が太刀打ちできるはずもない。
「誰かっ――!」
圧倒的に不利だと認めても、諦めることはできない。助けを求めて声をあげようとしたが、またすぐに男の手で口を塞がれる。
「あまりに物分かりが悪いと、損をしますよ」
男がスーを荷物のように抱えあげた。肩から外された右腕は動かせない。捻った足では素早く走ることもできない。
屍となった護衛が横たわる通路を、男は向かっていた部屋とは反対に走り出す。
スーを抱えているにも関わらず、俊足で足音がしない。
「離して!だれか――っ」
声を出すなと言いたげに、男の拳がスーのみぞおちにめり込む。強烈な痛みと衝撃で吐き気を催し、声が出なくなる。
スーが一撃に悶絶している間にも、男はスーを担ぎ上げたまま、どんどん王宮の見知らぬ場所へと進んでいく。入り組んだ通路は、まるで隠れた抜け道のように続いている。
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このまま連れ去られたらどうなるのか。
殺されるのか。あるいはルカに迷惑をかける事態になるのか。
(どっちもごめんだわ)
スーは自分を抱えている男の肩に、思い切り噛み付く。令嬢仕様のドレスはデコルテが開いていて、男の生身に歯を立てられた。自力で逃げきれなくても、時間稼ぎをすれば助けが来てくれるかもしれない。一縷の希望にすがって、肩の肉を引きちぎる勢いで顎に力を込めると、男が叩きつけるようにスーの体を床に放り出した。
「くっ……!」
肩と足に激痛が走り、叩きつけられた衝撃で脳震盪を起こしそうになる。気を失いそうな痛みで目の前が暗転しかけたが、スーはギリっと歯を食いしばった。
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