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第二章:帝国クラウディアの皇太子
8:愛らしい珍獣
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商業都市である第三都ガルバの視察は滞りなく終わり、ルカはすこし逡巡してから、王女を迎えた私邸へ戻ることにした。
王女が来てから、日没前に帰宅するのは初めてかもしれない。律儀な王女は突然の帰宅でも、玄関先まで迎えに駆けつけるのだろうか。
ルカが屋敷へはいると、整列する使用人に声をかける前に、何かが飛んできた。ふわりとした甘い香りを感じながら、どしんと激しい勢いで衝突してきたものを受けとめる。
「ルカ殿下! おかえりなさいませ!」
首に抱き着くようにしっかりと腕を回して、自分に縋りついている珍獣。それを王女だと認識するのに、ルカには一呼吸が必要だった。
「――王女?」
仰天しすぎて、動作が緩慢になってしまう。ルカが抱きとめたスーをゆっくりと床におろすと、嬉しそうに輝く笑顔がこちらを仰いでいる。
「おかえりなさい!」
屈託のない笑顔。まるで主人の帰宅を喜ぶ犬のようだ。尻尾があるなら忙しなく動いているに違いない。淑女の慎みが感じられないが、これがサイオン流の出迎えなのだろうか。
困惑するルカを置き去りに、スーは声を高くする。
「殿下がこんなに早くお戻りになるなんて! とても嬉しいです!」
「……ただいま戻りました。王女、これはサイオン流の出迎えですか?」
「いいえ。嬉しいと思う気持ちを表現してみました! 先生に教えていただいたのです。わたしが堅苦しいと、殿下も窮屈な気持ちになるので、このお屋敷内では自然体であられる方が良いと。それに、私的な場では、クラウディアでもこのようにお出迎えすると聞いたので」
「……教師が?」
「はい!」
いったい、どのような話の流れで、王女にそのような助言を与えることになったのか。ルカには見当もつかないが、スーの気持ちが前向きになれる配慮なのだろうと受け入れる。
熱烈な出迎えは、恋人同士の再会のようで度をすぎているが、王女の気分に水を差す必要もない。ルカは小動物のように懐いてくるスーに微笑んで見せた。
「そうですね。あなたには、私の前では自然体で過ごしていただきたいです」
後々このやりとりを死ぬほど後悔することになるが、今の彼が知る由もない。
「では、殿下にお願いがあります!」
「私に?」
「はい。私のことは王女ではなく、スーとお呼びください!」
ますます尻尾を振って懐く小動物のようだなと思いながら、ルカは「わかりました」と答えた。
「あなたが望むなら、そのようにいたしましょう、スー」
見ていておかしくなるほど、王女の顔がぱっと華やぐ。美しい顔をしているのに、表情が豊かで愛くるしい。ガウスの言っていたことが、今頃になって腑に落ちる。
ポーカーフェイスとは程遠い屈託のなさは、ルカにも好ましく感じられた。
「ありがとうございます、殿下!」
とびきりの笑顔を弾けさせてから、スーが居住まいを正すように一歩後退する。
「では改めて。おかえりなさいませ、殿下」
学んだ礼儀作法をお披露目するかのように、スーが表情を改める。
姿勢を正し、作法通りにドレスの裾をさばくと、ほどよく膝を折って優雅に頭を下げた。
お辞儀の角度、指先の美しさ、背筋、足先、タイミング、非の打ちどころがない。
見事にクラウディアの作法を体現していた。
スッと体勢を戻すと、スーが大人っぽい笑みを浮かべる。
「お帰りをお待ちしておりました」
神秘的で妖艶な美姫。あと数年もすれば異性を悩ませるのだろう美貌が際立つ。
彼女がクラウディアでの教育に励んでいるのが見て取れた。
「素晴らしい」
自然に言葉になる。すぐにスーの顔から妖艶な仮面が剥がれ落ちる。
「先生方のおかげです。殿下にも成果を披露させていただきました」
褒められたことをはにかんでいるのか、スーの白い頰が上気している。
素直な王女だなと言うのが、ルカの感想だった。
「では、スー。せっかくなので、本日は私と夕食をご一緒していただきましょう」
「え?」
一瞬で戸惑った顔になり、スーがオロオロと背後に控えている侍女のユエンを振り返る。
「何か問題が?」
「いえ、あの、とても光栄で喜ばしいことなのですが、わたしはまだ食事の作法には自信がありません」
そんなに難しいことがあっただろうかと、ルカが不思議に思っていると、スーが暴露する。
「殿下に楽しいと思っていただけるひと時を提供できるかどうか、まだ自信が……」
ルカは彼女が途轍もない上級作法を目指していることを悟る。どうやら作法は食事中の話術にまで及んでいるようだ。いささか目指す理想が高すぎるかもしれない。彼女を導く教師たちに少し釘を刺しておこうと考えながら、戸惑うスーに笑ってみせた。
「ここではあなたらしく。――スーが良く学んでいるのは、私の耳にも入っています。私との食事は他愛なく過ごしてください。そのように気負う必要はありません」
「……殿下」
薔薇色というのは、こういうことを言うのだろうか。頬を紅潮させて自分を仰ぐスーの顔色を美しいと感じる。この上もなく無防備な王女。同時に、出会った時から感じていた疑問が、再び頭をもたげてきた。
「スー、では、また後ほど」
さいわい浮かび上がった疑問を解消する機会も時間もある。
彼女と共にする夕食のひととき。楽しみなのか不安なのかよくわからない心持ちのまま、ルカは上着を使用人に預けながら、夕食について指示を出す。
自室へ向かうため玄関ホールの階段前へ歩み、ルカはふと背後を振り返った。スーが立ち尽くしたまま、じっとこちらを見ている。ルカの視線に気づくと、遠目にもわかるほど、白い肌が真っ赤に染まった。あたふたとした様子で、小さく会釈する。
「?」
静かに佇んでいれば神秘的な美姫なのに、仕草でこれほど印象が変化するのかと、ルカはおかしくなる。スーの言動には謎が多そうだ。愛らしい珍獣という印象を抱えたまま、ルカは自室へ向かった。
王女が来てから、日没前に帰宅するのは初めてかもしれない。律儀な王女は突然の帰宅でも、玄関先まで迎えに駆けつけるのだろうか。
ルカが屋敷へはいると、整列する使用人に声をかける前に、何かが飛んできた。ふわりとした甘い香りを感じながら、どしんと激しい勢いで衝突してきたものを受けとめる。
「ルカ殿下! おかえりなさいませ!」
首に抱き着くようにしっかりと腕を回して、自分に縋りついている珍獣。それを王女だと認識するのに、ルカには一呼吸が必要だった。
「――王女?」
仰天しすぎて、動作が緩慢になってしまう。ルカが抱きとめたスーをゆっくりと床におろすと、嬉しそうに輝く笑顔がこちらを仰いでいる。
「おかえりなさい!」
屈託のない笑顔。まるで主人の帰宅を喜ぶ犬のようだ。尻尾があるなら忙しなく動いているに違いない。淑女の慎みが感じられないが、これがサイオン流の出迎えなのだろうか。
困惑するルカを置き去りに、スーは声を高くする。
「殿下がこんなに早くお戻りになるなんて! とても嬉しいです!」
「……ただいま戻りました。王女、これはサイオン流の出迎えですか?」
「いいえ。嬉しいと思う気持ちを表現してみました! 先生に教えていただいたのです。わたしが堅苦しいと、殿下も窮屈な気持ちになるので、このお屋敷内では自然体であられる方が良いと。それに、私的な場では、クラウディアでもこのようにお出迎えすると聞いたので」
「……教師が?」
「はい!」
いったい、どのような話の流れで、王女にそのような助言を与えることになったのか。ルカには見当もつかないが、スーの気持ちが前向きになれる配慮なのだろうと受け入れる。
熱烈な出迎えは、恋人同士の再会のようで度をすぎているが、王女の気分に水を差す必要もない。ルカは小動物のように懐いてくるスーに微笑んで見せた。
「そうですね。あなたには、私の前では自然体で過ごしていただきたいです」
後々このやりとりを死ぬほど後悔することになるが、今の彼が知る由もない。
「では、殿下にお願いがあります!」
「私に?」
「はい。私のことは王女ではなく、スーとお呼びください!」
ますます尻尾を振って懐く小動物のようだなと思いながら、ルカは「わかりました」と答えた。
「あなたが望むなら、そのようにいたしましょう、スー」
見ていておかしくなるほど、王女の顔がぱっと華やぐ。美しい顔をしているのに、表情が豊かで愛くるしい。ガウスの言っていたことが、今頃になって腑に落ちる。
ポーカーフェイスとは程遠い屈託のなさは、ルカにも好ましく感じられた。
「ありがとうございます、殿下!」
とびきりの笑顔を弾けさせてから、スーが居住まいを正すように一歩後退する。
「では改めて。おかえりなさいませ、殿下」
学んだ礼儀作法をお披露目するかのように、スーが表情を改める。
姿勢を正し、作法通りにドレスの裾をさばくと、ほどよく膝を折って優雅に頭を下げた。
お辞儀の角度、指先の美しさ、背筋、足先、タイミング、非の打ちどころがない。
見事にクラウディアの作法を体現していた。
スッと体勢を戻すと、スーが大人っぽい笑みを浮かべる。
「お帰りをお待ちしておりました」
神秘的で妖艶な美姫。あと数年もすれば異性を悩ませるのだろう美貌が際立つ。
彼女がクラウディアでの教育に励んでいるのが見て取れた。
「素晴らしい」
自然に言葉になる。すぐにスーの顔から妖艶な仮面が剥がれ落ちる。
「先生方のおかげです。殿下にも成果を披露させていただきました」
褒められたことをはにかんでいるのか、スーの白い頰が上気している。
素直な王女だなと言うのが、ルカの感想だった。
「では、スー。せっかくなので、本日は私と夕食をご一緒していただきましょう」
「え?」
一瞬で戸惑った顔になり、スーがオロオロと背後に控えている侍女のユエンを振り返る。
「何か問題が?」
「いえ、あの、とても光栄で喜ばしいことなのですが、わたしはまだ食事の作法には自信がありません」
そんなに難しいことがあっただろうかと、ルカが不思議に思っていると、スーが暴露する。
「殿下に楽しいと思っていただけるひと時を提供できるかどうか、まだ自信が……」
ルカは彼女が途轍もない上級作法を目指していることを悟る。どうやら作法は食事中の話術にまで及んでいるようだ。いささか目指す理想が高すぎるかもしれない。彼女を導く教師たちに少し釘を刺しておこうと考えながら、戸惑うスーに笑ってみせた。
「ここではあなたらしく。――スーが良く学んでいるのは、私の耳にも入っています。私との食事は他愛なく過ごしてください。そのように気負う必要はありません」
「……殿下」
薔薇色というのは、こういうことを言うのだろうか。頬を紅潮させて自分を仰ぐスーの顔色を美しいと感じる。この上もなく無防備な王女。同時に、出会った時から感じていた疑問が、再び頭をもたげてきた。
「スー、では、また後ほど」
さいわい浮かび上がった疑問を解消する機会も時間もある。
彼女と共にする夕食のひととき。楽しみなのか不安なのかよくわからない心持ちのまま、ルカは上着を使用人に預けながら、夕食について指示を出す。
自室へ向かうため玄関ホールの階段前へ歩み、ルカはふと背後を振り返った。スーが立ち尽くしたまま、じっとこちらを見ている。ルカの視線に気づくと、遠目にもわかるほど、白い肌が真っ赤に染まった。あたふたとした様子で、小さく会釈する。
「?」
静かに佇んでいれば神秘的な美姫なのに、仕草でこれほど印象が変化するのかと、ルカはおかしくなる。スーの言動には謎が多そうだ。愛らしい珍獣という印象を抱えたまま、ルカは自室へ向かった。
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