帝国の花嫁は夢を見る 〜政略結婚ですが、絶対におしどり夫婦になってみせます〜

長月京子

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第一章:小国サイオンの王女

5:サイオンの伝統

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 スーのために用意されたのは、一室ではなく、豪邸の一角と言ったほうがふさわしい広さだった。寝室はもちろん、圧倒的な広さを持つリビングは吹き抜けになっているのか、天井が高い。いつでも自由に行き来できる専用の浴室と、リビングから続くテラスは庭とつながり、美しい花壇まで備えている。

 調度も真新しく、帝国式の華やかな装飾や意匠を刻まれた家具を見ているだけで、心が踊る。
 ユエンと二人きりになると、スーはさっそく「素晴らしいわ!」と声を上げて、用意された部屋やテラスを見て回った。

「こんなところで、ルカ殿下と一緒にお茶を飲めたら幸せね」

 日没が近い空模様は幻想的で、スーはうっとりと妄想に浸る。

 物心ついてから、全く心の踊らない政略結婚も覚悟していたので、ここまで最高にお膳立てされ、相手も非の打ちどころがない麗しい皇太子となると、現実味が希薄になる。

 夢見心地のまま夜を迎え、高ぶった気持ちのまま天蓋のある大きな寝台に入るとユエンが可笑しそうに笑う。

「良かったですね、姫様。とても素敵な方で」

「ええ。実は夢でも見ているんじゃないかって、まだ疑っているけど」

「姫様があまりに素直で、私は笑いを堪えるのに必死でした」

 皇太子の私邸に入ってから、ずっと目を輝かせているスーの様子を、ユエンは微笑ましく見守ってくれていたらしい。
 スーはそんなに態度に出ていたかしら?と、首をひねる。

「とにかく、全てが夢でないことを祈るしかないわ」

「大丈夫ですよ、姫様。明日目覚めても、何も変わりません」

「ありがとう、ユエン」

 スーはルカを思い出してときめく気持ちのままに、ユエンに素直にこれからの作戦を語る。

「わたし、絶対にルカ殿下のお気に入りになってみせるわ!」

「お気に入りですか?」

「そうよ。殿下にはきっと他にも素敵な妃がたくさんいらっしゃると思うけど、わたしのことを、きちんと覚えてほしいの」

 握り拳を作って意気込むスーに、ユエンは不思議そうに首を傾げた。

「姫様、たしかに帝国の皇家は一夫多妻ですが、ルカ殿下はまだ姫様以外に誰かをお迎えになったことはありませんよ?」

「え?」

「姫様は帝国のことを知ろうとなさいませんでしたからね」

「え? だけど、あんなに素敵な方が、まだお独りなの? 皇太子なのに?」

 仰天するスーに、ユエンは少し戸惑ったような顔をする。

「ルカ殿下の通り名を知ったら、姫様も少しは理解なさるでしょうね。でも、わたしからはお伝え致しません。姫様には、周りの声よりも、姫様自身が感じた殿下のことを信じるのが良いでしょう」

「そんなふうに言われると、とても気になるのだけど」

「わたしが申し上げられるのは、殿下には姫様以外の妃がいらっしゃらないという事実だけです。良かったではないですか。あんなに素敵な方を独り占め出来て」

 意味ありげな言い方をするユエンに、スーは眉間に皺を寄せて見せたが、持ち前の切り替えの良さでやる気をたぎらせる。

 もっと最悪な政略結婚に身を捧げる覚悟もあったのだから、少々のことでは戸惑わない自信があった。

「そうね。妃がまだわたしだけなら、わたしは殿下と誰もが羨むオシドリ夫婦になれるように励むわ!」

「その調子です、姫様」

「絶対に、殿下にわたしを好きになっていただくんだから!」

「はい。ですが、姫様。頭の悪い愚かな女性は誰も好みませんので、明日に備えて本日はもうお休みください」

「そうね」

 明日からのスケジュールは決して甘くはない。スーは大人しく寝台に横になった。

「姫様。本日は気持ちが昂っておられるでしょう? こちらをお召しになって眠られては?」

 ユエンがスーの寝台に備えられている小物を入れる引き出しから、小さな布を取り出した。

 サイオンでは麗眼布れいがんふと言われ、安眠を促したい時には、眠る時に目元に布を当てる習慣があった。
 各々の家によって刺繍の意匠が決まっており、昔は継承布けいしょうふと言われ代々手作りされてきたが、最近では意匠の図案通り制作を請け負うような商いも流行ってきていた。

 古からのサイオンの伝統。

 麗眼布をして眠ると、深い眠りに誘われ、夢を見ることもないと言われている。
 事実かどうかはともかく、スーも麗眼布をして眠った後に、目覚めてから夢を覚えていたことはない。翌朝のスッキリと冴えた感覚は、幼い頃から幾度も体験してきた。

「ユエン! ありがとう! 実は支度も碌にできず出てきて、どうしようって気になっていたのよ。自分で作ろうかと思っていたくらい!」

「これからは、わたしが幾らでもお作りしますので、ご安心ください」

「ありがとう」

 スーはサイオン王家にだけ許された複雑で美しい意匠をもった麗眼布を受け取る。

「クラウディアの王家にも、王家の意匠や紋章があるわよね」

「もちろんございますよ」

「じゃあ、いつかわたしが手作りしたものを殿下に贈りたいわ」

「そうですね、とても良いと思いますよ」

 そっと目にあてがいながら、スーは寝台で目を閉じる。麗眼布の遮光性は素晴らしく、深く心地の良い闇が広がる。
 昂っている感情を上回る静謐な闇。心がすうっと落ち着く。

 スーはすぐに穏やかな闇に呑まれ、寝息をたてはじめた。





 眠りに落ちると、スーは心地の良い深淵の中を浮遊していた。

(ああ、この感じ)

 質量を失ってしまったかのように体が軽い。
 夢を見るたびにいつもの光景だと思うのに、目覚めている時には決して思い出せない。

 何も見えない暗闇。視界には何も映らないのに、この世界がとても澄明であることがわかる。
 やがていつものように、遥か頭上から白い帳がまっすぐに下りてくる。

 赤や緑、紫、青、黄色。まるで七色のオーロラのような輝きを伴って、喜劇の緞帳のようにゆっくりと視界いっぱいに垂れ下がり、深淵に光の洪水をもたらす。

 光の帳がスーの眼前まで落ちかかってくると、それがおびただしい言語の群れだとわかる。
 無限に記された数式と言語。描かれては押し出されるように費えていく。

 スーの視界を上から下へと流れ、決して止むことはない。

 やがて、それだけが脳裏を埋め尽くす。

――サイオン。

 声がした。
 聞きなれた美しい声。自分に多くのことを教え導いてくれた天女。

 目覚めれば、決して覚えてはいないけれど。

 スーは輝く数式を眺めながら、美しい声を聞いていた。
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