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Epilogue3(相原/倉田)
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彼の全身は、砂のような疲労感とベルベットのような充足感の両方に満たされていた。長い一日が終わり、自分の部屋のベッドに倒れ込んで、彼はそのまま温い眠りの底に沈みかけていた。
シャワー、浴びなきゃ。
口に出してそう言ったが、彼の身体を包んでいるのは甘いバタークリームの香りだった。それからキャラメル、林檎、アーモンド、その他の瑞々しい果実。オーブンの中から漂う香ばしさや抹茶のほろ苦さ、そして芳醇なリキュールやラム酒の香り。
やっぱこのままでいいや、と彼は思った。
ハニーブロンドに染めた髪と色素の薄い肌とに滲み込んだ今日の香りを洗い流してしまうのは、今夜の彼にとってはあまりに勿体ないことに思われた。
倉田さん、もう箱、開けたかな。
抹茶リキュールのアトマイザー、もう見つけたかな。
瑞希さん、喜んでくれたかな。
甘やかな夢の中へすべり落ちながら、彼は思った。
ほんとに、あきらめなくてよかった。
「それでは、本日のケーキをサービスさせていただきます」
勿体ぶった口上と共にアトマイザーを取り上げ、倉田聡一はカッティングボードに乗った抹茶色の直方体にリキュールを吹き付けた。
「うわ、いい香り」
彼の妻である倉田瑞希が、思わずといった風に感嘆の声を上げる。
予想に反して、箱の中に収められていたのはムースでもテリーヌでもなく、焼き菓子だった。彼がナイフを入れると、心地良い手応えとともに刃が沈む。
「綺麗。これ、林檎?」
断面を見て、彼女はテーブルに身を乗り出した。
抹茶生地の中に、儚いほどに薄くスライスされた林檎が美しい層を描いている。下の方には栗の断面が並び、上の方には雪が積もったようなナッツの層があった。
抹茶に林檎は珍しい、と彼が言い、でも絶対合うよ、と彼女が応じる。
二人は三十年愛用している小ぶりな四角いテーブルにいつもの九十度の角度で座り、いただきます、と軽く指先を合わせてからフォークを取った。
ひと口食べて目を見張り、そこからじわりと笑顔が広がる。今日で結婚三十周年を迎えたこの二人は、まったく同じタイミングで顔を見合わせ、美味しい、と言った。
シャワー、浴びなきゃ。
口に出してそう言ったが、彼の身体を包んでいるのは甘いバタークリームの香りだった。それからキャラメル、林檎、アーモンド、その他の瑞々しい果実。オーブンの中から漂う香ばしさや抹茶のほろ苦さ、そして芳醇なリキュールやラム酒の香り。
やっぱこのままでいいや、と彼は思った。
ハニーブロンドに染めた髪と色素の薄い肌とに滲み込んだ今日の香りを洗い流してしまうのは、今夜の彼にとってはあまりに勿体ないことに思われた。
倉田さん、もう箱、開けたかな。
抹茶リキュールのアトマイザー、もう見つけたかな。
瑞希さん、喜んでくれたかな。
甘やかな夢の中へすべり落ちながら、彼は思った。
ほんとに、あきらめなくてよかった。
「それでは、本日のケーキをサービスさせていただきます」
勿体ぶった口上と共にアトマイザーを取り上げ、倉田聡一はカッティングボードに乗った抹茶色の直方体にリキュールを吹き付けた。
「うわ、いい香り」
彼の妻である倉田瑞希が、思わずといった風に感嘆の声を上げる。
予想に反して、箱の中に収められていたのはムースでもテリーヌでもなく、焼き菓子だった。彼がナイフを入れると、心地良い手応えとともに刃が沈む。
「綺麗。これ、林檎?」
断面を見て、彼女はテーブルに身を乗り出した。
抹茶生地の中に、儚いほどに薄くスライスされた林檎が美しい層を描いている。下の方には栗の断面が並び、上の方には雪が積もったようなナッツの層があった。
抹茶に林檎は珍しい、と彼が言い、でも絶対合うよ、と彼女が応じる。
二人は三十年愛用している小ぶりな四角いテーブルにいつもの九十度の角度で座り、いただきます、と軽く指先を合わせてからフォークを取った。
ひと口食べて目を見張り、そこからじわりと笑顔が広がる。今日で結婚三十周年を迎えたこの二人は、まったく同じタイミングで顔を見合わせ、美味しい、と言った。
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